第8話 白銀の青年
「あんた、俺と結婚することになったんだって?」
「え」
「聞いてないのか?」
「なんのお話でしょう」
「俺たちを婚約させるってご主人たちが決めたらしいぞ」
よく聞いてもやはり分からない。
「主人が下男とメイドを結婚させたいってのは、二人とも手放したくない人材ってこったぜ。ずっと自分の家で働いてほしいってこった。俺たち、重要な人材って思われてんだぜ」
俺たち、と言う時、真顔で一歩近づいてきた。少し照れたように頬をかき、
「俺の部屋そこだけど、ちょっと中で話すか?」
「いえ、あの」
頭が真っ白になりながら一歩下がるが、すかさず手首を掴まれる。ずんぐりとした手には有無を言わせない力がこもっている。
「あんた、勝手に仕立て屋から借金負ったんだって? バウマン家が肩代わりしたらしいぞ。めちゃくちゃ怒ってるってよ。一生メイドの身分にするってよ」
マレクが嘘をついているかもしれない、けれども十分ありうる話だとも思った。父が自分のために仕立て屋の借金を負ってくれるのは想像できなかったから。
「あの」
「照れてるんのか?」
不意に覆いかぶされて息が止まりそうになる。石を入れた籠を落としてしまった。二人を中心に石は散らばった。
慌てて屈むとマレクも腰を下ろした。
手伝いは結構です、と言おうとしたらいきなり肩を抱かれた。ぐいっと引き寄せられると、酒気が強く香る。
「おお、近くで見ると……肌がそこら辺の庶民メイドと全然ちげえ。すっげえいい匂い」
「ごめんなさい。あの、私、そのお話初耳なんです。ご夫妻に確かめさせてください」
離れようとしても放してくれない。鼻で笑うような声がする。
「なんだぁお前。エルマハルトのことが忘れらんねえのか? あんな酷え目に合わされたくせによお」
「…………」
「ちと酷すぎるよなあ。お前の前で新しい可愛い娘にデレデレしやがって。ご主人の息子とはいえ見てらんねえや」
「…………」
「前はお前にデレデレだったのにな。俺、庭からこっそり見てたんだぞ。暇を見つけりゃこそこそ会いに行ってよ。それがあっさりだよ。悪魔かっつうんだよな? 俺はそんなこと絶対しな」
「もうやめて!」
顔を近づけてくるマレクから離れようとして、ガツ、という音がした。抵抗した手に握りしめていのは精霊石。
「い……痛え」
「あ、ごめんなさ……」
マレクは呻きながら額を押さえる。大丈夫ですか、と手を差し伸べようとして引っ込めた。目が怒りと殺気で燃え上がっていたから。
マレクは膝を立ててむくりと立ち上がる。同時にレインは身を翻して走りだす。
確か、生垣に抜け道があったはず。遠くへ。どこか遠くへ。
灯りはどこにいったのか分からない。暗くてよく分からないけれど道が続く限りとにかく走った。森の中に入ったのか月光が遮られますます暗くなる。
夜には野生動物も動く。
危険だと思うけれど、とにかく屋敷から少しでも離れたかった。
突然目の前が開けて、足を止めた。
「湖?」
樹々が消えて少し先、湖が一面に広がっていた。凪いだ水面は静かで、映した白い月は崩れていない。マレクの来る気配がないことを確かめてから、レインはようやく足を止めた。
湖に向かって屈みこむと、同時に憔悴しきった自分の顔が覗き込んでくる。
(これから、どうすればいいの?)
逃げたところで、どうせ屋敷に戻らなければいけないのに。
きっとマレクに酷い目に遭わせられて。
それからメイドの仕事に追われながら、やがてやってくるエルマハルトとアルシェビエタの結婚、出産。育児はきっと全て押し付けられて、レインが仕事に追われている間に二人は自由に遊んだり旅行をしたり。二人が楽しんだ分だけレインに押し寄せがきて、くたくたに疲れて寝床に戻れば暴力を振う男が待っているのだ。
でもレインは休まない。二人の家庭の平和を保つことは、アプソロン家の名誉を守ることだから。
ふらりと体が傾いた。黒い水の顔が近づいてくる。おいでと口が動いた気がする。こっちの方がずっと楽よ、と。
更に身を乗り出したその時、トントンと肩を叩かれる。
「え……?」
悲鳴をあげそうになったが、振り返ってそこにいたのはマレクではなかった。
見たこともない白い青年が、無言で首を横に振っていた。
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