第41話 寂滅
夜遅くになって、
七本目の【レッドバルーン 濃いハイボール】の缶を開けたところだった
時刻は深夜零時を過ぎている。
──どこに行くつもりだ……?
アルコールで足がもつれそうになりながらも静かに車を降りて、加藤は足早に住宅街を行く茜の背中を追いかけた。
自宅のある住宅街を出た茜は大通りには出ずに、一本奥の脇道を夜の繁華街のある方角へ向かって行く。
──ひと気のない道を選んでいるのか……?
一般的な女性とは異なる行動原理に、加藤は頭を悩ませた。
別の住宅街を進む茜は、途中に現れた小さな公園に入って行った。周囲には低木とフェンスで囲まれていて、視界を遮るものがない。加藤は距離を取って茜を観察した。
茜は公園の広場の真ん中に立って、キョロキョロと辺りを見回した。制服のスカートがひらひらと揺れる。
──誰かを待っているのか?
しかし、スマホを取り出すこともなく、彼女はしばらくその場でフラフラとした後、公園を出て行った。
──何がしたい? なぜ制服を着ている?
加藤の中に疑問が山積する。
そんな緊迫感高まる中、ポケットの中でスマホが震えた。画面に表示されているのは〝
「なんだ?」
加藤は小声で応じた。
『いえ、また飲んだくれているのかと思いまして』
生駒
不幸なことに加藤と組まされた相棒であるが、未だに男社会の香りの強い刑事部屋にあって張り切りすぎるのがありがちな若い女刑事の中では、フラットなままでいるところを加藤は買っていた。
「最低なタイミングで電話してくるな」
『ああ、また〝狩り〟ですか。ならまだマシですね』
「どういう意味だ」
『酒浸りなんだとしたら、そろそろ切り上げて下さいと言うところでした』
「ハイボールを六缶開けた」
『そろそろ切り上げて下さい』
「そう言うな。今いいところなんだ」
電話の向こうで溜め息。
『一昨日の殺人の件で別の参考人が見つかったんで、加藤さんに頼みたいんですよ。口の堅い女で』
「明日だろ。分かったから、お前ももう寝ろ」
『明日時間通りに来なかったらぶっ殺しますからね』
「……オレはお前の大先輩だぞ」
『関係ありません、そんなこと』
一方的に電話が切れる。
複雑な表情で電話を切る加藤の先、住宅街の道の真ん中で茜が立ち止まっていた。すぐに物陰に隠れる。
茜は時々背後を振り返ったりするので、酔いの回っている加藤はかなり慎重を期す必要があった。
──普通の人間は歩く時に振り返ることは滅多にない。何か企んでいるな。
それは身辺調査を行う人間には常識的な事実だった。加藤の警戒心が時間を追うごとに強まっていく。
しばらくすると、住宅街の只中にこんもりと木の生える場所が見えてきた。
神社だ。
茜は躊躇いもせずに、近くに小さな街灯が一つだけ立っている暗い森の中へ足を踏み入れていった。
今度はさきほどと違い、遮蔽物が多い。加藤は木々の間へ身を滑り込ませた。
落ちている葉や枝を踏まないように慎重に進む加藤の先に、境内が広がっていた。
月明かりが微かに照らす茜が何かに向けて小走りに駆け寄っていた。何かとは、黒いジャージに身を包んだ男性だった。
「……ですか? あの、……──」
距離があるせいで、加藤の耳には茜の声が聞こえなかった。
だが、茜が声をかけた男性がどこか警戒したように身体を強張らせるのが加藤には見て取れた。
──待ち合わせしていたわけではない。相手は近所をジョギングでもしていた男だろう。
加藤が目を凝らしていると、茜がおもむろに制服のスカートをたくし上げた。
相手の男の視線がスカートの中へ吸い寄せられた。すぐにその顔がにやけるのが加藤のいる木立からでも確認できる。
──何をしている……?
あまりにも唐突なことで、加藤は自分が思っている以上に酔っぱらっているのかと錯覚した。
ジャージの男が下卑た笑みを浮かべながら茜に歩み寄って手を伸ばした瞬間、その身体が強張るのが分かった。
「なんだよ、これ!」
男は目の前が見えないのか、両手を頼りなさそうに前に伸ばして叫んでいた。茜はそれを見て踵を返すと神社を飛び出して行った。
加藤も急いで彼女を追う。
「待て!」
加藤は思わず叫んだ。さきほど通り過ぎた公園の中を茜が駆け抜けようというタイミングだった。
目に見えるほど肩をすくめて、茜が立ち止まった。
恐る恐る振り返るその瞳には、恐怖が宿っている。加藤は警察バッジを取り出した。
「神社でのことは見させてもらった。説明してもらおうか」
***
茜は心臓が凍りついた。
見られていたのだ。言い訳を返そうにも、口がパクパクと動くだけで言葉を捻り出すことができなかった。
「ネタは上がってる」加藤は言う。「お前が
「ち、違う……! 私じゃない!」
その否定は反射的なものだった。
茜の中にぼんやりとこれまでの人生が浮かび上がる。ずっと何かを抱えてきた日々だった。それを地面に下ろしたことなど、一度もない。
「さっきのは違法広告だな」
茜へ一歩ずつ近づいていく加藤に、茜は震える足で後ずさった。
「こ……、来ないで下さい!」
「なんだ? お前に手を貸した違法業者の奴らが助けにでも来るのか?」
茜の足から力が抜けて行く。
──全部、バレている……。
──せっかく普通の人になれそうだったのに……。
いくつかの秘密を守り続けさえすれば、ただの女子高生として、高校生活や友人や、もしかしたら恋人を作ることだってできると、茜はどこかで夢見ていた。
その夢が加藤の一歩一歩踏みしめる地面の小さな砂利の音で踏みにじられていく。
「人並みの人生でも送れると思っていたのか?」
心の中を読まれたような気がして、茜の目から涙が流れ落ちた。
「やめて……、やめて下さい……。お願いします……。しっかりとしますから、このままでいさせて下さい……」
涙で懇願する茜の必死の形相に、加藤は心を奪われそうだった。
いつか担当した殺人事件──その被害者である女の子が死の直前に犯人である母親に向けた謝罪の動画がフラッシュバックした。
母親が我が子に謝罪を強要し、その様子を自分で撮影したものだった。
加藤は悪夢のような記憶を振り払うように首を振った。
酔っぱらっているからだ……そう自分に言い聞かせて、心の中に唱えた。
──【レッドバルーン 濃いハイボール】
その刹那、加藤の脳天に振り下ろされた黒い爪が彼を真っ二つに引き裂いた。
ゼロ秒たりとも苦痛を感じる暇を与えられなかった加藤は、そのまま火花みのように消え去ってしまった。
「あ……、あぁ……!」
茜はその場に尻餅を突いてしまった。
月明かりを背に〝黒い影〟が立っていた。
最後に真理愛乃が駆け出していく背中に、茜は絶望を植えつけられた。
その絶望から、真理愛乃を殺してしまったという罪の意識が芽を出した。
必ず見つけ出して、復讐をしようと心に誓っていた。
思いがけなく現れた〝それ〟に茜はただ恐怖に打ち砕かれ、涙と鼻水を垂れ流して心の奥底から震えあがることしかできなかった。
〝黒い影〟が音もなく、茜の目の前に進み出た。
──いやだ……! いやだ! 死にたくない!!
ハッと、〝黒い影〟がその顔をどこかへ向けた。
何かを感じ取るようにじっとどこか遠くを見つめるような沈黙があった。
風が吹いたと茜が感じた時には、〝黒い影〟は忽然と姿を消していた。
***
生駒は怒り狂っていた。
とはいっても、それを表に出すことはしない──と本人は思っている。
「
デスクに両手を乱暴について、切れ長の目が係長の肥後に向けられる。その凄みに肥後も思わず引きつった笑いを返す。
「またどこかで道草食ってんのかね……?」
「私、昨夜言いました。『時間通りに来なければぶっ殺す』と。私はあの飲んだくれをぶっ殺しても構わないでしょうか?」
生駒がそう主張する理由は、署に呼んだ参考人を今も待たせてあるからだ。
「いやぁ……、誰かにやってもらうからさ、生駒さんは加藤に連絡してみてよ」
生駒は溜め息と共にデスクから手を引いて直立した。長い足を開いて仁王立ちするショートカットの彼女は、努めて穏やかに口を開いた。
「了解しました。腐るほど連絡しましたが、了解しました」
刑事部屋を出て行く生駒を横目で見て、肥後は近くの刑事を呼んだ。
「
「なんでまた俺なんすか。また加藤さんでしょ」
「奢るからさ、頼むよ~」
「いや、俺だってこの前の……──」
***
閑静な住宅街に加藤のおんぼろ車は独りでうずくまっていた。
知り合いの刑事や鑑識官を片っ端からけしかけてこの場所を突き止めた生駒は、腰に手を当てて首を傾げた。
念のために運転席のドアハンドルに手を伸ばすと、ロックがかかっておらず開いてしまった。
「酒クサっ」
助手席に転がる【レッドバルーン 濃いハイボール】の缶に目をやる。
──昨夜、ここで〝狩り〟をしていたのか。
助手席にはメモ帳の類も雑多に折り重なっている。生駒はそのうちの一冊を指先で摘まんで引っ張り上げた。
パラパラとページをめくると、書き込みのある最後のページに執拗なまでにぐるぐると丸で囲まれた殴り書きがあった。
〝堀田真理愛乃の実家電話番号〟
番号の書かれた下には、〝失踪のことを伝える?〟と書き添えられている。
初めて目にする情報の数々に、生駒は時間が経つのも忘れて、ドアを開けたままの車のそばでメモ帳の内容に読み耽ってしまった。
──女子大生の失踪に女子高生が……? それを追っていたのか。
メモ帳の他のページには、関係者の住所などの情報が細かい字でびっしりと書き込まれていた。
──よくもまぁここまで……ん?
有馬茜の住所は目と鼻の先だ。生駒の直感が告げる。
──加藤さんは、有馬茜を追って行方をくらました。
***
生駒はすぐに加藤捜索の手配を行った。
近隣の公園から加藤のスマホと車のキーが発見された以外、加藤の居場所を知らせるものは見つからなかった。
彼の足取りは、神隠しにあったかのように消え失せていた。
自らの判断で有馬家への聞き込みは控えたものの、生駒には確信があった。それをすぐに実行しようとしなかったのは、加藤の残した資料を読み込む時間が必要だと感じたからだ。
世間を賑わせる不審失踪……それがこれほど身近で起こるとは、生駒は夢にも思わなかった。
「
刑事が報告書を置いていく。そこには、加藤の失踪前最後の広告発動履歴が記載されていた。
4月22日 午前0時42分 【レッドバルーン 濃いハイボール】
生駒が電話をかけた十五分ほど後のことだ。
あの時の加藤は酔っていた。
生駒は、この広告発動履歴が
かつて加藤はほろ酔いで〝狩り〟を楽しむと生駒に話していた。酔いを醒ますような事態が起こったのは疑いようのないことだ。
生駒は報告書をグシャッと握り潰した。もっと強く切り上げるように言うべきだったかもしれない。
──どこに消えたんですか、加藤さん……!
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