第42話 アンダーウォーター①
四月第四週 月曜日
朝のホームルーム前の
「おいす~」
いつもは前髪を作っている
「気合入ってんの?」
「ちゃうわい。死ぬほど前髪決まらんかっただけだい」
彼方のそばの
「小学生の頃を思い出すな。あの頃も前髪なかっただろ」
「女子の前髪は心のバリアなんよ」
「じゃあ、今はバリアないのか」
「ない。ガバガバ」
彼方が呆れる。
「女子がガバガバとか言うな」
ただでさえシャツの第二ボタンまで開けている上に短いスカートなのだ。彼方は美言を案じて事あるごとに注意してきたが、美言は彼方の心も知らずに、屈託のない笑顔を返した。
「ガバガバガバナンス」
絢斗が眼鏡の奥の目を訝しげに細める。
「なんだよそれ?」
「知らん。朝のニュースチラ見してたら言ってた」
「ガバガバガバナンスって言ってたのか?」
「ガバナンス」
「聞いたことないぞ、ガバナンスなんて」
「変なおじさんが言ってたんだもん」
「ガバガバガバナンスって?」
「ちーげーえーよー。ガバナンス」
不毛なやりとりを前にして、彼方は耳を塞いだ。
「やめてくれ、ガバガバガバガバ言われて頭おかしくなりそうだ」
美言の目が廊下の方に向けられる。
「おっ、
手を振る美言に、教室の廊下に面した窓を通して
「有馬ちゃん、なんか顔色悪かったね」
「そうだったか? 有馬さんは〝色白女子ランキング第四位〟だからな」
「お前はいつランキング集計してんだよ」
三人が喋っていると、
「お前ら、よくもまあのうのうとこの場所にいられるな」
「いちいち突っかかって来ないと死ぬのか?」
茜と秘密を共有したことで心がいくぶんか強くなっていた彼方が皮肉ると、水野は怒った犬のように鼻の頭に皺を寄せた。
「なんだよ、てめえ……」
「あ、市長の息子や」
美言がそう口にすると、水野は慌てて席へ戻っていった。
「
女子が声をかけると、界人は殊勝にも笑顔を作って、
「ちょっと寝不足なだけだよ」
と答えた。
彼方はそんな界人を詮索するようにじっと見つめていた。
***
十四時間前 ウォッチドッグスのミーティングルーム
彼はマルダイフーズの
暗い部屋のスクリーンにプロジェクターの光が伸びる。
「土井は阿戸市の西・
「何かあるのか?」
温度の高い部分は白く表示される映像だ。マンションの建物の中から、温度の高い影が現れる。
「これが土井です」
土井の白い人影はマンション脇の細い路地に向かい、そこでパッと消えてしまった。
「あ~、これは……」
「転移効果のある
大久保が吐息がちにうなずく。
「そう。土井は時折このように別の場所に転移しています。リアルタイムで転移先を把握することは難しく、それが土井を追跡する難易度を高めています」
「
タイトなスーツに豊満な身体を押し込めた
「わざわざ横道に入って転移してるってことは、良からぬことでも考えてるんじゃないのか?」
「ふむ。僕たち広告契約者には経済を回す努力義務がある……。移動を全て転移で、というのだとすれば少し引っかかるな」
真面目にそう呟く界人を見て、ウォッチドッグスのメンバーたちはそれぞれ複雑な微笑みを噛み締めた。大久保が咳払いで注意を引きつけると、先を続けた。
「全ての移動を、というわけではありません。どういう理屈で転移をしているのかは測りかねますが、自宅を出て職場であるマルダイフーズの
「決まりだろ。やばいことをする時には転移してる。転移移動するのは、俺たちみたいな人間に追跡されるのを恐れてるからだろうよ」
松井の短絡的な推測を千代が一瞥する。
「その発想は、そもそも土井がクロだという前提での話じゃないかしら。クロだと思って見れば、なんでも怪しく見えてしまうものではなくて?」
舌戦の火蓋が切られそうになるのを、横合いから可愛らしくも理知的なアリサの声がカットインして制する。
「土井さんの移動先にはどのような場所があるんですか?」
すぐさまスクリーンに情報を映し出して、大久保がレーザーポインターを使って説明を始める。
「阿戸市内には、マルダイフーズの関連拠点が多数点在しています。土井はその拠点間の移動には転移を用いていません」
アリサがやや前のめりになると、おさげ髪が揺れて丸眼鏡がきらりと光る。
「市内にマルダイフーズの
「そこには私も着目していた。マルダイフーズの
「三十二件も!」松井がピュウと口笛を吹く。「さすが、広告特区さまさまだな」
阿戸市は広告の発展のために設けられた広告特区という制度の日本で最初の認定都市だ。ここでは、広告参入の障壁や広告の利用の制限が部分的に撤廃されたり、軽減されたりしている。彼らウォッチドッグスもこの広告特区の恩恵を受けている組織である。
「しかも、マルダイフーズの
「となると、それらの
アリサが眉尻を下げる。大久保も口角を下げてスクリーンの資料に目をやった。
「うむ。
「それも、私有地なら外部の人間を排除するのは容易なことね……」
千代が同調すると、ミーティングルームには停滞した空気が漂っていく。
「土井の転移移動先はマルダイフーズの
界人が口にすると、松井が頭の後ろで手を組んで椅子に仰け反る。
「土井が使ってる
「そんなことをすれば大問題よ」
切りっぱなしボブの髪を振り乱して、千代が目くじらを立てる。
「だいいち、私たちは明確な根拠があって土井を調べているわけじゃないのよ」
「それに、全ての
界人が千代に助け舟を出すと、彼女は嬉しそうに「ねえ?」と小首を傾げてみせる。松井は言い訳のように口の端を歪めた。
「それくらい分かってますよ。俺が言いたかったのは、もし土井をとっ捕まえるなら、奴の広告契約の状況を把握しておくべきってことなんですよ」
大久保はニヤリと笑う。
「そう来ると思い、すでに
「仕事が早いわね」
千代が舌を巻く。
大久保がスクリーンに映し出される内容を切り替える。そこには、土井が契約している広告が一覧となっていた。
プロプル【リダックス】(一級広告;衣料用洗剤)
メリーノ【メリーノ・ユニバーサル・カード】(一級広告;クレジットカード)
サナダ【マリク5000X】(二級広告;電気シェーバー)
マルダイフーズ【カップスタイル】(三級広告;カップ焼きそば)
ゴマスタ【ゴマスタ PCプロテクション】(三級広告;セキュリティソフト)
「一級広告が三つ……なかなかだな」
松井の鋭い目がスクリーンを睨みつける。反対に丸眼鏡の奥の瞳を輝かせるのはアリサだった。
「転移の広告効果があるのは【メリーノ・ユニバーサル・カード】ですね。世界中で使われているクレジットカードだと表現するために、世界各地へ転移する広告が展開されていますから」
「さすが広告博士ね」
千代がなぜか誇らしげに胸を張ってみせる。アリサは好奇心をくすぐられたのか、早口になる。
「これを見る限り、バランスのいい広告契約ですね。セキュリティソフトの【ゴマスタ PCプロテクション】で土井さんのデバイスに侵入するリスクが高まりますし、仮に戦闘になれば、【ブリミンゴールドDX】は体力を回復させ、【カップスタイル】には一時的に時間の進みを遅くする広告効果があります。【リダックス】には水流を発生させる力もあり、【マリク5000X】は別空間へ一時的に退避することもできます。……難敵です」
大久保はスクリーンに今後の方策を示した資料を表示させた。
「我々の最優先目標は、土井が〝
「確かに、戦闘は可能な限り避けるべきだな」
界人が腕組みをして息を深くつく。
「土井が
大久保の提案に松井は懐疑的だ。
「
「いや、土井自身に監視デバイスを仕掛ける」
「ますます危険じゃないか」
「いや、試してみる価値はあるし、効率的だろう」
界人が理解を示すと、大久保は松井に密かに笑みを向けた。松井は「勝手にしろ」と言わんばかりに手を振った。
決意に満ちた目で界人が立ち上がる。
「〝
ウォッチドッグスのメンバーが一斉にうなずいて、ミーティングは終了した。
「ねえ」
メンバーが解散した後のミーティングルームで、千代が大久保に声を落とした。他のメンバーが退室していくのを待っていたらしい。
「界人くん、ちょっと無理をしてないかしら?」
「というと?」
「ほら、お父さまに発破をかけられたんでしょう? わざわざ公立の学校へ進学させられて……」
「市長にも考えがあるんだろう。それは我々が口を挟むべきことではない。それに、界人さまがあのようにこの広告社会に義憤を抱き始めたのはここ最近のこと……。彼を取り巻く環境がそうさせたのだとすれば、あながち間違いだとは……」
「けれども、土井がクロだと決めてかかっている節があるわ。お父さまに認められようと事を急いているように感じるの。まさに功名心に逸るということよ」
「界人さまに限ってそんなことは……」
千代は界人を案じるばかりに眉間に皺を寄せた。
「まだ十五歳よ」
その短い言葉に、大久保は黙らされてしまった。
「警戒しておくことにしよう」
千代は安堵したように微笑んだ。
「ふふっ、頼んだわよ、〝お兄ちゃん〟」
「調子に乗るな」
「あら、ごめんなさい」
千代は身体をくねくねさせて部屋を出て行った。
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