第6話 再び会ったその時は

 アルシェビエタは生まれてから、思い通りにならないことはなかったのだと思う。


 生まれた時は可愛くて嬉しくて。仲良くなりたい思っていたけれど、自分の人生を半分以上奪う存在だと気がついてからは恐れの対象になった。


 妹が始めに思い通りにしたがったのは親の愛。

 元々父はレインの黒髪をことのほか嫌っていたように思う。初めは辛うじて保たれていた関係も、いつしか自身と同じ金色の髪をもつ妹のみを愛すようになっていた。


 床を拭きながら、存分に親に甘える妹をレインは横目で見ていた。ソファに座る父の髪を妹が引っぱると父の目が嬉しそうに細まる。まるで絵画のような完璧な愛の光景。次の部屋の掃除はどうした、と叱られるまでこっそり盗み見ていた。


 一度、思い切って仕事中の父の膝に飛び乗ってみたことがある。すぐさま床に叩き落とされ、出ていけと怒鳴られた。自室にかけ込んでベッドに潜り込んだ。恥ずかしさと痛さで死にそうになりながら。


 日々の勉強は決して欠かさなかった。アプソロン家の長女としてきちんとした令嬢になれば、父が一心に愛を注ぐ妹を支えられる人間になれば、認められる日は絶対に来る。そう思えば、ひとり家族旅行に置いていかれても、勉強に没頭していれば平気でいられた。


 おかげで学校ではトップに近い成績を修め、『どこに出しても恥ずかしくない淑女です』と厳しかったマナーの先生に優をつけてもらった。

 誇らしい思いいっぱいのまま乗った帰りの馬車。早く成績優秀者へ贈られる書状と真紅の炎踊石を父に見せたかった。一体どんな顔をするのだろう。


 もっと胸が弾むものかと思っていたけれど、意外にも心は落ち着いていた。それどころか落ちる一方で、大事に抱えていた書状が急につまらない物に見えてくる。


 どうしても、父の喜ぶ顔が想像できないのだ。


 アルシェビエタが成績に伸び悩んでいるので、見せたらきっと嫌な顔をする。どうしてこの通知表がアルシェビエタではなくレインなのだと息をつく。


 レインは立ち上がり、御者に行き先を変えてもらった。エルマハルトなら、ちょっと悔しそうに苦笑しながらも、おめでとうと笑ってくれるだろうから。



 そのエルマハルトと再会するというこの時になって、レインは急に胸が苦しくなった。


「エルマハルトさまったら、どうして帰って来たのかしら? 確か国境警備に赴くって言ってたはずだけど……。ああ、お姉さまは知らないわね。危ない仕事だけどその任務につくと出世するらしいの。彼、とっても張り切っていたわ。私にいいところを見せたいみたい」

「アルシェビエタさま、あの」


 このままでは、エルマハルトと顔を合わせることになってしまう。

 いつかは来る時だと分かってはいるのに。


(どうして動揺しているの? 彼を嫌いになりにきたのを忘れたの?)


「エルマハルトさま! お帰りなさい!」

 一度たりとも自分の頼みなど聞いてもらったことはないのに。レインは止めようと伸ばした手を引っ込めるしかなかった。


「どうなさったの。今日から出立って言ってたのに!」

 アルシェビエタは勢いよく馬車の扉を開くと、迎えにきていたエルマハルトの首に向けて飛びついた。少しよろめきながら妹を抱き抱えるエルマハルト。やがてふっと笑って小柄な体を大事そうに降ろす。


「ただいまアルシェ。出立は明日の朝なんだ。時間があるなら一度顔を見せに来いって親がうるさくてね」

「もぉ、私に会いたかったって素直に言えばいいじゃない?」


 エルマハルトの首に手を回したままふふっと愛らしく笑う

 一方、車内に残されたままのレイン。降りるタイミングを完全に見失っていた。

(こんなところで抱きあわなくても……)


 遠慮とか配慮とかなさすぎて、呆気にとられるどころではない。

 一体どういうわけなのか。アルシェビエタの頭には、レインから彼を奪ったという事実は綺麗に消し去られているらしい。

 とてつもなく場違いな存在になってしまったレインは、どうか二人がこのまま自分のことを忘れてくれていますように、と心の中で祈る。


 アルシェビエタは楽しくなると周りが見えなくなる。このまま静かにしていればきっと大丈夫。


「今日ね。お姉さまと一緒に買い物に行ってきたのよ」

「……お姉さまって?」

 焦れたようなアルシェビエタの声に、エルマハルトの怪訝そうな声が聞こえてくる。

 姉、という言葉に反応したように思えた。

 まさかと思うが、自分がメイドになったことを知らないのだろうか。

 意を決して馬車から降りたレインを見て、エルマハルトは目を大きく見開いた。


(嘘でしょう? 本当に知らなかったの)


 短く切り揃えた銀色の髪。黒い革製の服で包んだ引き締まった長身は、立っているだけで迫力がある。

 レインは「お久しぶりです」という言葉を言おうとして喉が詰まった。

 ちらりと顔を上げると、レインを見る目がますます険しくなっている。

「……」

 そんな二人の顔を不思議そうに見比べていたアルシェビエタは、あ、と小さく手を合わせた。


「エルマハルトさま。もしかして聞いてらっしゃらない? お姉さまはうちのメイドになるのよ」

「メイド?」

 問い返したエルマハルトの眉間の皺がますます深くなった。

「よく分からないんだが、メイドと言ったのか?」

「お姉さまの縁談はなくなったのよ。行き場所がないからうちに来てもらったの」

「……縁談がなくなった?」

 自分から婚約を破棄したのに、何を驚いているのだろう。

「それでうちのメイドになるって本気なのか? 君は本当にそれでいいのか」

「はい。……それでは失礼いたします」


「誇りはないのか」

 すれ違いざまに言われて足を止める。

「お気になさらずに。私のことはメイドとして扱ってください」

「なあ、こっちを見て話せ」

「……っ!」

 肩に伸びてきた手を思わず振り払うと、体が小刻みに震えた。エルマハルトは驚いた顔をし、伸ばした手を宙に止めている。

「メイドでお嫌でしたら、どうかいない者として扱ってください」

「本当にそれでいいんだな」

 いいのかと問われても、他には修道院で生贄として選ばれる道か、家出をするしかない。

 答えられないでいると、エルマハルトは一転してつまらない者を見る目になる。

「なんか、気持ち悪いな」

 レインの返事を待たず、エルマハルトは踵を返してさっさと家へ向けて歩きだした。

 使用人たちが慌てたようにエルマハルトに集うが、煩わしそうに世話の手を跳ね除ける。


「あら、エルマハルトさま。どうなさったの? あ、お姉さま。荷物は忘れないでね」

 アルシェビエタはレインに命じると、小走りでエルマハルトを追いかけ、腕に絡みついていた。

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