???

 私は息を切らしながら走った。

 肺がどうにかなってしまいそうな感覚に襲われ、言うことを聞かなくなってきた足を引きずるように動かした。私は体力が無く、あまり走るのも得意じゃない。それでも、私は何度も転び、そして起き上がり走り続けた。

 走って、走って、走って、走ってーー走るのをやめた。

 森を抜けると、そこは幸運にも街道に繋がっていた。私は追っ手が付近にいないか確認しながら、街道を見ることができる茂みに身を潜めた。夜の森の中、どこかから聞こえる虫たちの鳴き声とひゅーひゅーという私の奇妙な呼吸音だけがしている。

 呼吸が落ち着き足の疲れが引いてき始めた頃、がらがらと車輪が回ることが遠くから聞こえてきた。追っ手が私を追いかけて来たのだろうかと、暗闇とも呼べる暗さの中、私は目を凝らして音のする方向を見る。

 音がだんだんと近づいてくると同時に、暗闇の中からぼんやりとした光が見え始める。

 それは馬車についた灯火だった。それのおかげで、白い車体の一部と家紋が暗闇の中浮かび上がっていた。

 あれは追っ手の馬車なんかじゃない。何という巡り合わせなのだろうと私は驚愕した。

 なんと、その馬車はインセンシノ伯爵家ーーすなわちブランシュ公爵家と仲が良く同じ派閥の家門ものだ。これなら馬車に乗っている貴族に話をし、助けを呼べる。

 こんな真夜中で普通貴族の乗る馬車は走ったりしないということに加え、その馬車がブランシュ公爵家と仲の良いインセンシノ伯爵家のものだとは。シャンタル様は何という幸運をお持ちなのだろうかと驚くばかりである。この気を逃せば助けを呼べる機会などやってこないだろう。

 私は考えた。あの馬車に助けを請いに行くかどうかを。

 腹が立った。精確な計画のもと私たちは動いているのに、今日私たちを襲って来た奴ら--おそらく信徒の者達は感情に任せてシャンタル様を襲撃してしまった。その結果、今はシャンタル様はこの森の中を逃げ惑いながらも生存しているのか、それとももう処分されてしまったのか分からない状況になってしまった。

 こんな杜撰な襲撃をしたところで、シャンタル様を殺せても殺せなくても貴族や騎士団たちに気づかれ、調査が行われてしまうことなんて分かりきっているのに! ここの信徒たちが捕まるのはまだいい。最悪なのは、芋づる式に潜伏している信徒や我々の計画が明るみに出てしまうことだ。本当に奴らはなんてことをしてくれたんだ!

 万一のことを考えて、私はシャンタル様の味方だという絶対的な信頼を寄せられるようにしておかないと。信頼を得、シャンタル様の隣に居続ければいつか弱みを掴めるかもしれない。ならば、ここは『最大限シャンタル様を助けようとする健気なメイド』というイメージでも貰っておこう。

 私ははあっと息をついた後、立ち上がり馬車の前に飛び出して両手を広げた。

「止まってくださーーい!」

 馬はいななきをあげ、御者は馬の手綱を咄嗟に引いた。

 ギリギリのところで私に馬の足や体が当たることはなかった。

「危ないじゃないか!!」

 御者は私に怒鳴り散らす。まあ、貴族が乗った馬車で人を轢き殺したともなればこの御者は確実に斬首刑に処されるだろうから、そういう反応になるのは無理もないと思いつつ、私は心の中で舌打ちをした。どうせなら私を馬車で引いて重症を負わせてくれれば、救助要請を遅らせることができたのに。

 ボディ後方のランブルシートに乗っていた数人の騎士たちが私を取り囲む。私は咄嗟に涙を流した。

「わ、私はブランシュ公爵家に仕えるマーニーと申します。シャンタル・ブランシュ公爵令嬢の乗った馬車が襲撃されてしまい、シャンタル様の安否が不明です! 今すぐにでも助けを呼ばないといけないんです。どうか、この馬車に乗せていただけませんか!」

 私はいつも首から下げているブランシュ公爵家の家紋が描かれているブローチを御者や周りの騎士たちに見せた。

 そこでことの重大性に気付いた騎士のうちの1人が少々お待ちくださいと言うと、ボディのドアをノックし中にいる人に事情を簡潔に説明した。

 少しすると、騎士が私を手招きしランブルシートに乗るように言ってきた。

「ありがとうございます!」

 私はすでに閉じたドアに向かって頭を下げて、つかさずランブルシートに乗った。

 ああ、なんて私は運がないのだろう。

 騎士がランブルシートに乗る姿を見つつ、私は落胆した。しかし、助けを呼んでシャンタル様の居場所を特定するにも時間がかかるはずだと平静を保つ。

 ほどなくして馬車が動き始めた。


 ♢


 私は、隣にいる男に再び運ばれ、1人しか収容されていない牢屋のような場所に入れられた。

 てっきり鮨詰め状態の檻に突っ込まれるのかと思いきやそうではないようだった。

「なるほど、絶対に3日後の夜に私を殺そうとしているのね」

 私の恨みがましい言葉を聞いていたのかいないのかわからないが、男は、今から晩飯食ってくるわと何処かに行ってしまった。

「私のことが可哀想だとか言っていたのに、自分だけご飯食べに行く気? 私は今日朝食以降冷たいオレンジジュースしか飲んでいないのに」

 食べ物のことを考えていると、タイミングよくお腹が鳴った。今、私の命が危険に晒されていると言うのに、なぜ私のお腹はこんなにも緊張感に欠けているのか叱責したくなる。

 食べ物のことを考えていると、次は飲み物が欲しくなってくる。今日は栄養素にしても水分にしても、1日に必要な摂取量を満たしていないことは間違いない。

 喉が乾きすぎで、変な咳が出る。この洞窟は換気口があるにしても空気の循環が十分に行われていると言うわけでもないらしく、人間の体臭いと湿気、カビ臭さ、獣臭、そこらじゅうに放置された腐った食べ物の匂いなどなどひどい臭いが入り混じってひどい有様で、咳をするたびにその空気を多く自分の体に入れているのかと考えるとまた吐き気が迫り上がってくる。

 ひょっとすると、回帰前の牢獄よりも匂いは酷いかもしれない。

 いつまでもあの男が行ってしまった方向を眺めていても仕方がないと、背を鉄格子に預けて座り、なにか脱出の糸口になるものはないかと探すために牢屋の中を見渡した。

「……っひゅ」

  牢屋にいた人物が横目で私を見つめていた。あまりにも鋭く威圧感のある眼光により、私は一瞬息ができなかった。

 その視線に私は、既視感を覚えた。そして、数秒後、その既視感の正体に気づいてしまった。今度は声を出してしまわないように、手で口を覆った。

 知っているのだ、彼を。あのカビ臭く暗い牢獄にいる彼を思い出す。

 記憶にある彼よりも、今の彼の方が圧倒的に若く綺麗な顔立ちをしているが、間違いない。

 彼は、ハノーヴァーその人だった。

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