第2話 いなくなった友だち

「スヌーピー、どこに行ったの? スヌーピー」

 日の暮れかかった公園で、武彦は大切な友だちを探して走りまわっていた。


 一週間前に柴犬に近い雑種の子犬を拾った。母親の好きなキャラクターの名前をつけたのは、飼うのを許してもらうためだ。

 だがマンション暮らしではどうにもならない。

 友だちと別れられない武彦は、両親に黙って公園で飼い続けていた。


 その日は土曜日。

 めったに雪の降らない街に、昼過ぎから雪が舞い始める。積もるという天気予報を聞いた武彦は、今夜だけ犬をつれて帰ろうと公園に行った。

 ところが毛布を敷いた箱の中にスヌーピーはいない。


 寒さを避けられる場所にいればいいのにと心配しながら、草むらやベンチの下を探す。でもどこにも姿をみつけられない。

「スヌーピー……」

 友の行く末を案じて武彦が肩を落としていると、別荘地に続く山道の方で犬の吠える声がする。名前を呼ぶと返事をするようにワン! という声が聞こえた。

「そっちにいたんだね。今行くから!」

 積もり始めた雪の上を転ばないように気をつけながら、武彦は走る。雪はほおを切るように冷たく、吐く息が白く凍った。


 十分ほど探しまわったところで、ようやくスヌーピーを見つけた。

 声をかけると尻尾をふって答える。武彦は子犬を抱き上げた。ダウンジャケットのファスナーを下ろし中に入れると、友の温もりが伝わる。

 ほっとした武彦は家に帰ろうとしてきた道をふりかえった。だが――。

「あれ、ここは……どこ?」


 何度か来たことのある山道は、黄昏どきの中で見知らぬ場所に変わっている。歩き慣れた道から外れてしまったようだ。

 雪が数センチ積もったため車も通らない。助けを呼ぼうにも、街灯はもちろん人影もない。

 武彦はスヌーピーを抱き、途方に暮れながら知った道を探してさまよう。


「お父さあん! お母さあん!」

 両親が探しに来ていることを期待し大声で呼んでみたが反応がない。幼い武彦はどうしようもない絶望感に襲われ、体が動かなくなった。

 だが悪いことばかりだけではな買った。すっかり日が落ちたのが幸いし、遠くに灯がともされているのを見つけた。


「スヌーピー、行ってみよう」

 疲れと空腹で武彦の体力はほとんど残っていなかった。気力だけで歩き始めたが、灯まであと少しまで来たところで足が動かなくなった。

 最後の力で踏み出した一歩は体を支えられず、武彦は地面に崩れ落ちる。その直前、スヌーピーが武彦の胸元から飛び出した。


 犬の鳴き声が遠ざかる。武彦はそれを目で追うこともできない。雪でぬかるんだ冷たいはずの道は、不思議と温かい。

 冷えきった体の感覚は麻痺していたのだろう。ひどい眠気に襲われて、武彦はゆっくりと目を閉じた。



  ☆  ☆  ☆



 武彦が目を開けたとき、見覚えのない天井が見えた。

「ここは……どこ?」

 ゆっくりと起き上がり、今いる場所を観察する。

 木のにおいのするリビングで、武彦は毛布をかけられてソファベッドに寝かされていた。部屋の一角にはテーブルといすがある。暖炉で燃える火が部屋を暖めていた。


 雪の中で凍え死んで、天国に来たのだろうか。武彦は試しに自分のほおをつねってみる。

「いたっ」

 少なくとも夢ではなさそうだ。


「あら、目が覚めたようね。もう寒くない?」

 扉が開いて、女性が入ってきた。

 透けるような真っ白な肌に黒い髪をした、きれいな人だ。白いワンピースが目に眩しい。

 女性は武彦の着ていた服を枕元においた。そのとき初めて、自分がだぶだぶのTシャツを着ていることに気づいた。


 知らない人に話しかけられると、武彦はなんと答えればいいのかわからない。黙ったまま俯いていると、鳴き声とともに子犬が入ってきた。

「スヌーピー!」

 武彦が呼ぶと子犬は駆け寄り、嬉しそうに腕に飛び込んだ。


「この子偉いわね。倒れてるきみのところに私を引っ張っていったのよ」

「スヌーピーが?」

 武彦は子犬を抱きしめた。温もりが優しくて涙が出てきた。


「命の恩人ね」

「でも、スヌーピーはうちの犬じゃない。お母さんが飼っちゃダメって。ぼくんちマンションだから……」

 武彦は手の甲で涙を拭いながら答えた。


「そうなの」

 女性は寂しそうに頷いて、真っ白なハンカチを渡してくれた。武彦はいい匂いのするそれで、涙を拭いた。

「ねえ、おなか空いてない?」

 女性の視線を追うと、テーブルの上にサンドイッチとおにぎりを見つけた。とたんにおなかの虫が鳴る。


「どうぞ、お食べなさいね」

 武彦は椅子に座り、サンドイッチを頬張る。温かいココアを飲むとようやく落ち着いて、いろいろなことを考える余裕が生まれた。


「あの……ここは天国ですか? お姉さんは女神さまですか?」

 おそるおそる訪ねると、正面に座った女性は最初目を大きく開き、意味を理解して破顔する。

「ここは日本ですよ。坊やはちゃんと生きてます」

「坊やじゃないです。もう小学生だし……」

「ごめんね。じゃあ名前は?」


 武彦は困った。

 知らない人には名前や住所を教えない。それが学校や家で教えられたことだ。でもこのままでは坊や扱いされる。それだけはごめんだ。

 武彦はしばらく悩み、名前だけ告げた。

「名字は? 家の電話番号は?」


 それ以上は答えられない。おにぎりに視線を落として黙り込む武彦を見て事情を察したらしく、女性は腕を組んで軽くため息をついた。

「今どきの子供は大変ね。どこに不審者がいるかわからないもの」

「ごめんなさい……」

 呟くように謝る武彦を、女性はとがめることなく気の毒そうに頷いた。


「そんなことより、もう寝なさい。朝には雪もやんで、家に帰れると思うわ」

「はい……」

「家の人には申し訳ないけど、一晩だけ心配かけるわね」

 困ったように眉をひそめ、軽いため息を残して女性は部屋を出た。


 武彦はまたベッドに潜り込んだ。スヌーピーはソファベッドの足下でミルクを飲んでいる。ぱちぱちと木の弾ける音を聞きながら、疲れたひとりと一匹はまもなく眠りに落ちた、



 どのくらい時間が過ぎただろう。夜中に人の気配を感じ、武彦は目を覚ました。

 自分のすぐそばに立っているのは、先ほどの女性だ。何をしているのか気になって顔を向けようとする。だが体がいうことをきかない。寝返りどころか、首を動かすこともできない。

 せめて声を出したかったが、それもできない。

 自分が鉛の塊になったように、どんなに力をふりしぼっても指一本動かせなかった。

 そのとき武彦は、いつかの集団登校で上級生から聞かされた話を思い出した。


 ――知ってるか? 幽霊が出たら、金縛りにあって体が動かなくなる。そうなったらもう逃げられない。殺されるんだぜ。


(殺される?)

 そう思ったとたん、動かせない体に震えだけが起きる。


 女性がスヌーピーを抱き上げたのが、気配で分かった。

(だめだ。友だちを、命の恩人を連れていかないで。スヌーピーを殺さないで)

 そう叫びたかった。だがどんなにがんばっても声が出ない。白いワンピースの女性は子犬を連れて部屋を出た。

 武彦はひとりリビングに残された。


 次に女性が入ってきたら、それが自分の死ぬときかもしれない。そう思うと恐くてたまらなかった。

 動けない恐怖。大切な友だちを連れ去られた悲しみ。

 指一本動かせない自分、何もできなかった自分が心底情けない。


 涙が耳を伝って落ち、枕を濡らす。動けないのに泣くことだけはできるのが不思議だった。

 武彦は、連れ去られた友だちと死の足音を思い、ずっと泣き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る