月明かりだけが私たちを見ていた

 私はマーニーに提案されたように眠りについていたが、それは長くは続かなかった。馬車が急停止し、マーニーの胸に飛び込むような形で倒れ込んだことにより強制的に目が覚めてしまった。

「シャンタル様、お怪我はありませんか!?」

 マーニーは後ろの壁に頭をぶつけたらしく、頭を押さえながらも、まずは私の心配をした。

「え、ええ」

 私は眠りの最中起こったあり得ない衝撃に心臓がバクバクと脈打ながら、ソファに座り直した。

「それにしてもこんなに急に停止するなんて! 御者に文句を言ってきます」

 マーニーは馬車の鍵を開けようと手を伸ばしたが、私は慌ててそれを止めさせた。

「待って! こんなに急に止まるなんて普通では考えられないわ。何かあったのよ。ここは一旦、マルスに任せましょう」

 騎士のマルスは愛馬に乗り、馬車の後ろに付いて私たちを護衛しているはずだ。彼なら、何か起こっているのか分かるはずだ。

「っ! そう、ですね。申し訳ありません。私がシャンタル様を危険な目に合わせるところでした」

 マーニーはドアの鍵に手をかけようとしていた手を引っ込め、膝の上に置いた。

 マーニーが外へ出ていくとなると、私たちからわざわざ鍵のついたドアを開けることになる。

 もし、何か暴動や大規模なデモのような事態が起きているとすればすぐに殺されてしまう可能性だってあるのだ。まあ、もし本当に暴動だったのなら暴徒はこの馬車に火をつけるだろうから、私たち2人仲良く丸焼きにされてしまうだろうけど。

 不用意にマーニーを怖がさせたくはないので、それは口には出さなかったが、私の考えははどんどんと悪い方向へ向かっている。

 デモ、暴動、反逆もしそうなれば、私は次ことは絶対に救ってみせると誓ったマーニーやマルスの2人すら救うことはできない。むしろ、死ぬ時期が早まってしまうため、より悪化したことになる。そんな事態になれば、私は死ぬに死にきれない。

 そうだ、人が飛び出してきたからとか、何かが道を塞いでいたとか馬車が急停止する理由はたくさんある。

 御者が言い争いをしている。馬車の前に誰かがいるんだ。なんとか気持ちを取り繕おうとするが、嫌な汗が背中を伝う。

 マーニーがソファーの下に隠してあった護身用の剣を取り出す。彼女はドアに剣先を向けているが、顔は血の気がひいており体はカタカタと震えていた。

 私は最悪の事態ではないことを祈り、ただマルスからの知らせを待った。

「俺です。マルスです。絶対に馬車から出ないでください!」

 ーー何かが起こっている。

 馬車の中の空気が一気に張り詰める。マーニーは剣を持ち直す。

「この剣をお使いください」

 マーニーはとても小さな声で私に果物ナイフを渡してきた。

 マーニーもマルスも私の名前を一切呼ばなかった。マーニーに至っては、ナイフではなく剣と言った。それは、私の性別や年齢がバレるとまずいからだろう。

 この馬車にはブランシュ公爵家の家紋が描かれているから、ここに乗っている人物といえば令嬢のシャンタル・ブランシュか公爵シルヴェル・ブランシュと、ブランシュ公爵家に仕える使用人だということは簡単に想像することができてしまう。

 馬車の中にいるのが、若いメイド1人と7歳の女児だけだとバレたら、すぐさま殺されてしまう。

 ーー馬車が動き始めた。

 道をUターンして、先ほどの街に戻ろうとしているようだ。その運転は荒々しいことこの上なく、御者がどれほど動揺し焦っているのかを物語っていた。

 ーーまずい。奴らは、おそらくこの敵前逃亡によりシルヴェル・ブランシュが乗っていないことに気づいたに違いない!

 戦術でも実戦でも多くの武勲を挙げ、『剣鬼』として敵から恐れられる父がいるならば、わざわざ逃亡せずに正面から己の剣をもって奴らを断罪するはずだ。

 ーーいや、待て。父が乗っている可能性があると知っていながら奴らは襲ってきたのだろうか。そんな危険を冒しながら?

 我が家の家紋はそれこそ知識のない貧民でも知っているほどに有名で、襲ってきた奴らも当然知っているはずだ。

 もし、もしも。

 父が乗っていないことを知っていたのだとしたら?

 不安が一気に襲いかかる。

 いや、あの街で私たちを見かけて追いかけてきた可能性だって十分ある。今はただ逃げることに専念しよう。

「シャンタル様。御者は公爵家よりも近く、関門に兵士も配置されている先ほどの街に逃げるのが得策だと考えたのでしょう」

 マーニーは、私が不安がっている理由が馬車が引き返したことだと思っているのだろう。全くの見当違いでしかなかったが、訂正しなくてもよい勘違いだったので、私はそうねと適当に相槌を打った。

 今はやはり悪い方は考えている時間はなく、逃げ延びることだけ考えなくてはいけない時だと、頭を切り替える。

 私が寝ていた時間はそんなに短くはなく、ここからあの街の距離も近くはないはずだ。

 また、この辺りには厩舎があった記憶がないので、馬はあの街を出てからは一切休んでいない。

 距離が離れた街に疲れている馬。

 何分経っても落ちないスピード。これはおそらく奴らも馬か何かに乗って追いかけているのだろう。

 考えたくもないが嫌でも分かる。このまま行けば私は、私たちは確実に捕まる。

 マーニーだけでも逃したいと考えていると馬車が徐々にスピードを落としていく。急に止まったわけではないことから、馬が疲弊してしまったのだろう。しばらく馬は使えない。

「公女様! お逃げください! 奴らを少しだけ引き離しました。このまま馬車に捕まってしまうのは時間の問題です!」

 カーテンの隙間から覗く景色を見るに、ここは街道の途中の森のようだった。整備されていない道に止まっている。

 これなら少しは時間が稼げるかもしれない。日が落ちた暗い森の中、木々や雑草や入り組んだ地形で相手を翻弄することができるかも。

「……マーニー。馬車を降りたら別々の方向へ逃げよう。あなたは街の方へ逃げて、このことを兵士たちにこのこのを伝えて」

「シャンタル様!? いけません! 私はあなた様を守る立場にあるのですよ!」

「だからよ! このままここにいると2人とも捕まるわ。私は動きにくい格好をしていて碌に走れないし、何より7歳の子供が逃げられるとは到底思わないわ! 存在が知られていないのは貴方だけだし、御者は年老いているから、奴らから逃げられる可能性は低いの。お願いよ!」

 殺される可能性だって十分あるのだが、それはマーニーがいようがいまいが変わらないことだ。マーニーは馬術は優れているが、確か剣術は習ったことがないと記憶している。そんな彼女が手に持っている剣で相手を迎えあったとしても返り討ちに合うのがオチだ。

 それならば、マーニーだけでも捕まらず、かつ助けを呼べる可能性に賭ける方がよほど良いに決まっている。

 私は馬車から降り、御者にも別の方向へ逃げるように指示する。誰か1人でも奴らの魔の手を回避して増援を呼ぶことができるように。

「シャンタル様、絶対に私が助けを呼んできます。無事でいてください」

 私は強く頷いた。マーニーは私を力強く抱きしめた。

「絶対に3人とも生き残りましょう」

 マーニーと御者は首肯した。

 私達3人は別れ、別々の方向へ逃げていった。

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