第47話 マズくてやばくて取り返しのつかないこと

 ウォッチドッグスと刑事たちの経緯を辿る物語は終わりを告げた。

 だが、それは終わりというよりは始まりであった。



土井どいに関する調査から距離を置いて頂きたい』


 再び遠隔会話テレローグ越しに大久保おおくぼが要請する。


 彼はこの作戦の指揮官として、滞りない遂行を責務としているのだ。相手が刑事といえども、道を譲るわけにはいかなかった。


 しかし、それは詩英里しえりも同様だ。


「あんだとぉ?! あんた、さっきまでのあたしの話聞いてなかったのかよ? こっちには涙ぐましい努力の結果、ここまで辿り着いたって感動のエピソードがあっただろ! 退くのはそっちだ!」

「詩英里さん、やめて下さい……!」


 ヒョロヒョロのエザロが取り押さえようとしても、暴れる詩英里を止められるわけがなかった。


 土井の自宅マンション前である。そこでギャーギャーと喚く一団があっては、周囲の住民の視線を集めてしまう。アリサは慌てて、


「とりあえず、土井さんはどこかへ転移してしまいました。ここは一時休戦としませんか?」


 と場をとりなそうとした。それが詩英里の火にさらに油を注ぐハメになってしまう。


「休戦ってことは今まで戦ってたって認識があるってわけか、お嬢ちゃんよぉ……! でもって、再開する見込みもあるってことか!」


 アリサがわなわなと肩を震わせる。


「い、いい加減に──」

「ちょ~っと! いったん落ち着きましょうか、皆さ~ん」


 冷や汗を流した千代せんだいが手を叩いて戦線へ躍り出る。その慌てっぷりの理由を仲間たちは察知していた。


 つまり、キレたアリサは××××××××……ということだ。



 収拾のつかない状況の中、界人かいとはじっと監視デバイスからの音声に注意を傾けていた。


 ずっと何の動きのない廃工場内だったが、監視デバイスが真人まさとのポケットの中で擦れる音がして、状況が一変した。


『──……あ、こ……、こんにちは。お疲れ様です……』


 クリアな音声だった。足音が近づいて来る。男の声がする。


『いい加減、君の顔を見るのも飽き飽きしてきたな』


 ──土井……現れたか。


「中の様子はどうだ?」


 松井まついが廃工場から少し離れた場所にいる界人のもとへやって来た。繋がったままの遠隔会話テレローグの向こう側では、不毛な議論が迷走している。


「へっ、賑やかな連中だ」

「どうやら土井が現れたようだ」


 界人が声を潜める。その横顔を松井の詮索するような目が見つめている。彼には、ウォッチドッグスのオフィスを出る直前の会話が引っかかっていた。


 松井さんと僕を廃工場組にするように大久保に言ったんですよ──


 界人は確かにそう言っていた。


 そう言う彼の目が野心にまみれていた頃の自分自身を想起させて、松井はなぜだか心を弾ませていた。彼はもう一線ラインを跨いでいるのではないか、と。


『ちょっと待て』


 界人の耳の向こうで、土井の声が空気をピンと張り詰めさせる。それが真人を委縮させているようだった。


『な……なんでしょうか?』

『広告を長くやっていると、超感覚スーパーセンスというのが心身に染みついてくるものだ。ある人間はそれを広告性パーソナリティー障害の初期段階と言い、別の人間は広告による知覚拡張だと説明する。どちらも正しく、同時にどちらもどうでもいい戯言だ』

『は、はい……、そうですね』

『意味も分からずに相手に同意を示すのは感心できないな。若者なら若者らしく、理解することを追い求めるべきではないのか? だからこそ、君は我が社マルダイフーズのために動いているのではないか?』

『その通りです』


 真人が自分の意思というものを放り捨てているように界人は感じた。


 ──土井による教育……いや、調教、か?


『まあ、そんなことはどうでもいい。オレの直感が告げている。君から悪意のオーラ―を感じる、と』

『そんなことはありません!』


 真人の必死の訴え。それが廃工場の中に響き渡った。


『ふむ、君も我々に忠誠を誓った身だ。そう簡単に君を疑うようなことはしないさ。だが、確かめさせてもらう。──【ゴマスタ PCプロテクション】抽出エクストラクテッド……、悪意探知テル・イル‐ウィル


 その瞬間だった。界人が遠隔会話テレローグを切断して立ち上がった。


「松井さん、マズい……! 監視がバレる!」


【ゴマスタ PCプロテクション】はパソコン内の悪意あるマルウェアを検出する。悪意探知テル・イル‐ウィルとは、つまり、その名の示す通り、悪意のある異分子を探し出す効果を持っているということだ。


 ──明確な攻撃の意識だ。


 松井は冷静だった。立ち上がり、廃工場へ突撃していく界人の背中を、その意図を瞬時に汲み取った松井は追っていた。


 界人の背中は広告治安を守る勇敢なものなのか、それとも、愚策を返上するための焦燥感に駆られたものなのか、松井は測りかねている。


 ──アリサはほとんどいつも冷静だ。だいたい正しい論理を振りかざして正道を行く。土岐ときは感情に任せるところはあるが、この組織ウォッチドッグスへの忠誠心はある。


 なるほど、と松井は理解する。

 彼女たちは界人のブレーキになり得る。


 ──見越していたのだ。見透かされていたのだ。いざという時に俺がおぼっちゃまを止めないということを。


 界人の耳の中を、ガサガサと耳障りの悪い摩擦音が動き回る。


『最新鋭の監視デバイス……』

『俺はこんなもの、知りません!』

『これを見れば分かる。君に用意できる代物ではない。君にこれを仕掛けたのは誰だ?』

『わ、分かりません……』


 土井の笑い声。


『トラブルはごめんだ。だが、オレを飽きさせない奴らが潜んでいるということは理解した』

「──松井、一気に片をつける!」


 界人が叫んだ。松井は思わず笑みをこぼした。


「了解」


 監視デバイスの破壊された音が界人の耳をつんざく。イヤホンのコードを引っ張ってイヤーピースを取り去ると、界人は戦闘態勢へ移行した。



 廃工場の入口に辿り着いた界人たちを待っていたかのように、轟音を上げて周囲に巨大な水の壁が聳え立った。まるで、界人たちを逃がさないかのように。


「なんだ、お前たちは」


 突如、廃工場の上空に土井の姿が現れた。遍在オムニプレゼンスで中空に転移したのだ。だが、土井に空中移動を可能にする広告術アドフォースがないのは確認済みだ。


 無防備な瞬間──。


 その期を逃すまいと界人が即座に唱える。


「【ナノウォッシュ】抽出エクストラクテッド……、捕獲粒子キャプチャ・パーティクル──!」


 光を帯びた巨大な粒子が土井に殺到する。それらが衝突し、土井を拘束するはずだった。しかし、そこに土井の姿はない。ぶつかり合って砕け散る粒子の中、界人の眼前に土井が現れる。


「咄嗟に脳内で唱える余裕はないか?」


 高速の拳が界人の顎に向けて打ち出される。松井はすでに広告術アドフォースを準備していた。


 ──【塗るケトブロック】抽出エクストラクテッド……、鉛塊付与マッスル・インゴット


 塗る鎮痛剤である【塗るケトブロック】の広告効果には、身体の凝りやすい筋肉が硬直して鉛のように重くなるものが含まれている。


 土井の首や肩、腰に鉛の塊が癒着して、その動きを鈍らせた。土井の拳を間一髪で回避した界人は土井の懐に飛び込んでその胸に手を当てた。


「【ルートマスター】抽出エクストラクテッド……、終着跳躍ディスティネーション・ジャンプ!」


 土井の身体が光に包まれて、廃工場の壁に向かって急加速する。凄まじいスピードで土井が壁に激突した。爆発音と砂ぼこりが上がる。その衝撃と共に、周囲を取り囲んでいた水の壁がパッと消失する。


 終着跳躍ディスティネーション・ジャンプはその名の通り、設定した目的地へ高速移動するための広告術アドフォースだ。界人は土井の身体を目的地である廃工場の壁に飛ばしたわけだ。


 一級広告である【ルートマスター】を瞬間的に打ち破るのは、上級である金剛級広告を用いる以外では容易なことではない。


「おいおい、オレを殺しに来てないか?」


 砂煙の中、黒い服を白く汚して土井が歩み出る。多少なりともダメージは負っているらしい。


「念のために提案しておく。大人しく投降しろ」


 界人の言葉に土井が笑い声を上げた。すぐにその笑顔が消えて、界人をじっと観察する。


「我々の契約者と同じ高校の制服……お友達を取り戻そうとやって来た。にしてはそこの目つきのいやらしい大人が絡んでいるのが不可解だ。お父さんというわけではあるまい」


 冷徹な土井の視線を受け止めて、松井は吐き捨てる。


「けっ、初対面の人間に対する礼儀ってものを知らないらしい。可哀想な大人だ」

「それを言うのなら、他人ひとの仕事に横槍を入れるような尊敬リスペクトに欠ける行為の方が礼儀知らずの可哀想な人間のやることではないか?」


 廃工場の中から真人が顔を覗かせる。


「なにやってるんだ、徳川とくがわ……!」


 界人は舌打ちを禁じ得なかった。


 ──こういう時だけ僕の名前を口にするなよ。


「徳川?」土井の表情が闇に包まれる。「つまり、お前は市長の息子であり、ウォッチドッグスの一員か」


 ──こいつを逃がしてはならない……!


 逸る内心を隠しつつ、界人は揺さぶりをかける。


「ならどうする? これ以上続けるなら、市長を敵に回すことになるぞ」


 だが、土井にはそのような脅しは通用しないようだった。


「知っているか? 不審な失踪が相次いでいるということを。ならば、君たちにも同じように消えてもらえば、何の問題もない」

「その言葉、お前の雇い主マルダイフーズが聞いたらどう思うだろうか。逃げ帰っていればよかったと後悔することになるぞ」

「そうはならないさ。君たちはオレのことを調べ上げているだろうから、少し教えてやる。遍在オムニプレゼンスは、指定した座標へオレ自身を割り込ませる。だから、お前たちの首にオレの身体を割り込ませれば、首をちょん切ってやることくらい造作もないのだよ」


 松井は鼻で笑う。


「原状復帰の原則を知らないらしいな。この場は逃げおおせても、俺たちはお前を逃がしはしない。お前の悪事のネタはもう挙がってるんだよ」


 土井は首を捻る。


「なぜ君たちはオレが逃げることを考えていると思い込んでいる? 逃げようと思えば、すでに消えているさ。君たちは終わりだ。ここで死ぬ」


 超然としたその態度。


 松井は嫌な予感がしていた。土井の目は何事をも厭わない暗さを宿している。覚悟を貫き通すような闇の深さに、松井はいつか見た地獄のような光景を思い返していた。


 正義のためなら人は誰を傷つけることも厭わない。

 自らが正義だと信じる者は、すべからく間違ったことをする。


「まさか……」


 松井の喉を突いて、たった一つの可能性がせり上がって来る。

 土井が歯を見せた。黒い服とは正反対の、白い歯。

 低く、威圧感のある声だ。それが、小さく告げた。



「──原則解除」



「逃げろっ──!!」


 松井が叫ぶ。

 土井の前へ伸ばした手が、界人の喉を突き破って──


 だが、そこに界人の姿はなかった。

 代わりに可憐な声がする。



「あ~あ~あ~……。ダメだねえ。ダメだよ、まったく」


 廃工場の屋根の上に界人は立っていた。その肩に手を置いて、一人の少女が嘆いていた。


 ダボッとしたオーバーサイズのパーカー。

 ショートパンツからは真っ直ぐな白い足が伸びている。

 無骨で大きなスニーカー。

 ツインテールにした金色の長い髪。

 大きくて円らな瞳。

 自信に満ちたように口角の上がった口。


原則解除それはねえ、ダメだよ。お前さんみたいな人間が持ってちゃダメだよ、まったく」

「誰だ、お前は?」


 ツインテールの少女がニカッと笑う。


「まあ、そうだよねえ。そうなるよねえ。わたしみたいな可愛い子がいたら、名前を知りたくなるもんだよねえ、まったく。むしゃぶりつきたくなる脚だなあって、ホントは心の中で思ってるくせにねえ」


 屋根の上の少女に身体を向けて、土井が怒りを滲ませる。


「あいにく、オレは子どもには興味がない」

「うんうん、言い訳をしても身体は正直っていうか、性犯罪で捕まったおじさんたちも、何でもないですって顔してたんだろうと思うと、ホントに世の中には欲望が皮を被った人間ってのが跋扈してるんだと実感させられるよねえ、まったく」

「おい、話を聞いてるのか」


 少女は界人の肩に手を回す。


摂津せっつしとね──。はい、よかったねえ。わたしの個人情報を一つ持ち帰れるねえ。おまけにもう一つ教えて進ぜましょう」


 そう言ってしとねは土井をビシッと指さした。


「わたしは、☆天才美少女☆でありながら、史上最年少の折衝役コーディネーターにして、折衝役コーディネーター協会の未来の会長サマであるぞ!」


 時が止まってしまう。


 しとねの発する言葉が冗談なのか、マジなのか、ここにいる誰も判断できなかったからだ。


 それが不満だったらしい。


「おいっ! わたしが直々に自己紹介したんだ! ちょっとは〝お~〟とか〝きゃ~〟とか、反応を示すのがこのしとねちゃんに対する礼儀ってもんじゃないのかねえ、まったく」


「それ以上喋るな……」


 土井が身構える。界人はしとねに肩に手を回されるまま警告を発した。


「マズい。来るぞ……!」

「ふっふっふ……」しとねの不敵な笑み。「心配ご無用、感無量。三四がなくて、五六ゴム付けよう」


 意味不明な文句を発したかと思いきや、次の瞬間には、天を突くしとねの拳が土井の顎を打ち上げていた。


「【アオイゴム スーパースキン0.01】から抽出するところの、超至近距離愛コンシダレーションなりぃっ!! 愛すなら、付けねばならぬ、アオイゴム──しとね心の川柳……」

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