女魔術師
一夜のあいだに、潤一青年の山川健作氏はお芝居がすっかり板について、翌朝身じまいをおわった時には、ロイド目がねも付けひげも似つかわしく、医学博士とでもいった人物になりすましていた。
食堂で緑川夫人とさし向かいにオートミールをすすりながらの会話にも、身のこなしにも、少しもへまはしなかった。
食事をすませて部屋に帰ると、ボーイが待ち受けていて、
「先生、ただ今お荷物がとどきましたが、こちらへ運んでもよろしゅうございますか」
とたずねた。潤一青年は、先生などと呼ばれたのは生まれてはじめてであったが、一所懸命落ちつきはらって、声さえ重々しく、
「ああ、そうしてくれたまえ」
と答えた。けさ、彼の荷物と称して、大きなトランクがとどけられることは、ゆうべの打ち合わせで、ちゃんと
やがて、ボーイとポーターが、二人がかりで、大型の木枠つきのトランクを部屋の中へ持ちこんできた。
「だんだんお芝居がうまくなるわね。それならばもう大丈夫だわ。明智小五郎だって、見破れやしないわ」
ボーイたちが立ち去るのを見すまして、隣室の緑川夫人がはいってきて、新弟子の手なみをほめた。
「ウフ、僕だって、まんざらでもないでしょう……それはそうと、このべらぼうに大きなトランクには、一体なにがはいっているんですね」
山川氏は、まだトランクの用途を教えられていなかったのだ。
「ここに鍵があるから、あけてごらんなさい」
いかめしいひげの子分は、その鍵を受け取りながら、小首をかしげた。
「僕のお召しかえがはいっているんでしょう。山川健作先生ともあろうものが、着のみ着のままじゃ変だからね」
「フフ、そうかもしれないわ」
そこで、鍵を廻して、
「おや、なんですい、こりゃあ?」
山川氏は、あてがはずれたようにつぶやいて、その包みの一つを、ソッとひらいてみた。
「なあんだ、石ころじゃありませんか。大事そうに布にくるんだりして、ほかのもみんな石ころなんですか」
「そうよ、お召しかえでなくってお気の毒さま。みんな石ころなの。少しトランクに重みをつける必要があったものだからね」
「重みですって?」
「ああ、ちょうど人間一人の重味をね。石ころをつめるなんて気がきかないようだけれど、おぼえて、おきなさい、これだとあとの始末が楽なのよ。石ころは窓のそとの地面へほうり出しておけばいいし、ボロ布はベッドのクッションと
「へええ、なるほどねえ。だが、トランクをからっぽにして、何を入れようっていうんです」
「ホホホホホ、
彼らの部屋はホテルの奥まった階下にあったので、窓のそとは人目のない狭い中庭になっていて、そこに大つぶな砂利がしいてあった。石ころを投げ出すにはおあつらえ向きだ。二人は急いで石ころをほうり出し、ボロ布の始末をした。
「さあ、これですっかりからっぽになってしまった。じゃあ、これから魔法のトランクの使いみちを教えてあげましょうか」
緑川夫人は、面くらっている潤ちゃんを、おかしそうに眺めたが、手早くドアに
「マダム、へんだね。昼日中、例の踊りをはじめようってわけじゃないでしょうね」
「ホホホホホ、びっくりしてるわね」
夫人は笑いながら、手を休めないで、一枚一枚と衣服を取り去って行った。彼女の奇妙な病気が起こったのだ。エキジビショニズムがはじまったのだ。
全裸の美女とさし向かいでは、いかな不良青年も、まっ赤になって、もじもじしないではいられなかった。そこには、このましい曲線にふちどられた、輝くばかりに美しい桃色の肉塊が、ギョッとするほど大胆なポーズで立ちはだかっていたではないか。
見まいとしても、視線がその方に行った。そして夫人の眼とぶっつかると、その度ごとに、彼はまたしても一そう赤面した。女王は奴隷の前に、どのような姿をさらそうとも、少しも悪びれも、恥かしがりもしなかった。あまりの
「まあ、いやにもじもじするわね。はだかの人間がそんなに珍しいの」
彼女はあらゆる曲線と、あらゆる深い陰影とを、あからさまに見せびらかして、トランクの縁をまたぎ、その中へまるで胎内の赤ん坊みたいに手足をちぢめて、スッポリとはまりこんでしまった。
「というわけさ。これがボクの手品の種あかしなんだよ。どう? このかっこうは」
トランクの中に丸まった肉塊が、男と女とちゃんぽんの言葉づかいで呼びかけた。
まげた脚の
潤ちゃんの山川氏は、だんだん大胆になりながら、トランクの上に及び腰になって、なやましげに眼の下の生きものに見入った。
「マダム、トランク詰めの美人ってわけですか」
「ホホホホホ、まあ、そうよ。このトランクには、そとからはわからないように、方々に小さい息ぬきの穴があけてあるのよ。だから、こうして蓋をしめてしまっても、窒息するような心配はないんだわ」
いうかと思うと、彼女はバタンとトランクの蓋をしめたが、そのあおりの生暖かい風が熟しきった女体のかおりを含んで、上気した青年の顔をなでた。
蓋をしめてしまえば、それはいかめしく角ばった一箇の黒い箱にすぎなかった。その中になまめかしくふくよかな桃色の肉塊がひそんでいようなどとは、どうしても想像できないのだ。古来手品師たちが、無細工なトランクと美しい女体とのきわ立った取り合わせを、好んで用いる理由がここにあった。
「どう? これならだれも、人間がはいっているなんて疑いっこないでしょう」
夫人がトランクの蓋を細目にあけて、まるで貝のなかから現われたヴィーナスのように、美しくほおえみながら、同意を求めた。
「ええ……すると、つまり、あの宝石屋の娘さんを、このトランク詰めにして誘拐しようってわけですかい」
「そうよ。もちろんよ。やっと察しがついたの? あたしはただちょっと見本をごらんに入れたっていうわけなのさ」
しばらくして服装をととのえた緑川夫人が、山川氏に、彼女の大胆きわまる誘拐計画を語り聞かせていた。
「あの娘さんを、今のようにトランクにつめこむ仕事はあたしの受け持ちで、それにはちゃんと手だてもあるし、麻酔剤の用意もできているの。そのトランクをここから運び出すのが、あんたの役目、第一回の腕試しよ。
今晩、あなたは九時二十分の下り列車に乗りこむていにして、前もって名古屋までの切符を買わせておいて、トランクと一しょにホテルを出発して、トランクは手荷物としてあずけさせ、ホテルのポーターに見送らせて汽車に乗るのよ。つまり、あんたは名古屋へ行ったものと思いこませて、その実、次のS駅で途中下車してしまうんだわ。わかって? むろんトランクも、車掌にたのんで、急用を思いだしたとかなんとか言って、S駅でおろさせるのよ。ちょっと骨の折れる仕事だけれど、あんたならヘマはしないわね。
そして、S駅から、またトランクといっしょに自動車に乗って、東京に引きかえし、こんどはMホテルへ乗りつけるの。そこで一ばん上等の部屋をえらんで、どっかのお金持ちっていうような顔をして、威張って泊まり込んでいればいいのよ。あたしも、あすはここを引きはらって、Mホテルであんたと落ち合うつもりなんだから。どう? この計画は」
「ウン、おもしろいにはおもしろいですね。だが、そんな人をくったまねをして大丈夫かしら。僕一人じゃ、ちょっとばかり心細いな」
「ホホホホホ、人殺しまでしたくせに、まるでお坊っちゃんみたいに物おじをして見せるわね。大丈夫よ。悪事というのはね、コソコソしないで、思い切って大っぴらにやっつけるのが、一ばん安全なんだわ。それに、万一バレたら、荷物をほうり出してズラカっちまえばいいじゃないの。人殺しにくらべればなんでもありゃしないわ」
「だがね、マダムも一しょに行っちゃいけないのですかい」
「あたしは、例の明智小五郎と四つに組んでなけりゃいけないのよ。あんたが先方へ着くまでに、あいつから眼をはなしたら、どんなことになるかわかりゃしない。あたしは邪魔者の探偵さんの引きとめ役なのさ。この方がトランクをはこぶより、ずっとむずかしいかもしれないわ」
「ああ、そうか。その方が僕も安心というもんですね。だが……あすの朝はきっとMホテルへ来てくれるでしょうね。もしそのあいだに、娘さんが眼をさまして、トランクの中であばれ出しでもしたら、眼もあてられないからね」
「まあ、この人はこまかいことまで気にやんでいるのね。そこに抜かりがあるものかね。娘には猿ぐつわをかませた上、手足を厳重にしばっておくのよ。眠り薬がさめたところで、声をたてることはもちろん、身動きだってできやしないわ」
「ウフ、僕はきょうは頭がどうかしているんだね。それというのも、マダムがあんなことをして見せるからですよ。こんどから、あれだけはかんべんしてもらいたいね。僕は若いんですぜ。まだ胸がドキドキしている、ハハハハハ。ところで、Mホテルで落ちあったあとは、どういうことになるんですい?」
「それから先は、秘中の秘よ。子分はそんなこと聞くもんじゃなくってよ。ただおかしらの命令に、だまって従ってればいいのよ」
かようにして、令嬢誘拐の手はずは、落ちもなく定められたのである。
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