第5話 源竜との出会い

「お姉さま。エルマハルトさまにあのドレス、内緒にしておいてね。驚かせたいの」


 仕立て屋での注文を終えて、公爵家への帰り道。馬車の中は狭くて、アルシェビエタはずっとレインに寄りかかるようにして座っていた。


 重さと息苦しさから逃れるように窓を見ると、通りは石畳から土へと田園風景に変わっていた。草原が地平線の向こうまで広がっていて、牛や羊がのんびりと草を食んでいる。


 レインの頭痛は少し和らいでいたが、突然アルシェビエタが覗き込んできて体が強張った。耳元で「見て!」と叫ばれ飛び上がりそうになる。


「お姉さま! 源竜さまが飛んでいるわ!」

「源竜さま?」


 陽光に目をすがめながら妹の指をさす方を見る。


 緩やかに蛇行して、雲をくぐるように空を泳いでいる竜が一匹。

 白い腹をみせて悠々と。牧場で働いてた人たちも源竜に気づいたのか、働く手を止めて祈りを捧げている。


 全ての精霊の頂にいる源竜。世界中の空を泳いで渡る神に等しい存在。


「いつ見ても綺麗」

 確か、手を合わせてお願いごとをすると叶えてくれると聞いたことがある。レインも目をつぶって手を合わせた。


(仕立て屋に払うお金を用意できますように。そしてもし叶うことがあれば)


 少し考えて、最後の言葉は祈りにせず胸の奥にしまうことにした。


 一方、アルシェビエタは御者席へと通じる小窓を開けて何かを話していた。

 ぴょんと跳ねるように隣に戻ってきた途端に馬車が大きく揺れた。風景が斜めになって、窓枠を掴んで体を支えた。


「じ、事故!」

「いいえ。馬車を飛ぶように命じたの。どうせならもっと近くでお願いごとしましょうよ」

「飛ぶ? どういうこと?」

「あら、知らなかったの? この馬車の馬、精霊石が埋め込まれてるのよ」

「え」

「やだ、お姉さまったら。バウマン家の人たちから何も聞いてなかったの?」


 アルシェビエタはふふっと悪戯っ子のように片目をつぶってみせる。


「錬金術師が王家に献上した最新の技術なの。動物に精霊石を飲ませて召喚するのよ。すると精霊が体内に棲みつくんですって」

「ええと、ということは、馬が馬車を空に運んでるってこと?」

「そうよ。見てご覧なさいな」


 さあどうぞとアルシェビエタは窓の外を手で示す。

 恐る恐るレインは窓から顔を出した。


(ほ、本当に飛んでる!)


 牛や羊がはるか下方にあり、山々の向こう側には海が広がっている。


 空中で四肢を動かしている馬は、力強く上へと駆けていく。全身に纏った白い光は背中で翼の形になっていた。


「すごい……」

「そうでしょうね」


 窓からの風で金色の髪が風で広がり、アルシェビエタの誇らしげな顔が全開になっている。


「風透精を使って飛翔する人はよくいるけど、こんな石の使い方で飛ぶ人がいるとは誰も思わないでしょう?」


「すごいと思うけれど、無理やり馬の体に閉じ込められた精霊は大丈夫なのかしら」


「え? 新しい存在になれて、しかも人間さまのお役に立てて嬉しいんじゃない? ねえ、それより見て。源竜に近づいてきたわ!」

「え……?」


 浮き足立っていた心がさっと凪いだ。昔言われた義母の嫌味が蘇る。


『その虫みたいに黒い髪と黒い目。もしかしたら源竜さまの生贄という名誉ある大役に選ばれるかもよ? 黒髪の女は滅多にいないから源竜さまに好まれるそうだし』


「アルシェビエタさま。お願いです、怖いから近づきすぎないでください。お願い」

「ねえ、ちょっと、源竜さまの真横を飛べない?」

 嬉々として御者に命じるアルシェビエタ。

 窓際に座るレインを押しのけて、子供のように窓から顔をだした。


「だって、たくさんの人が源竜さまにお願いするのよ。皆と同じようにしてどうするの」

「……」

「すっごい近くで聞いてもらわなくっちゃ。願いなんか叶うわけないんだから」


 妹のこういう強引さには素直に感心してしまう。


 欲しいものを手にするためのエネルギーと行動力。他人の顔色をうかがってばかりの自分には決定的に足りないもの。


「さあ、どんどん行くわよ!」


 車体が大きく傾いて、背中は強く壁に押しつけられた。

 風で乱れる黒髪を片手で抑えながら、レインは目を丸くする。


 巨大な竜と同じ高さにいた。視界を水平に遮っている。

 その圧倒的な存在感たるや。


 果てまで据えた神秘的な瞳に、白い鱗は蛇行するたびに揃って影を作る。

 鳥の声は一切聞こえず、眼下の全てが深閑としている。

 恐ろしいほど美しい存在を前に、アルシェビエタですら声を失っていた。


「さ、さあ、お願いごとをしなくっちゃ」

 珍しく怯えた様子で、アルシェビエタは手を合わせる。レインも茫然としたまま手を合わせた。


(お騒がせしてすみません。すぐに帰りますから、どうかお許しください)


 心の裡でつぶやくと、不意に源竜の目が動いた。

 探るようにまわり一点で留める。


(え、私を見てる? 嘘でしょ)


 合わせたままの瞳はレインから照準を外さない。心臓が爆発しそうなほど音をたて始める。


『マサカ、コンナトコロマデ、オソロシイ、ナンテオソロシイ、クロカ――』



「そろそろ起きてくれない? お姉さま?」

 声がして、微睡から目を開けた。

 向かい側の席で、妹はうんざりした顔で腕をくんでいた。馬車はいつの間にか地上に降りている。


「まさか、源竜さまに驚いて気を失うなんてね」

「ごめんなさい」

「今度は気をつけて……あ、あれ、エルマハルト様の馬じゃない?」

「え」


 再び心臓が爆発しそうになる。婚約破棄してから会うのはこれが初めて。

 嬉しそうに窓から身を乗り出すアルシェビエタの背後で、レインは身を隠すしかすべがなかった。

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