ホテルの客
帝都第一のKホテルにも、その夜、内外人の大舞踏会がもよおされたが、ほとんど徹宵踊りぬいた人たちも、すでに帰り去って、玄関のボーイどもが眠気をもよおしはじめた夜明け前の午前五時頃、スイング・ドアの前に一台の自動車が横づけになった。
緑川夫人のお帰りだ。
ボーイたちはこのぜいたくな
毛皮の
「この方、お友だちです。あたしの隣の部屋あいてましたわね。あすこへ用意をさせてください」
緑川夫人は、フロントに居合わせたホテルの支配人に声をかけた。
「ハ、あいております。どうか」
支配人は愛想よく答えて、ボーイに支度を命じた。
ひげの客は、だまったまま、そこにひらかれた帳簿に署名して、夫人のあとを追って、正面の廊下をはいって行った。署名は山川健作となっていた。
部屋がきまって、めいめいに付属のバス・ルームで入浴をすませると、二人は緑川夫人の寝室に落ちあった。
モーニングの上衣をぬいでズボンだけになった山川健作氏は、しきりと両手をこすりながら、いかめしい顔つきに似合わぬ、子供らしい声でしゃべった。
「ああ、たまらねえ。まだこの手ににおいがついているようだ。僕はあんなむごたらしいこと、生まれてはじめてですよ。マダム」
「ホホホホホ、言ったわね。二人も生きた人間を殺したくせに」
「シッ、困るなあ、そんなことズバズバいわれちゃ。廊下へ聞こえやしませんか」
「大丈夫、こんな低い声が聞こえるもんですか」
「ああ、思い出してもゾッとする」山川氏はブルブルと身ぶるいをして見せて、「さっき僕のアパートで、あの死骸の顔を鉄棒でたたきつぶした時の気持って、なかったですよ。それから、あいつをエレベーターの穴へ落とした時、はるか下で、グシャッと音がしたっけ。ウウ、たまらねえ」
「弱虫ね、もうすんでしまったことは、考えっこなしよ。あんたはあのとき死んでしまったんだわ。ここにいるのは、山川健作という、れっきとした学者先生じゃないの。しっかりしなきゃだめよ」
「しかし大丈夫ですか。大学の死体が紛失したことがバレやしませんか」
「なにいってるのよ。僕がそれに気がつかないとでも思っているのかい。あすこの事務員は、僕の手下だといったじゃないか。僕の子分がそんなヘマをする気づかいがあるもんか。今、学校は休みで、先生も学生もいやしない。係りの事務員が帳簿をちょっとごまかしておけば、小使いなんか一々死骸の顔をおぼえているわけじゃなし、あんなにたくさんの中から一つくらいなくなったって、当の係員のほかには気づく者はありゃしないよ」
「じゃあ、その事務員に、今度のことを知らせておかなければいけませんね」
「ウン、それは朝になったら、ちょっと電話をかけさえすればいいんだよ……ところでねえ、潤ちゃん、あんたに聞いてもらいたいことがあるのよ。まあ、ここへおかけなさいな」
緑川夫人は、その時、はでな友禅染めの
「僕、このうるさいつけひげと目がね、取っちゃってもいいですか」
「ええ、いいわ。ドアに
そして、二人はまるで恋人のように、ベッドにならんで腰かけて、話しはじめた。
「潤ちゃん、あんたは死んでしまったのよ。それがどういうことだかわかる? つまり、今ここにいる、あんたという新らしい人間は、あたしが産んであげたも同じことよ。だから、あんたは、あたしのどんな命令にだってそむくことができないのよ」
「もしそむいたら?」
「殺してしまうまでよ。あんた、あたしが恐ろしい魔法使いってこと、知りすぎるほど知ってるわね。それに、山川健作なんて人間は、あたしのお人形さんも同じことで、この世に籍がないのだから、突然消えてなくなったところで、だれも文句をいうものはありゃしないわ。警察だってどうもできやしないわ。あたし、きょうからあんたという、腕っぷしの強いお人形さんを手に入れたのよ、お人形さんていう意味は、つまり奴隷、ね、奴隷よ」
潤一青年は、この
「ええ、僕は甘んじて女王さまの奴隷になります。どんないやしい仕事でもします。あなたの靴の底にだって
彼は、緑川夫人の友禅模様の
「ハハハハハ、
夫人は手をはなして、
「あんた、あたしを何者だと思う? わからないでしょう」
「なんだっていいんです。たとえあなたが女泥棒だって、人殺しだってかまいません。僕はあなたの奴隷です」
「ホホホホホ、あてちゃったわね。その通りよ、あたしは女泥棒。それから、人殺しもしたかもしれないわ」
「え、あなたが?」
「ホホホホホ、やっぱりびっくりしたでしょ。でも、あんたには何をいったって、命をあずかっているんだから大丈夫。まさか逃げ出しゃしないわね。それとも逃げ出す?」
「僕はあなたの奴隷です」
彼女の膝にかけている男の指に、ギュッと力がこもった。
「まあ、可愛いことをいうわね。きょうからあんた、あたしの、一の子分よ。ずいぶん働いてもらわなくちゃならないわ。ところで、あたしがなぜ、こんなホテルなんかに泊まっていると思う? 四、五日前から、緑川夫人という名で、この部屋を借りているのよ。それはね、ねらった鳥が同じホテルに滞在しているからなの。それが大へんな大物で、あたし一人じゃ、ちょっと心細かったところへ、うまいぐあいにあんたがきてくれて心丈夫だわ」
「金持ちですか」
「ああ、金持ちも金持ちだけれど、あたしの目的はお金ではないの。この世の美しいものという美しいものを、すっかり集めてみたいのがあたしの念願なのよ。宝石や美術品や美しい人や……」
「え、人間までも?」
「そうよ。美しい人間は、美術品以上だわ。このホテルにいる鳥っていうのはね、お父さんに連れられた、それはそれは美しい大阪のいとはんなの」
「じゃ、そのお嬢さんを盗もうというのですか」
ことごとに意外な黒天使の言葉に、潤一青年は、またしてもめんくらわなければならなかった。
「そうなの。でも、ただの少女誘拐ともちがうのよ。その娘さんを種に、お父さんの持っている日本一のダイヤモンドを
「じゃ、あの岩瀬商会じゃありませんか」
「よく知ってるわね。その岩瀬庄兵衛さんがここに泊まっているの。ところが少し面倒なのは、先方には明智小五郎っていう私立探偵がついていることです」
「ああ、明智小五郎が」
「ちょっと手ごわい相手でしょう。幸い、あいつはあたしを少しも知らないからいいようなものの、明智って、虫のすかないやつだわ」
「どうして、私立探偵なんかやとったのでしょう。先方は感づいてでもいるのですか」
「あたしが感づかせたのさ。あたしはね、潤ちゃん、不意打ちなんて
「じゃ、こんども予告をしたのですね」
「ええ、大阪でちゃんと予告してあるのよ。ああ、なんだか胸がドキドキするようだわ。明智小五郎なら相手にとって不足はない。あいつと一騎打ちの勝負をするのかと思うと、あたし愉快だわ。ね、潤ちゃん、すばらしいとは思わない?」
彼女はわれとわが言葉にだんだん
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます