第52話 ヒーロー颯爽登場
少し前
──僕に力があれば、こんな惨めな思いをしなくて済んだのに……。
幼い頃から、広告の治安維持に携わるエリートの息子としてもてはやされてきた。そして、周囲の期待に応えてきた自負が界人にはあった。しとねを前にしては、これまでの人生が無駄だったかのように思えてしまう。
──僕は、今まで何をしてきたんだ。
ビルの下から野次馬たちの悲鳴が立ち上ってくる。折れ曲がったビルから瓦礫が降り注いでいた。界人に後悔を噛み締める時間などなかった。
すぐに
「このビルに人を近づけるな! それから、手分けして周囲のビルに取り残された人たちを避難させるぞ!」
突然現れた制服を着た高校生に、彼らは怪訝な目を向ける。しかし、界人はウォッチドッグスのバッジを掲げる。
「僕は市長直轄の治安維持機関・ウォッチドッグスの統括官、
野次馬の中から、歓声が上がる。
「ウォッチドッグスかよ」
「初めて見るわ~」
「市長の息子?」
「高校生じゃん」
「イケメンやん」
それらの声を掻き消すように、上空から落下してきた巨大なコンクリート片が地面に激突して衝撃音を轟かせる。野次馬たちの悲鳴。それでようやく
サイレンが近づいて来る。警察と救急隊がようやく到着したようだ。
界人は警察と救急隊員のもとへ急ぎ、バッジを片手に手短に状況を説明した。
「応援はまだか?」
界人が尋ねると、口々に返答がある。
「付近のパトロール車両がこちらに向かってきています!」
「消防隊もすぐに到着予定です」
「では、連携してビルの中へ!」
界人は数人の隊員たちと、さきほどまで彼が屋上に立っていた建物の中へ飛び込んでいく。
すぐ隣のビルが崩壊の危機にあるといっても、このビルの下層階はまだ平穏を保っていた。広大な空間のエントランスホールには、壁一面の窓から外を窺う人や、平時通りに行き交うスーツ姿の人影がいくつもある。
「みなさん、ここは危険です! 隣のビルが崩れかかっています! 速やかに避難して下さい!」
界人たちは声を張り上げて、大勢の足音を聞きながらエレベーターホールへ向かう。
「上層階は戦闘の巻き添えを食らって被害がある可能性が高い。最上階から一階ずつ下へ降りて行こう!」
「分かりました!」
エレベーターは辛うじて一番上まで通じていた。最上階の一つ前のフロアでエレベーターを降りた一行は、呼びかけをかけを行いながら最上階まで昇っていく。
最上階とその下の階は、隣のビルに面したエリアに甚大な被害が見られたものの、取り残された人はいないようだった。
「まだ人がいるとすれば、オフィスのある下の階からかと思われます!」
集合した隊員の一人が告げると、界人はうなずいて、先陣を切って階段を下に駆け下りていく。
廊下に出ると、騒然とした声が聞こえてくる。通路の先は隣接するビルに面する方向だが、壁も床も破壊されて外気が流れ込んできている。
「みなさん、逃げて下さい!」
取り残されて混乱している社員たちに声をかけながら、オフィスのドアを開けさせる。中から、血に濡れた社員たちが駆け寄って来る。
「助けて下さい! 同僚が……!」
オフィスの中に駆け込んで、界人は状況のマズさを痛感した。
繰り刻まれて崩れ落ちた上階との間の分厚いコンクリートが何人かの身体を押し潰していた。それだけではない。土井の高圧の水流をまともに受けたのか、床を血で染めて生気なく横たわる人々もいる。
「大丈夫ですか!」
被害者のそばに駆け寄る救急隊員たちとは裏腹に、界人は足の力が抜けてしまい、茫然とその場に立ち尽くした。
誰かの生々しい死に臨むのは、初めてのことだった。
成人の全身の血液量が五リットルほどだということは知っていても、それが流れ出ているのを見たことなどなかった。
心臓マッサージのやり方は知っていても、本当の人間に施しているのを見たことも、実践したこともなかった。
人の苦しむ声、助けを呼ぶ声、死に瀕してヒステリックに叫ぶ人の声を初めて聞いた。
界人にとって、おぞましいことだった。その場で膝を突いて、床を叩きつけた。
彼らの犠牲の発端は、自分自身にあるのだ……界人はまざまざとその罪に向き合わされていた。
「怪我人多数です」隊員が無線に声を発していた。「おそらく十二階より上に怪我人等集中してるので、至急上まで来てください。エレベーターは動いてます」
身体が震える界人とは一線を画す隊員たちの迅速な行動。
──僕はここでも何もできずに……。
かといって、今の自分の状態では、救急隊員の足手纏いにしかならないだろう。
崩れ落ちた分厚いコンクリートを持ち上げたり除去したり、怪我を癒したりするような
ズタズタに切り刻まれて開口部分になったオフィスの壁の向こうから、衝撃音が伝わって来る、
しとねたちが戦っているのだ。
自分ただ一人が無力感に打ちのめされているこの状況が、界人を囃し立てる。
──僕にだって、何か……何かできることがあるはずなんだ!
ゆっくりと立ち上がる。これまでも期待に応えてきたのだ。その数かな自信が界人を突き動かしていた。
「もうすぐ日没だ」
「ああ、早めに終えないと」
救急隊員たちが話し合っている。
オフィスの照明は死んでいた。窓の外には、西へ向かうにつれて藍色から濃いオレンジ色にグラデーションしていく空。
ろうそくの火のように遠い山の稜線に太陽が光っている。
──そうだ、
その閃きは、溺れる者が掴む藁のようだった。
だが、界人にとっては乾坤一擲のアイディアだった。
──いける!
界人は隊員たちへ声を飛ばした。
「引き続き怪我人の手当てと逃げ遅れた人の避難誘導を頼む!」
「あなたは?」
界人はビルの開口部に立って振り返った。
「戦いを停めに行く」
──【ルートマスター】
光が界人を包み込む。
この時の界人は知らなかったのだ。
***
「あああああぁぁ……!!!」
「ああ、手がっ!! 僕の手がぁっ!!」
小学生の頃からの約十年、ピアノを習ってきた。
「上手ね~、界人」
初めてピアノを弾いてみせた時、母がそう褒めてくれたのを界人は今でも鮮明に憶えている。
右腕の二の腕の途中から先がなくなっていた。血は流れていない。ただ、そこから先が初めからなかったかのように消えているのだ。
「ああああぁっ!!!」
涙が溢れて、界人はその場で嗚咽した。
自惚れていた一瞬前までの自分を殺してやりたかった。取り返しのつかないミスを栄誉で上書きしようとして、それ以上に悪い状況に陥った。
もう終わりだ、と界人が全てを投げ出そうとする。
目の前の
「バカ野郎!」
その胸を
その最期の眼差しが界人の網膜に焼きついた。何を訴えたかったのか。何を思っていたのか。界人には、そこから何も読み取ることができなかった。
「……っ!!」
声にならなかった。
しとねの
離れた場所に瞬間移動したしとねは、そばで腑抜けてしまった界人の襟首を掴み上げた。
「ちょっと! しっかりしてよ! わたしベビーシッターなんかしたことないんだから! ちゃんと立ってって! 市長の息子なんでしょうが!」
「土井が、僕を庇って……」
「見てたから分かるわ、いちいち言葉にしなくたって」
「なんで助けなかった……」
「
「なんで僕を助けた!!」
涙と鼻水を垂れ流して、界人がしとねに掴みかかる。
「あのさ、ごめんけど、今は君のドラマに付き合ってる暇ないの。
「な、何を言って……」
しとねが界人の後頭部の髪を掴んで
「状況分かった? このままじゃ、わたしだって死ぬかもしれんのよ。もちろん、君だって。君の方が確率高そうだけど。わたしは最悪逃げられるけど、わたしの辞書に逃げるって言葉ないんだよね。実際はあるけど、塗り潰してんのよ。わたしっぽくないからさ。で、君はマジで何の役に立たないまま死ぬつもり? 何のためにここに来たのよ? ちょっとは何かしたいと思ってきたんでしょうが。わたしは神社じゃないから、君は君の願いくらい自分で叶えようとしなさいよ」
最後に界人の頭を引っ叩いて、しとねがゆっくりと近づいて来る
「まずは簡単な質問から。君の契約してる広告は?」
「なんだって……?」
「作戦立てるから早く答えろって、ボンクラ!」
界人は涙を拭った。
「【スマイラーズ】と【ナノウォッシュ】、それに【ルートマスター】……」
しとねは手を叩いた。
「はい、お利口さん。っていうか、三つしかないのか──いや、待って。特級、一級、一級……」
しとねは
「君さ、
「……悪いか」
「別にいいんじゃないの。でもさ、低級の広告を内心見下してるようにわたしには感じる。分かってたけどさ、君、プライド高すぎだよね。新作の広告は庶民的なやつにしたら? オファーくるか知らないけど」
あまりにも打ちのめされ過ぎて、界人はいつの間にか立ち上がれるくらいには立ち直っていた。
「僕は何をすればいい?」
「危なくなったら
「【スマイラーズ】なら広告を発動すれば、
「だから、広告効果自体が意味ないんだってば。
「ほとんど同じものが使える」
しとねは一瞬のうちに作戦を確定する。
しとねの契約している広告と現状で使えそうな
【アオイゴム スーパースキン0.01】(避妊具;三級)……
【USC シェアセンシング】(通信事業;一級)……
【SN】(マッチングアプリ;三級)……
【強炭酸スパークハイ】(缶チューハイ;二級)……
【スカイ】(清涼飲料水;金剛級)……使えそうな
【アフタースクール】(プチプラコスメ;三級)……使えそうな
【トレーズランド】(テーマパーク;金剛級)……
結論──物理を上げてタコ殴り!
「腕、大丈夫なの?」
そう訊かれて界人はゾッとしながらその切断面に触れた。エッジの立った切り口にも肌が滑らかに続いている。
「大丈夫じゃないが、大丈夫だ」
「めっちゃ哲学的じゃん。そういえば、ソクラテスってまわりの人を論破しまくっててめっちゃ嫌われてたらしいね」
「……その話、今は要らないだろう」
しとねはニカッと笑顔を見せた。
「大丈夫で、大丈夫じゃん。
「〝いつでも〟〝コミュニケーションを通じて〟〝済ませられちゃうの!〟〝そんなの、もったいな~い!〟」
しとねが手のひらに拳を打ちつけると、彼女の身体をスパークが走る。
「やったろうじゃん。おじさんに若者の力を見せてあげようよ」
界人が
「【スマイラーズ】
異空間の中から声が聞こえる。
「〝探し物はなんですか~♪〟〝迷子のお知らせです〟〝どこにいても一緒だよ……!〟」
しとねが親指を立てた。
「ちょっとは効いてるじゃん」
しとねは勢いよく駆け出した。その拳が空間を内包した球体に打ち出されると、爆発音がして球体が破裂し、
「〝痛いの痛いの飛んでいけ~〟」
急速に修復されていく身体にしとねがさらに一撃を加えようとしたが、次の瞬間、しとねと
「こいつ、わたしの
しとねの背後を取って攻勢に転じようとする
が、今度は水の糸で空間を切り裂いて、脱出を許してしまう。界人は叫んだ。
「
「君ってバカでしょ。アニメと現実を一緒にしないで。しっかり練習してからやるもんでしょ、そういうのは!」
襲い来る
「君タチニハ、ガッカリダヨ……」
土井の声だった。一音一音をツギハギしたような、不気味な喋りだ。
グググ……と、黒い顔に肌の色が混じり出す。見え隠れする髪の生え際、黒い肉の中から浮き上がる冷徹な目……それも紛れもない土井の特徴を持っていた。
「いまさら言うけどさ、わたし人を殺したことはないのよ」
「それはよかった」
「若いから経験不足でさ」
「大人はみんな殺してるわけじゃないぞ」
「
「さっきまで
「おじさんが君を助けたのを見て、なんかね……」
しとねはポツリとこぼした。
咄嗟に界人を救えなかった自分をしとねは恥じていたし、何の躊躇いもなく動くことができた土井を不思議にすら思っていた。
彼は、自分の命を盾にしたのだ。
「悪を容赦してはならんのだよおぉ~!!」
遥か彼方から目にも止まらぬ速さで突っ込んできた〝何か〟が
高熱で揺らめく空気を纏って、その人影は中空に静止した。
鼻まで覆うバイザーのついた赤いヘルメット。
筋骨隆々の身体を押し込める赤と銀のぴったりとしたボディースーツ。
なにやら細々とした模様が浮かび上がるマントが風にはためいている。
よく見れば、そのマントの表面に無数の企業やブランドのロゴが隙間なく入っていることが分かるだろう。
「うわ、なんか来た……」
しとねがボソリと呟くと、謎のスーツに身を包んだ男が振り返った。
「なんか来たとは心外だな! こう見えても、私は広告の平和を愛するヒーローなのだ!」
「初めて見たけど、ホントに現実でそんな格好してる人いるんだって今思ってるよ」
「ふぅむ! 話題の最年少
界人がその場で崩れ落ちた。
「やっと来てくれたのか……──父さん」
「えええええええぇぇぇぇ~~~~~~っ?!!!」
夜の帳が下りる空にしとねの絶叫が響き渡った。
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