第57話 奈落の底に咲く花

四月二十八日 土曜日


「じゃあ、腕は楽にしてくださいね~」


 看護師が界人かいとの右腕の下にクッションを置いて病室を出て行く。


 残された界人は他に誰もいない部屋の中でベッドの上から晴れ渡る空を眺めていた。



***



 医者たちはいずれも界人の腕の切断面を難しい顔で見つめては、写真、レントゲン、MRI……あらゆる装置で腕を撮影した。腕を切断した場合の処置をほとんど施したが、界人には分かっていた。


 今しがた看護師が置いて行った腕の下のクッションなど必要がないということを。


 広告殺しアドキラーに切断されたあの瞬間に、すでに切断面の皮膚は初めからそうであったように滑らかに〝傷口〟を覆っていたし、そもそも痛み自体がなかったのだ。


 医者も腕の状態を正常に理解していないようだった。


 腕を切断した場合の正常な処置後の状態になっていると説明していた。ただ、それだけは確実に言えることだったのか、神妙な面持ちで界人に告げた。


「腕を失った場合、そこに腕がないにもかかわらず違和感や痛みといったものを感じることがあります。それを幻肢痛ファントム・ペインといいます。この痛みは鎮痛剤で抑えられるものではありませんので、もし痛みなど感じた場合には教えて下さい。幻肢痛ファントム・ペイン改善のためのプログラムもありますから」




 治療と同時に、広告監視機構AMAの専門医たちもこの病院に派遣されてきた。


 彼らの目的は、腕の切断面などから広告殺しアドキラーの能力に繋がる手がかりを得ることだった。


 彼らは病院で撮影されたすべてのデータの提供を受けて、丸一日かけて界人の腕を検査した。


「あなたの腕が広告の安全に繋がるんです」

「あなたの勇敢な行動で次の一手を考えることができます」


 専門医たちは界人を元気づけるためなのか、口々にそう言っていた。


 腕の切断面の皮膚組織なども採取され、されるがままになっていた界人が言葉を発することはなかった。


 ただ、腕に触れられるたび、あの黒い爪が腕を刈り取った瞬間のおぞましさが蘇って、界人はただその恐怖に耐えるだけだった。



「痛がらなくて偉いね」


 幼い頃から病院で聞いた言葉だ。


 恐怖を胸の奥に押し留めるたびに、界人はその母の声を思い出していた。



***



 ベッドの上で、界人は一人頭を掻き毟ろうとしていた。


 だが、右腕がないということに気づいて、その気力も失せてしまう。


 いつもはセットして上げていた前髪は外出しない休みの日のように無造作に額に流れている。人前でこのような姿を晒すのは、何も考えていなかった頃以来だった。


 生気のない表情で、ただじっと無為に時を過ごす。界人は自分が世界から切り離されてしまったのではないか……そう錯覚していた。


 ──もう僕は終わりだ。


 ウォッチドッグス統括官の任もすでに解かれていた。


 征人せいとはその理由を腕の治療に専念するためだと説明していたが、界人は自分の失態の責任を取るためだと〝理解〟していた。


 これまで築き上げてきたものはすっかり瓦解したわけだ。



***



「界人、大丈夫かよ?」


 病室に現れたのは、界人の弟・頼人らいとだった。


 界人に似て、細見の長身。短い髪を後ろに流して爽やかな見た目だ。彼は界人の高校のバッグを肩から提げていた。


 界人は小さく微笑みを返してうなずいた。


「ずっと大変だったみたいじゃん。お母さんがまだ見舞いに行くなって言うから、ずっと来れなかったんだよ」


 ──言い訳か。


 界人の黒い心がそう呟く。


 ベッドの脇のスツールに腰を下ろした頼人は、界人の表情を見てホッとしたようだった。


「思ってたよりは元気そうじゃん。よかったよ」


 ──元気なわけないだろ。心も身体もボロボロだよ。


 頼人は膝の上に置いたバッグを指さした。


「なんで俺が界人のバッグ持ってんのか気になってただろ~?」


 頼人は悪戯っぽい笑顔を界人に向けると、バッグの中を覗き込んだ。


「いや~、界人に高校の友達がいるって意外だったけど、俺は嬉しいよ。だって、あの高校行くの嫌がってたもんな? それでも、俺が行けるような偏差値じゃなさそうなんだよな~……」


 ──友達? なに言ってるんだ、こいつ?


 頼人がバッグから取り出したのは、数冊のノートだった。


「界人が休みだからって、授業のノート取ってくれてたみたいだよ。昨日、四人組がウチに来てさ、藤堂とうどうさんとか言ってたっけかな、『よかったらどうぞ』って」


 界人は頼人からノートを受け取った。


 ──こんなもの、僕には必要ない。


「まあ、界人には必要ないかもしれないけどさ。むしろ勉強教える側だろうしね」


 界人の表情を読み取ったのか、頼人がノートをバッグに戻してそう言った。


「界人、右利きだったよな?」


 頼人は失われた界人の右腕を真っ直ぐと見つめていた。


「俺、左利きだからさ、使い方教えてやるよ」


 ニコッと笑う頼人に、界人は声を上げてしまった。



「出て行ってくれよ!」



 初めて聞いたからだろう、頼人はその声に目を丸くして、一瞬身体を強張らせた。だが、すぐに笑顔を見せる。


「もし何か必要だったら、俺がさ──」

「必要ないんだよ! こんな大袈裟な病室だって、要らないんだよ!」


 先のない右腕を振るって、界人は叫んだ。


 頼人は残念そうにうなずくと、立ち上がってバッグをスツールの上に置いた。


「もう少し休んだ方がいいね、界人」

「余計なお世話だ」


 頼人は病室を出て行く。ドアに手をかけて、頼人は振り返った。


「自分で思ってる以上にすげえ奴だよ、界人は」


 頼人はそう言い残して去って行った。


 スツールの上のバッグを払い落そうとして、右の上腕が空を切った。


 ──どいつもこいつも、僕をバカにしやがって……!



***



「おいす~」


 フルーツを満載した籠を片手に、しとねが病室に入ってきた。


「あんたか……」


 界人はげんなりした表情で目を逸らした。


「なんだよ、そのつれない態度はさぁ! 美容師免許持ってないけど、サイド刈り上げるアンダーカットにするぞ! この☆天才美少女☆摂津せっつしとねちゃんがやって来てんだから、この病室の空気を存分に楽しみなさいよ!」

「ちょっとは静かにしてくれ……」


 しとねは病室を見回して、ベッドの脇のスツールの上に置かれたバッグを床に降ろして腰掛けた。


 そして、おもむろに膝の上のフルーツのかごの中からシャインマスカットの粒をもぎ取って口の中に放り込んだ。


「お前が食べるのかよ……」

「君ってフルーツ食べなさそうなんだもん。このフルーツたちもわたしに食べられて、血肉になることができて、嬉し~って叫んでるよ。羨ましいね。ビタミンCだね」

「じゃあ、そんなもの持って来なくていいだろ……」

広告監視機構AMAの人が、君が全然喋らないからって心配してたけど、全然喋れるじゃん。それとも、わたしが来てくれたからテンション上がっちゃってんの? 君も男の子だな~。あ、密室にしとねちゃんと二人きりだからといって、いかがわしい気持ちは起こさないでよ。わたしはみんなのしとねちゃんなんだからね」


 しとねがシャインマスカットを頬張りながら首を振る。そのたびに金色のツインテールが振れて両方の尻尾を上げ下げする。


 界人が声を出すようになったのは、頼人を怒鳴りつけたからだ。


 血を分けた弟には、自分を取り繕う余裕などなかったのだ。腕のことに触れられて、自分の失態を笑われたのだと感じていた。


 頼人に限ってそんなことをするはずがないことくらい、界人には分かっていたはずなのだ。平気な振りをして、兄を元気づけようとしていたに違いない。


 頼人というのはそういう人間なのだ。


 後悔に押し潰されそうな界人のそばで、しとねがさきほど床に置いたバッグの中をまさぐっていた。


「人のバッグを勝手に探るなよ」

「ノート取ってくれてるんじゃん。いい友達やないかい」

「友達なんかじゃない」

「え、なんで? めっちゃ親切じゃん。まあ、わたしも親切され慣れてるからアレだけど、人ってのはあったかいもんですよ。自分の人生の時間を切り取ってわたしのために使ってくれるんだからね。だから、しとねちゃんもその心意気に可愛さという報酬を与えねばならんのですよ」

「そいつらはボクを嘲笑ってるだけさ。優秀な人間が堕ちるところに手を差し伸べれば、それまでの嫉妬や鬱憤を解消できるだろ」

「面白い考え方するじゃん。中学二年生みたい」

「どういう意味だよ」

「まわり見てみなよ」


 界人はベッドの周囲にいくつもの花が飾られているのを見つめた。各所から贈られたものだ。


 気づいてはいた。だが、気に留めないようにしていた。


「どれもこれも、お見舞いの気持ちじゃん。そこの花には、〝一年B組から〟って書いてあるよ。高校生じゃ、なかなか見舞い花なんて出さないもんよ。学校には入院してること伝えてるんでしょ。だから、みんな調べてお金出して贈ってくれたんだよ。目頭熱くなるねえ」

「彼らはボクを憐れんでいるだけだ。しかも、形だけだ」

「形だけでも来ないよりマシよ。いつだったか、わたしの知り合いの折衝役コーディネーターも大怪我したんだけどさ、普段嫌われてるからか、誰も見舞いに来てくれないでやんの。まあ、慈悲深いこの摂津しとねちゃんが顔出してあげたんだけどね~。つまりさ、形だけでも出してくれるってーのは、形にしたいとか、形にするべきだって考えてるわけじゃん。どうでもいい奴にこんなことしないぜ?」


 それでも、じっと俯く界人を見つめて、しとねは言った。


「話を聞いて想像してたよりは大丈夫そうなんだよね、君。……もしかしてさ、あまり落ち込んでないんじゃないの? ホッとしてるようにすら見える」


 界人はぞくりとした。


 今まで自分自身でも触れてこなかった胸の奥に、不意に手を突っ込まれたような感覚だった。


「そんなんじゃない……」


 視線を彷徨わせる界人に、しとねは笑いかけた。


「別に不思議じゃないんだけどね。名誉の負傷ってさ、恥とか後悔の瘡蓋かさぶたみたいなもんなんだよ。そういう認めたくないものを覆い隠してくれる。だから、勲章みたいに扱われるし、本人のためにもそうあるべきなんだよ。じゃないと、心がもたないからね」

「違う……! 僕は……」


 しとねを撥ねつける言葉を界人は絞り出すことができなかった。


 そんなありがちな傷を舐めることを許容するようなシーンに自分を重ねたくなくて否定したかったというのに。


「腕がなくなれば、君を責める人間はいないもんね」

「うるさい!」

「だから、安心してるんでしょ。罰だと思えるんでしょ。その傷に救われてると思ってるんでしょ」

「知った風に言うなよ!」


 しとねはこれまでにないほど真っ直ぐと界人を見つめた。


「わたしが許せないのは、君がもう終わりだって顔してることなんだよ。わたしはね、仲間たちが傷を負った姿をいくつも見てきたよ。中には、この仕事を続けられなくなった人もいる。みんな悔しそうだった。なぜなら、志半ばだったから。それに引き換え、君はもう全部終わったみたいにすべてを受け入れてるよね。そのくせ、つまらない矜持プライドは持ち合わせたまま」


 界人は俯いたままだった。その目から涙が一筋落ちた。


「僕のせいで……、僕を庇って……、人が死んだんだぞ……。どうやって家族に、学校のみんなに、ここの人たちに顔向けすればいい……? みんなが僕に思ってるんだ。〝お前のせいで〟……、〝期待を裏切った〟って……」

「しっかりしなよ、徳川とくがわ界人。自分の頭の中の他人の言葉なんか聞く必要ない。わたしはそんなこと思ってないよ」

「ウソだ! お前も形だけ僕を見舞う振りをして、内心では使えない奴だと思っているに違いない!」


 しとねは頭を掻いた。


「あー、使えない奴だっていうのは、内心じゃなくて、君に直接言った気がするな……。それはごめん。でもさ、あの時はマジで戦力にならなくて邪魔だったからさ」

「お前は僕を元気づけたいのかバカにしたいのか、どっちなんだよ。調子が狂うな……」


 しとねは目を丸くして笑った。


「分かってるんじゃん。わたしが君を元気づけたいと思ってるって。じゃなきゃ、病院なんて来ないよ。わたし健康優良児だもん」


 界人は力の抜けた顔で言う。


「ウォッチドッグスをクビになったよ」

「知ってる」

「父さんの期待を裏切ったんだ、僕は」


「君は誰かの期待に応えるために生きてるの?」

「それはお前だってそうだろ。いつも言ってるじゃないか、〝ファンのために〟って」

「別にそれはわたしがそうしたいからしてるだけだもん。そのために生きてるわけじゃない。期待に応えるってさ、格好よさげだけど自分を縛る呪いみたいなもんだよ。でも、期待に応えるって言葉が心地いいからずっとそうしていたいと思っちゃうのよ。そのために生きた時間、ホントの自分はどこにいて、どうしてるんだろうね?」


「本当の自分……?」

「お父さんのこと誇りに思ってるんでしょ? だからそうなりたいと思ってるんでしょ?」

「だから、その期待に……」


「お父さんみたいになりたいって思ってるのは君自身でしょ。他人のことなんか関係ないよ。君は、自分の理想に届かなくて泣き喚いてるだけだよ。そして、それを期待って言葉で他人のせいにしてる。君の方がよっぽどまわりに期待してるよ。〝立派な自分でいること〟を」


 界人は息を飲んで、大粒の涙を流した。顔を覆おうにも、片手が足りなかった。


 しとねの手が伸びて、界人の右頬に流れる涙を拭った。


「君のお父さん──じゃなかった、アドキーパーが言ってたじゃん。おじさんは誰かに未来を託したがるんだって。でも、必ずしもそれに応えなきゃいけないわけじゃないんだよ」

「でも、僕は応えたいんだよ……! ずっとそうやって生きてきたんだ」

「じゃあ、貫きなよ。力尽きるまでさ。なんで腕一本なくなったくらいで諦めようとしてんの。腕なくても元気にやってる人に謝った方がいいレベルだよ。どこに絶望する理由があるんだよ。たとえ絶望する一瞬前だったとしても、希望なんか探せばいくらでもあるんだよ。それを見つけようとしろよ」


 界人の目に、病室の花も、高校のバッグも、しとねの膝の上のフルーツも、一斉に飛び込んでくる。


 どれも色鮮やかだった。


土井どいのおじさんは悪い奴だったけど、良い奴でもあったじゃん?」

「どっちだよ?」


 界人は涙を拭いながら笑った。


「はぁ、ダメだねえ、ダメだよ、まったく。世の中を黒と白に塗り分けられると思ってるなんて、まさにここみたいに脳内お花畑じゃん。土井のおじさんは悪い奴で良い奴だったんだよ。それに、腕も良かった。……あ、君に腕の話してもいいのかな、二つの意味で。分からないと困るから解説しとくけど、マジの腕と能力っていう意味の腕のことね」

「お前……、僕に喧嘩売ってるだろ」


「あのおじさんが君を守って死んだんだよ。君は──」

「ああ、土井さんのためにも生きて──」

「いや、そうじゃなくてさ……。う~~ん、君って何でもかんでも重く受け止めるよね。死んじゃった人は何もできないんだよ。だから、そんな人に縛られちゃダメだよ。抜け出せなくなるからね」


「じゃあ、何が言いたいんだ」

「あのおじさんが君の未来に賭けたベットしたんだよ。見逃してればベッドの上で死ねたかもしれないのにさ。ってことはよ、君には命を懸けるくらいの価値があるってことなんだよ。つまり、この摂津しとねちゃんが君を鍛え直してあげよう!」


 一瞬、空気が止まった。


 界人は目をパチクリさせて聞き直した。


「すまないが、もう一度言ってくれないか。意味の分からない脈絡で突拍子のないことを聞いた気がする」

「じゃあ、貫きなよ。力尽きるま──」

「どこをリピートしてるんだ。そんな前からじゃない」

「ああ、ごめん。我ながらいいこと言ったな~と思ってさ。セルフカバーしてみたくなったんだよね。いっそのこと、それだけでアルバム作ろうかな」


 界人は諦めて溜め息をついた。


「お前が僕を鍛え直すって……?」

「あのおじさんの死に様があまりにも格好よかったからさ、わたしも一丁なんかやってみようと思ってさ。この摂津しとねちゃんの個人授業を受けられるなんて果報者め。個人授業といっても、いやらしい意味は一切ないからね」

「いや、別に期待はしていない」

「なんでやっ! し~ろ~よ~、期待! こんなに可愛い女の子が言ってるんだぞ! ちょっとは反応してみせろ!」


 じゃれあう二人を制するように病室のドアが開いた。

 看護師が困惑した顔で立っている。


「あの~、他の患者さんもいらっしゃるんで、お静かにお願いします」


「あ、すんません」

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