第43話 アンダーウォーター②

四月第四週 月曜日 午前五時すぎ


 自室のデスクに向かっていた界人かいとはショボショボする目に目薬を差して、大きく息を吐き出した。


 暗い部屋を弱く照らし出すパソコンのモニターには、界人がまとめ上げたデータが羅列してある。


 ──怪しい物件プロパティは四件……。これだけ絞り込めれば問題ないだろう。



***



四時間前


 マルダイフーズの監査官インスペクター土井どい和広かずひろ広告術アドフォースを使って転移移動する先を洗い出そうとしていた界人が目をつけたのは、広告領域アドフィールドに相応しくない物件プロパティだった。


 通常、広告領域アドフィールドに設定されるのは、広告主スポンサー命名権ネーミングライツや所有権などを持つ施設や初めから広告を目的として作られたエリアなど、広告主スポンサーと深い関わりのある施設や場所だ。


 そういった場所では、他社の広告を制限することが可能になる。


 例えば、多数のキャラクターや作品を擁する世界的にも有名なテーマパーク【トレーズランド】内では、他社キャラクターや作品は排除され、入園者たちは【トレーズランド】の世界観に浸ることができる。


 界人は、大久保おおくぼがまとめた阿戸あど市内のマルダイフーズが所有する広告領域アドフィールド化された物件プロパティを一つ一つ見ていき、とある奇妙な物件プロパティに行き当たったのだ。


 ──放棄された土蔵……?


 阿戸市の一角に、かつて存在していた酒造会社の跡地があり、分筆された土地の一つを上物うわものも併せてマルダイフーズが所有することになった。


 その土地に酒蔵として使われていた土蔵が並んでおり、マルダイフーズはそれを改修することなくそのままにしていた。


 ──この土地の改修計画も、どこにも見当たらないな……。


 企業として土地を購入したのならば用途に合わせて改修するはずで、それならば株主に向けた計画の説明などもありそうだったが、そういった情報は見つけられなかった。


 ──澄澤すみさわの方か。


 阿戸市澄澤は阿戸川あどがわ上水と呼ばれる運河が流れる南西部に位置している。界人はデスクの上の時計に目をやった。午前一時過ぎだ。


 界人は、ふぅ、と息をついて立ち上がると、パジャマの上にカーディガンを羽織ってベランダに面した窓をゆっくりと開けた。隣室では、弟の頼人らいとが寝ているのだ。


 ベランダのサンダルを履いて、界人は街の南西の方へ身体を向けた。さきほど目を通した資料で、目的地の住所は頭に入っている。


 ──【ルートマスター】抽出エクストラクテッド……、終着跳躍ディスティネーション・ジャンプ


 界人の身体を光が覆って、空高く打ち上げる。


 先日、彼方かなたの腕を取ってこの広告術アドフォースを発動した時のことを界人は思い出した。


 界人の目から見た彼方は、皮肉屋で無駄口の多い短絡的な男だった。


 そういう同年代と顔を合わせることはそれなりに多かったが、初めて彼と目が合った時の得体のしれない雰囲気を界人は忘れられなかった。


 野心に満ちた瞳……一言でそう言い表すことのできない鈍い光を宿した目が真っ直ぐと自分に向けられていた。


 そこには、思春期だからなのか、どこか危なっかしい不均衡が秘められているように界人には感じられて仕方がないのだった。


 この世界をじっと見つめるような視線に、界人は身を引き締められる思いだった。それを裏づけるかのように、彼方は広告妨害に走った……。


 界人には、彼がそれだけで収まるような衝動を持っているとはどうしても思えなかった。だから、そばに置いて彼を観察しようと思い立ったのだ。


 ──……考えすぎかもしれないな。


 界人は眼下を飛び去る街の景色に、再び跳躍ジャンプ先への集中力を高めた。




 サンダルで目的地である澄澤の土地プロパティそばに降り立った界人は、敷地内に入らないように周囲を歩きながら辺りを観察していった。


 夜の土蔵群は暗闇の中に静かに座り込んでいるだけだ。土地の中には街灯はなく、交通量のある道も距離がある。


 ──人目を避けるならいい場所かもしれない。


 界人は自分のスマホに送信していたマルダイフーズの物件プロパティ情報を確認して、次の場所へ跳躍ジャンプした。



***



 そうやって夜の間ずっと街を飛び回っていた界人は、朝日が昇る頃にようやく広告領域アドフィールドに似つかわしくない物件プロパティをリストアップし終えたのだった。


 カーテンの隙間から差し込む早朝の空の明るさに、界人は目の前のデスクに突っ伏した。


 ──調査に夢中になりすぎて、寝る時間がない……。


 こういう時に、界人は疲れを回復する商品の広告契約のオファーが舞い込みやすい大人を羨んでしまう。高校生になりたての自分はまだ栄養ドリンクのメインターゲット層には遠いのだ。


 かといって、これから短い時間眠るのは遅刻の危険を伴う。


 界人は阿戸西高校での生活を完璧なものにしなければならないという思いがあった。


 優秀な進学校ではなく、玉石混交の集団にあって、一つでも傷のつくような事実を作ってしまっては、父親に自分の無能を見せびらかしてしまうようなものだ。


 隣室の壁が音を立てる。頼人が寝返りを打ったのだろう。


 ベッドをこちらの部屋の壁際に置いている頼人は壁に身体をぶつけることがある。


 ──頼人の奴、いいご身分だ。


 界人と比べて、頼人は成績がいいわけではない。父・征人せいとからの期待も、界人と比べれば小さいだろう。


「界人はすげえよな」


 それが頼人の口癖だった。


 そう言っておきながら、自分は友達と一緒にフットサルに出かけていくのだ。その活き活きした背中に、何度理不尽を覚えたことだろうか。


 期待を一身に受ける界人と違い、両親は頼人を放任していた。


 兄の出来がいいからなのか、弟の出来を諦めているのか……界人には分からなかったが、それでも、弟よりも優れている兄でいることが必要なのだと信じ続けていた。


 また壁が音を立てる。


 舌打ちをしそうになって、界人は自分を落ち着けた。ただ寝不足なだけだ。そのせいで、正常な判断力が鈍っているのだ。


 頼人は屈託のない、良い奴だ。


 世間的に荒れると言われている中学二年生でありながら、両親にも兄である界人にも感情をぶつけることなく、「ごめん」も「ありがとう」も言うことができる。素直で真っ直ぐな奴なのだ。


 ──僕は、真っ直ぐだろうか?


 ふと、重い感情が喉の奥から顔を覗かせようとした。


 その時、部屋のドアが小さくノックされた。弾かれるように突っ伏していたデスクから顔を上げて、ドアの方を見た。


「界人、よかったらコーヒーでも飲む?」


 母の杏奈あんながカップと小皿の載ったトレイを手に薄く開けたドアの隙間から顔を覗かせていた。


「どうしたの、こんな時間に?」


 小声で訊きながら、戸口でトレイを受け取る。湯気を吐くカップの隣、小皿の上にはゴーフレットが二枚重なっていた。


「一晩中ずっと大変だったでしょう?」


 廊下の照明を背中に杏奈が気遣うようにそっと言った。


「……起こしちゃった? ごめん」

「いや、いいのよ」


 母はいつも言葉少なだ。しかし、いつでも兄弟をよく見ている。


「ありがとう」


 母はうなずいて、行こうとする。


「ねえ、父さんは昨夜帰ってないの?」

「仕事が立て込んでるみたい」


 征人はこの街と広告のために心血を注いでいる。その姿を幼い頃から見てきた界人には、その姿がなによりも頼もしく、尊いものに映っていた。


「大変だね……」


 杏奈は笑う。


「あなたもね」


 廊下を歩いていく母の背中と温かいコーヒーの香りが、界人の心を解きほぐした。



***



四月第四週 月曜日 夕方


 授業が終わる頃には、界人の眠気もマックスを通り越して、むしろ目が冴えるまでになっていた。


 帰りのホームルームが終わり、すぐに下校の準備に取り掛かる。


 本来、風紀委員の手伝いを行うはずだったが、街の見回りをした日以来、活動は自粛気味だ。それに従って声がかかることもなくなり、界人はウォッチドッグスの活動に専念することができていた。


 そこではたと気づいて、界人は隣のクラスからあかねが顔を出すのを待った。


 アリサに茜の件で動くように指示を出しており、界人でも茜に探りを入れるつもりだったのを思い出したのだ。



***



 アリサは言っていた。


「奇妙な女の人が有馬ありまさんの周辺を探っているという情報は掴みましたが、それがどこの誰なのかはまだ分かりません」

「想像でいい。どんな人間が考えられる? この前は広告主スポンサーが絡んでいると言っていたな」

「あくまで想像ですが、その女性は別件の調査の結果、有馬さんに行き着いたんじゃないでしょうか。その調査こそが有馬さん宅を訪れた警官が口にしていた〝とある失踪事件〟に繋がると想像します」

「なるほど。広告主スポンサーによる契約状況の調査の中で広告契約者が失踪していることが分かったという経緯か」

「つまり、有馬さんの周囲を探っていたのは、監査官インスペクター……」

「こっちも監査官インスペクター絡みか」


 土井に続いて茜の件もデリケートなものを孕んでいる可能性に、界人は気を重くした。



***



 人の流れの中に、ひと際目を引く茜の白い顔が浮かび上がる。界人は周囲の目が自分に向けられているのもお構いなく、茜の目の前に突き進んでいった。


「有馬さん、ちょっと……」


 伏し目がちな瞳がパッと界人を見上げた。なにか底知れない恐怖のようなものが宿る眼差しに、界人は思わず尋ねた。


「休みの間、何かあった?」

「なんでもない」茜は詮索を恐れるように顔を背ける。「体調が悪くて……」


 茜はそう言い残して廊下を駆けだして行ってしまった。


 その様子を見ていた野次馬たちは、何を思ったのかお互いにコソコソと耳打ちをするのだった。



***



 ウォッチドッグスのオフィスに直行した界人を待っていたのは、興奮気味な大久保の報告だった。


「今朝、界人さまから頂いた情報を精査しましたところ、マルダイフーズの物件プロパティの中に南野みなみの真人まさとの生活圏に被るものが一件ありました」


 暗いミーティングルームのスクリーンに廃工場の外観写真が表示された。


「十五年ほど前に倒産した受託加工工場──いわゆる町工場の跡地です。七年前にマルダイフーズがここを購入。その後、広告領域アドフィールド化されています。周辺住民の間では、長らく所有者が解体費用を出せずに建物がそのまま残っているというウワサが広まっていました」

「ガキどもの遊び場にされそうだな」


 松井が口を挟むと、大久保が彼を指を差した。


「まさに、七年前まではそういった状況だったようだ。七年前にマルダイフーズに所有権が移ってからは管理が厳しくなり、不良たちの溜まり場だったのが改善された」

「周辺住民からすれば、ありがたい話ね」


 千代がニコリとするが、大久保は首を振る。


「ところが、今でもこの廃工場に出入りする人間が時折目撃されていて、それを気味悪く思っている住民もいるようだ」


 アリサが首を傾げると、おさげ髪が揺れる。


「管理者じゃないんですか?」

「それが、性別も年齢もバラバラで、色々なウワサが飛び交っているようだ。ポジティブなものでは、廃工場のロケーションが何かの撮影に使われているというもの。ネガティブなところでは、怪しい宗教が集会を開いているというウワサまである」

「廃工場が撮影場所として利用されるケースはあるが、それならば撮影隊などかなり大所帯になるだろう」


 界人が指摘をすると、大久保は昔の新聞記事をスクリーンに映し出した。


「これはマルダイフーズとは関係はないのですが、四年ほど前に〝監査官インスペクターによる私刑問題〟が取り沙汰されるきっかけになった事件では、広告主スポンサーからの必要以上のノルマ強制を受けた被害者が広告主スポンサー関連企業の施設内で暴行を受けることになりました」

「俺も覚えてるぞ」


 松井が顔をしかめた。


監査官インスペクターは被害者を痛めつける際、服を着た時には見えない部分に暴行を加えていた。しかも、この事件は警察も広告治安局アドガード広告主スポンサー監査官インスペクターの名前を公表しなかったし、今も分かってない。まあ、裏で圧力をかけた奴がいるんだろうがな」

「ただでさえ被害者は広告契約を失ったり、他の広告主スポンサーから敬遠されることを恐れて声を上げられないのに……」


 千代が胸に手を当てて鎮痛の表情を浮かべた。新聞記事に目を通していた界人は、眉間に皺を寄せた。


「被害者が仕掛けていたスマホの録音で発覚したのか……」


 大久保はうなずいた。


「加害者側の視点に立つ時、広告契約者に対する私刑の露見を防ぐならどうするでしょうか?」


 大久保の問いの意図を察したのか、松井がニヤリと歯を見せた。


「自社が思い通りにできる場所に契約者を呼び出し、監査官インスペクターが直接その場所に転移移動する。私刑の後は契約者を帰し、監査官インスペクターは転移して立ち去る」


 ミーティングルームの空気が張り詰める。


 そのタイミングで、大久保のスマホが鳴った。短いやり取りの後、電話を切った大久保が声を上げる。


「現場の監視チームからです。南野真人が廃工場方面へ移動を開始した、と」

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