第56話 信じるということ
整髪料でぴっちりと整えられたオールバックに理知的な額、鋭い瞳が猜疑心の強さを物語る。
「係長、お忙しところすいません」
詩英里が頭を下げると、エザロもそれに倣う。
高島は顔をしかめた。
「この部屋、何かにおうな」
会議室の空気に灰色のモヤモヤが現れた。
ご丁寧に〝タバコ〟と文字も浮かび出した。
詩英里が苦笑いで言い訳を口にしようとしたその時、ドアがバーン! と開いた。
そこにスプレーを持った女性が立っている。
「あなた、そんな時には【クリアッシュ】よ!」
高島が振り返って、
「ママ?! なんでここに?!」
と叫ぶ、
【クリアッシュ】の広告には家族が登場する。
パパ、ママ、そして、姉と弟という構成だ。つまり、突如現れたのは、高島の妻ということになる。
「気になるニオイがあったら、放っておけるわけないでしょ! さ、あなた、これをどうぞ!」
ママから【クリアッシュ】のスプレーボトルを受け取った高島の身体が光を放つ。
「よし!」
高島は部屋中にスプレーを吹きつけまくると、漂っていた灰色のモヤモヤが端っこに微かに残りながらも消えていった。
ママが得意げに言う。
「これ一本で消臭も殺菌もできちゃうの!」
スプレーが済むと、詩英里たちも含めた四人で大きく息を吸い込んだ。
「じゃあ、頑張ってね、パパ!」
ママが部屋を出て行くと、高島は何事もなかったように椅子に座り直した。
「
【プレジール】は詩英里の持っている電子タバコのメーカーだ。
商品はそれ自体が広告の意味を持っている。自社商品が非常識的に使われていれば、企業は広告棄損で訴えることもできる。
「すんません、気をつけま~す……」
「それで、話というのはなんだ?」
高島のその一言で空気が一変する。
詩英里も気合を入れるようにジャケットの襟を正した。
「例の
高島の表情が引き締められる。
捜査一課の人員を割いてもらって空振りをした詩英里たちには、当然ながら厳しい目が向けられる。ただでさえ
「調査の過程で、
「ちょっと待て」
高島が詩英里の言葉を遮る。
「お前たちは細見のビルの件を調べているんだろう? それとこれとは話が別だ」
「現場となったエミリオ土地建物のビルですが、同社内に失踪している社員がいました。広報部の
「誰がそう言ってる?」
「
「牧野が?」
鋭い視線がエザロに突き刺さる。それだけでエザロは委縮してしまう。
「私の考えはこうです」
詩英里が注意を引くように声を高める。
「襷木さんは清香の不正の事実を知って、告発のための準備を進めていた。そこを見つかり、口封じのために事件に巻き込まれた。犯人は、清香の不正が暴露されるのを恐れている人間です」
「……お前は自分が何を言っているのか理解しているのか?」
長い沈黙の末に、高島はそう尋ねた。
「もちろんです」
「あの清香を敵に回すことになる」
「だからといって、疑惑を見過ごすわけにはいかないでしょう」
「清香に対して、『あなたは不正に手を染めるどころか、その秘密を知った人間を暗殺する企業だ』と言うことになるんだぞ」
「そう言えるための証拠固めをしたいんです」
「その仮説は牧野のものだろう。朽木、お前の考えじゃない」
エザロがぎくりと肩を震わせた。詩英里は微動だにせず、高島の視線を正面から受け止めている。高島は続けた。
「牧野は細部を見る力はあるだろう。だが、全体を見て総合的な判断を下すにはまだまだ精進が必要だ。その仮説も不確かな伝聞に基づいて、想像を膨らませて作り上げたものだ。朽木、お前が一番知っているだろう? 牧野の早とちり、勇み足、勘違い……。お前はそれに振り回されてきた」
エザロは膝の上で拳を握りしめていた。
辛辣な言葉だったが、言い返すには的を射すぎていた。それをエザロ自身が誰よりも自覚していたのだから。
撤回します──エザロがそう口を開こうとすると、詩英里がフッと笑みをこぼした。
「確かに、こいつは救いようのないポンコツです。そのくせ、口答えは達者で、私はいつもイライラさせられています」
エザロは俯いてしまう。
「ですが、こいつもこいつなりに変わろうとしていますよ。
思いもよらなかった詩英里の言葉に、エザロは耳を疑ってしまう。
いつもは暴言と暴力で自分を跳ね返していた彼女が自分のために高島に弁を振るっていることに、エザロは胸を熱くした。
「後輩の成長は嬉しかろう」
高島はうなずいた。しかし、その表情は変わらない。
「だが、今回ばかりは薄い想像で動くわけにはいかない。お前もそう思っているはずだ」
「ええ、ぶっちゃっけますけど、これは牧野の案ですよ」
「えっ、詩英里さん、いきなりなにを……」
急に裏切られたのかと、エザロは冷や汗を流す。
「じゃあ、仮に私が言い出したとしたらどうです? それでもくだらないと一蹴しますか?」
高島は黙ってしまう。
「私も昔は無鉄砲でしたよ。諦めが悪い分、
「そんなことはない」
「それとも、【クリアッシュ】の
「冗談でもそんなことを言うな」
契約している広告を理由に自らの義務を怠ったり、誰かに何かを強制したりすることは個人の意思の尊重に反するため、広告管理法で禁じられている。
高島は話を切り上げるかのように立ち上がる。
「後で詳細を詰める。課長にも話を通さねばならないだろう」
「了解です」
詩英里が凛と返事をすると、高島は硬直したままのエザロを一瞥して部屋を出て行った。
詩英里がニコリとして、エザロの背中を思いきり叩いた。
「デカいヤマだぞ、ボサッとしてんじゃねえ!」
「す、すいません、ボクのアイディアを背負ってもらって……」
エザロは詩英里の目を見ることができなかった。
そんな彼の横で、ひと仕事終えたかのように詩英里は電子タバコを吹かし始めた。
エザロは頭を下げていた。
「こ、今度はしくじらないように頑張ります──」
「バカか、てめえは!」
「え……?」
「しくじったとしても気に病む必要なんかねえんだよ! 責任なんか取る必要ねえんだよ! バカ正直に頭と足動かしてりゃいいんだ! なんのためにあたしがいると思ってんだ。おまけか何かだと思ってんのか?!」
エザロはじっと詩英里を見つめて、最後に思わず言ってしまった。
「詩英里さんのこと好きになりそうです」
詩英里はサッと立ち上がった。
「やめてくれ。お前みたいなヒョロい奴。……行くぞ」
「はい……!」
***
相棒であった
──
加藤の消滅した周辺での捜査は行き詰っていたが、それを図らずも細見の事件が進展させることになった。
デスクに拳を落とすと、隣の刑事がびくりと反応する。
怒りの対象が明らかになったことで、生駒は思いを新たにした。
──
その疑いの矛先はすでに一人の少女に向けられていた。
加藤は消される直前まで茜を追っていたと見られていた。彼の車から見つかったメモ帳がそれを如実に物語っている。
──有馬茜は、自分の正体が
周辺住民への聞き込みで、加藤が消えたと思しき時間の少し前に近隣の神社で不審な少女と出くわしたという男性も見つかっている。
加藤が入手していた茜の顔写真で面通しをした結果、その男性が出くわしたのが茜だということも分かっている。
その際に、男性は【ブラックリスト】という闇バイト情報サイトへの登録を促す広告のようなものに囚われてしまったという。
その事実は、茜が発動したものが未認証広告であることを示している。
茜は違法な業者との繋がりもあると加藤は突き止めていた。
つまり、茜は真っ黒だということだ。
ゴールデンウィークが近づいていた。茜の自宅へ向かう準備が着々と整っていく。
生駒は気合を入れ直した。
──待ってろ、有馬茜……!
***
まずは、マルダイフーズの
ただでさえ、世間からの
──自分だけが逃げおおせて、他の
そして、茜を追っていた加藤が勝手に消えてしまったことも、美弥を苛立たせていた。
消えてしまっただけではない。
警察関係者に探りを入れたところ、
──整然としない意味不明なものに殺されるとは、加藤さんも警戒を怠りましたね……。
こうなれば、
短絡的な推測を話した相手──加藤は、それから間もなく死んでしまった。
直接の関係はないにしても。美弥にとっては目を背けたくなる事実で、それが自分の胸の中にある良心を揺さぶった。
もしかして、自分のせいだったのではないか、と。
だから、つまらない推測に時間を割くくことはやめにしたのだ。
耳栓をした外側で、微かに機内アナウンスが流れているのを感じる。
美弥は窓に目を向けた。眼下に瀬戸内の海の輝きが見える。もうすぐ目的地の岡山空港だ。
美弥は首から下げたストラップについたスマホを掴んだ。
──午前十一時二十分着。
ミッションを確認する。
その必要はないほど目的は簡潔であったが、美弥はいつもの通りにする。
──堀田真理愛乃さんのご家族へ、彼女の広告契約解除の件を説明しなくてはなりませんね。
高度が下がる中、美弥は粛々と飛行機を降りるための準備を始めた。
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