第46話 ここまでのこと②

 それが面なのか胴なのか分からない気合に満ちた声と竹刀が弾ける音が飛び交う。ここは阿戸あど西高校の武道場・耕清館こうせいかんだ。高校の敷地の隅、物静かな一角に佇んでいる。


「この畳のにおいを嗅ぐとめちゃめちゃ憂鬱な気分になるんですよね……」


 エザロが呟く。


「はん、どうせ道場でしごかれたんだろ、てめえの泣きっ面が目に浮かぶわ」


 意地の悪そうな笑みを浮かべて、詩英里しえりがそばに置かれた剣道の防具に手を伸ばす。


「剣道を選んだので、その時の思い出が蘇ります……」

「どうせ投げられたり極められたりで柔道から逃げただけだろ。今度、勝負しようぜ」

「嫌ですよ。なんでそんな苦行をしないといけないんですか……」

「あたしは昔、都の大会に出たこともあるんだぞ、知ってるか?」

「知ってますよ。〝二刀流の朽木くちき〟ですよね。よくもまあ、そんな細腕でできますね」

「じゃあ、今度勝負な。てめえの腐った根性叩き直してやるよ」

「いや、勝手に決めないで下さい……」


 二人が喋っていると、道場の奥の部屋から日焼けをした大柄な男がきびきびとした所作でやって来た。


「すみません。お待たせいたしました」


 教頭の久我原くがはらだ。二人は彼の要望で道場の片隅で事情を訊くことになった。生徒たちの様子を見ておきたいのだそうだ。


「それで、ご用件は?」

「今月の九日、阿戸西高校ここで生徒同士の広告事件が起こったそうですが」


 詩英里がそう切り出すと、久我原は「ああ……」と声を漏らした。


「中庭で起こったと聞いています。広告に割り込んだ生徒の話では、自分が広告契約している商品が負けたくなくて、思わずやってしまったということのようです」

「まあ、契約を始めたばかりの高校生ならそうなるのも無理はないですがね」


 詩英里自身にも、そういう感情を抱いていた過去はある。初めて与えられたものに対する使命感が若者を駆り立てるものなのだ。


「ただ、その件はもうすでに解決済みですが……」


 怪訝そうな久我原にエザロが手を差し伸べるように言う。


「その件自体について話を聞きたいというわけではないんです」

「というと?」


 畳の上に胡坐をかいていた詩英里が身を乗り出す。


「事件の事後処理について知りたいんですよ。我々の資料では、マルダイフーズの要請で広告主スポンサー間の示談になったとある。マルダイフーズから学校側へ何か働きかけはなかったのかということが訊きたい」

「ああ、それなら……、私もその場に同席していましたので、憶えていますよ」

「どんな要請が?」


 目を爛々と輝かせる詩英里だったが、久我原は困惑したように頭を掻いた。


「要請というわけではありません。マルダイフーズの方は加害側の生徒に対して、未来ある若者の些細な過ちだから大事おおごとにはしないであげてほしいと、とても熱心に訴えていました」


 意外な言葉に詩英里はエザロと顔を見合わせてしまった。


「なんか、すごく契約者フレンドリーな感じだったんですね」


 エザロが感想を述べると、久我原は大きくなずいた。


「もちろん、そういう事案が起こってしまったので、マルダイフーズで短い講習があるということにはなりましたが」

「その話し合いの席にいたマルダイフーズの人間が誰だったのか分かります?」


 詩英里がそう尋ねると、久我原は小さく手を叩いた。


「名刺を頂きましたので、分かりますよ。職員室にあるんですが、持って来ましょうか?」




 久我原が持ってきた名刺に目を通して、二人の思惑は一致した。


「ちょっと写真に撮らせて頂きます」


 エザロはそう言ってスマホで名刺を一枚一枚撮影していった。


 その中の一枚に二人の目は釘付けだった。



〝マルダイフーズ 監査部 主任監査官インスペクター 土井どい和広かずひろ



「この人が加害生徒の……南野みなみの真人まさとくんの担当の監査官インスペクターですか?」


 詩英里が眼光鋭く問う。


「ええ、そうだと思います」

「ところで、その南野くんについてですが、小耳に挟んだんですけど、現在は不登校だとか」

「よくご存知で。どうやら体調不良ということのようです」

「今回の件と何か関連が?」

「あるあもしれませんし、ないかもしれません。我々としては何とも言えないところです」

「この学校にはカウンセラーなんかはいないんですか?」

「常駐のカウンセラーがいますが、今回は南野くん側からカウンセリングを断っているんです。『その必要はない』と」


 詩英里は少し考えて、久我原に向かって声のボリュームを落とした。


「実は、我々はマルダイフーズの監査官インスペクターの周辺調査をしています。あなたもご存じでしょう、〝監査官インスペクターによる私刑問題〟を……」

「ええ、ですが、そんな人には見えませんでしたが」

「それを確かめるためにも調査が必要なんです」

「私は何をすれば?」


「南野くんの住所を教えて下さい」



***



二日後 月曜日 午後三時十五分


 土井のマンションの近くに停まっている車に、詩英里が近づいてきた。手にはコンビニの袋を提げている。


 助手席に滑り込むなり、エザロが泣き声を上げた。


「ちょっと詩英里さん、なんでずっとボクにばっかり見張りさせるんですか……! しかも独りで……!」

「うるせえ! てめえの好きなエクレアとシュークリーム買って来てやったから黙って食え!」

「わぁ、ありがとうございます!」


 喜びの声。エザロは単純な人間である。


「エクレアもシュークリームも形が違うだけで構成は同じだろ……」




 あれから、二人は捜査一課からほんの数人だけ人員を得ることができ、彼らとチームになって土井と真人を監視する体制が作り上げられていた。


 不審失踪が絡むだけに、詩英里の上司も渋りながら、数日だけという約束で人員を配置してくれたようだった。


「土井の様子は?」


 電子タバコを吹かす横でシュークリームを頬張りながらエザロは答える。


「相変わらずですね」

「具体的に言え!」


 頭に一発食らって、エザロは鼻の頭にクリームをつけたまま話を続けた。


「家から出て職場に向かうだけです。本当にやましいことに手を染めてるんですかね」


 短い調査期間と質素な監視体制では、土井を捉えることは難しいとエザロは感じていた。


「南野くんの方は少し収穫はあったぞ」


 詩英里はコンビニの袋から自分用に買った甘辛ダレで味付けされたさきいかを取り出して封を破った。


「詩英里さんってにおいがするもの好きですよね……」

「誰がクセえって?!」

「それは言いがかりすぎますって!」


 詩英里はさきいかをモシャモシャと咀嚼しながら、真人の状況について話し始めた。


「監視班の話し振りからすると、南野くんは元気みたいだぞ。朝早くから家を出て、駅前を歩き回ったり、東阿戸町まで行ったりして、【カップスタイル】の広告を発動してる。広告監視機構AMAにも照会をかけた。昨日だけで、四十二回も発動してた」

「詩英里さんも他の機関のシステムフル活用してるじゃないですか……」

「──んんだと?! てめえはいつも一言多いな! あたしはいいんだよ!」


 理不尽な詩英里の怒りに耐えながらも、エザロは首を捻っていた。


「じゃあ、学校に行かない間、ずっと広告を……?」

「九日の件から不登校になって、数日後からは広告中毒アドホリックみたいに連日広告を発動しまくってるぞ」

「土井に何か吹き込まれたんでしょうか……?」

「てめえが奴のしっぽを掴まねえから……」


 詩英里がエザロをギロリと睨みつけた。


「ボクだけの責任ですか……?」


 詩英里は小さく息をついた。


 ──とは言ったものの、このままじゃ何の進展もないまま……。


 余剰の人員を確保しておけるのも、せいぜいあと一日か二日程度しかない。その間に何かしらの成果を挙げなければ意味がないのだ。


 成果とは、土井を疑うに足る証拠を挙げるか、土井を捜査線上から外す根拠を見つけるかのどちらかだ。少なくとも、詩英里にとっては。


 このまま何も収穫がなく、消極的に後者を選ぶハメになるのは避けたかった。



***



「朽木、自分の考えが空振りだったことを恥じる必要はない」


 いつだったか、詩英里が功を焦って短絡的なミスを犯したことがあった。


 路上で切りつけられたと被害を訴えた女性の「ストーカーにやられた」という言葉に、詩英里は周辺で頻繁に目撃されていた被害者の元交際相手をかなり乱暴な手段で取り押さえることに成功した。


 しかし、後に分かったことだが、その男は被害者女性の友人から「彼女の様子が気になるので近くにいてほしい」と相談されていただけだった。


「すんません、藤堂とうどうさあん……。切腹させて下さぁい……」

「大袈裟だな……。そこまでの失敗じゃないだろう。朽木は潰すべき選択肢を潰した……ただそれだけだよ。気に病むことはないさ」

「藤堂さあああん……!」


 どさくさに紛れて詩英里が抱きつこうとするのを、衛士えいじはさらりとかわした。


 結局、事件は被害者女性と見られていた女の狂言で、自分自身を切りつけたのだと判明した。どうやら、事件の半年ほど前から心を病んでいたようだった。



***



「詩英里さん、どうしました?」


 我に返った視界にいきなりエザロの顔が現れて、詩英里は思わず右フックをその顔面にお見舞いしてしまった。


「ごがっ!」


 聞いたことのない呻き声を上げて、エザロがハンドルに頭をぶつける。


「悪い、牧野! 反射的に……!」

「反射的に殺人パンチ繰り出すのやめて下さい……。天国が見えるところでしたよ」

「お前なら地獄だろ」

「なんてこと言うんですか……」

「ついでにちょっと提案なんだが、バカな振りして土井に話を聞きに行かないか?」

「何がついでなのか分かりませんけど、マズくないですか?」


 詩英里は真剣な顔だ。


「この監視体制も長く続けられるわけじゃない。それなら、土井にちょっかいをかけて動きを見る方が早いだろ」

「いや、でもですね……」

「考えてもみろ! 何もできずに土井の線を諦めるか、当たって砕けて土井を諦めるか、どっちがマシだと思うんだ?」

「結局諦めるんですか……」

「それで、土井がボロを出せばこっちの勝ちだろうが!」


 エザロの首を掴んで前後に揺らす。揺れる車体の中に男女二人……はたから見れば、いかがわしい状況だ。


 エザロが考えあぐねていると、土井の自宅マンションの入口から、土井の姿が現れた。


「行くぞ、牧野!」


 商品の入ったコンビニの袋を後部座席に投げ込んで、詩英里が外に飛び出そうとする。


「ああ、もう! 全部台無しになっても知らないですからね!」


 エザロも後を追うように運転席のドアを開け放った。



***



「──ってことなのよ!」

「行き当たりばったりだな」


 得意顔で話し終えた詩英里に、界人かいとが一言を添えた。


「行き当たりばったりですね」


 アリサがうなずくと、千代せんだいも詩英里を睨みつける。

「絵に描いたような行き当たりばったりだわ」

「行き当たりばったりって言うな~~~っ!!」


 詩英里は悔しさで涙を浮かべながら、大暴れした。

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