第40話 アウト・オブ・ザ・ブルー

四月第三週 土曜日


 阿戸あど市最大の繁華街である細見ほそみ


 その路地の入口から、駅へ向かう有馬ありまあかねたちを見つめる加藤かとうは、この日一日の茜を思い返していた。


 ──ごく普通の高校生……。


 友人たちと街を巡り、戸惑ったり、笑ったり、食事をとったり……、それは加藤が忘れかけていた青春であった。


 茜の周囲の友人たちの顔や名前はすでに把握できていた加藤は、この後は時間が許す限り茜を尾行けるつもりだった。



 友人たちは茜の悪行について知らないのだろう、と加藤は想像する。もし知っていれば、あれほど屈託のない笑顔を見せることはないだろう。


 しかし、加藤には引っかかるものがあった。茜と共にいた彼方かなたという少年のことである。


 彼は、今月の上旬に阿戸市森岡もりおかの飲食店内で広告妨害を起こした高校生だ。


 その広告妨害の被害者の一人であるモデルの栗濱くりはまステファニーとその所属事務所が広告治安局アドガードと警察へ通報を行っていて、警察でもその事件を認知していたのだ。


 ──それとも、犯罪意識の低い連中なのか……?


 思考の海に浸かる加藤のポケットの中でスマホが震えた。


 三門みかど電鉄の監査官インスペクター井上いのうえ美弥みやだった。


 加藤は茜から目を離すことなく、一定の距離を保って後を追いながら、電話に出た。


「久しぶりじゃないか」

『久しぶりとはご挨拶ではないですか、加藤頼光よりみつさん』


 その声は刺々しい。


 美弥はこだわりの強い人間だ。加藤は、自分が彼女に連絡をしないまま日が経っていることが彼女を苛立たせていることに思い至った。


「こっちもなかなか手が空かなかったんだよ」

『開口早々に弁明ですか。わたくしはあなたに狩場を与えたわけではないのですよ。あなたから「連絡するまで動かないように」と釘を刺されてどれくらい経ったと思っていますか? その後の有馬茜さんの状況はどうなっているのかご教授下さいます?』

「離せば長くなるが……」


 加藤はこれまでの茜の調査についてかいつまんで説明をした。


 その間に、加藤は茜たちを追って駅のホームに移動していた。




『つまり、堀田ほった真理愛乃まりあのさんは有馬茜さんによって意図的に消されたということですか?』

「オレの見解ではそうなる。そっちはどうするつもりなんだ?」

『堀田真理愛乃さんの行方は未だに知れずですので、わたくしの方では彼女の契約解除の提案を会社に提案しようと考えています』

「そうなると、家族を訪ねることになるか」

『そうなりますね。違約金請求などの広告裁判に関わることになりますから』


 加藤の視線の先で、茜が友人たちと談笑している姿が目に入る。


「有馬茜が契約しているという違法広告についての目星はついているのか?」

『それはわたくしの業務の範疇ではありませんので、分かりかねます』

「相変わらずきちっとしてやがる……」

『身分をわきまえているということです、あなたと違って』

「ふん、そのオレを頼ってあんな連絡を寄越したんだろう」


 加藤が茜を調べるきっかけは美弥からの一本の電話だった。


『場をかき回してほしいと思っただけです。その方がわたくしの仕事の効率が高まると思ったものですから。それがなんですか、連絡もなしに──』

「分かった分かった。オレが悪かった」


 加藤は、留飲を下げる美弥が電話の向こうで逡巡しているのが分かった。


「何かあるのか? 有馬茜について」

『いえ、堀田真理愛乃さんのことです。実は、昨年の八月に広告治安局アドガードのサマーインターンに同じ名前の人物が参加していたという情報を掴んだのです。珍しい名前だったので、彼女のことではないかと考えております』

「八月? 最後の広告発動は確か──」

『六月八日です』

「その後にインターンに参加してたっていうのか? じゃあ、失踪はそこから大学退学手続きが行われる九月の……」

『違法保証人の〝ハッピーライフ〟との取引は八月二十七日だったのでしょう? 広告治安局アドガードのサマーインターンは、お盆明けから八月いっぱいまで……。ですが、聞いた話では、堀田真理愛乃さんはインターン期間中の八月二十五日に参加を辞退したそうです』

「なんでまた?」

『体調不良ということのようでした』

「その二日後に違法な保証人業者と取引を……そのタイミングで何かに巻き込まれたということか?」

『さあ、どうでしょうね?』


 半ば諦めたような声が聞こえて、加藤は苦笑してしまった。


「これはお前の管轄だろう」

広告治安局アドガード内部の情報はほとんど外には出てきませんから。これ以上探ろうとすれば、厄介なことになりかねません。それは弊社としても避けたいことですので』


 加藤も頭を抱えてしまった。


広告治安局あいつら、外部の人間に非協力的だからな……」

『ですが、あなたのさきほどの話を聞いて、推測が立ちました。サマーインターンに参加していたのは堀田真理愛乃さんではなく、有馬茜さんだったのではないか、と』

「まだ高校生だぞ」


 加藤が視線を投げかけると、向こうで茜たちがベンチから立ち上がっていた。ホームに電車の接近を知らせるアナウンスが流れ始める。


『彼女は大人びた雰囲気があります。堀田真理愛乃さんになりすましていたとしても、年齢的な違和感はあまりないのではないでしょうか』

「いや、でもな……」


 美弥の推測を真っ向から否定できない加藤がいた。


 違法な保証人業者、退学手続き、真理愛乃の口座への送金と家賃支払い……明らかになったいずれも茜の明確な隠蔽行動だ。


 だから、美弥の言うことを彼女がやっていたとしても、なんら疑問はない。


 電車がホームに滑り込んでくる。


「すまん、もう行かなくちゃならん」

『あ、ちょっと……!』


 加藤は電話を切って、茜たちと同じ車両へ乗り込んだ。



 車内は休日の空気感を充満させ、少し混雑している。


 加藤は人の隙間を通して、笑顔を見せる茜に鋭い目を向けた。


 ──お前、本当に一体何者なんだ?



***



「──……の時の絢斗あやとの表情、目に焼きついて離れねえよ。この世の終わりみたいな顔してたもん」

「仕方ないだろう。姉ちゃんがいると思わなかったんだから」

「終わり顔だよ、終わり顔。動画撮っとけばよかったわ~」


 帰りの電車で彼方たちが笑いを交わしているのを、茜はニコニコして眺めていた。


 十年ほど共にいる仲なのだということがひしひしと伝わってくる。


 ──私はここにいていいのかな?


 ふとそんな疑問符が浮かび上がる。


「有馬さんだって、やばいと思ったでしょ?」


 彼方がそう訊いてくる。


「え、何が?」

「だから、絢斗の姉ちゃん。めっちゃビビってたじゃん」

「ビビってないよ……」

「さすがに姉ちゃんのことでも、有馬さんが気絶したのはショックだったぞ」

「え、私、気絶してた……?」

「ほら、もう気絶してた人が言うセリフじゃん」


 彼方が鬼の首でも取ったように笑う。


 しかし、美言みことは納得がいかないようだ。


香耶かやちゃんはそんなやばい人じゃないもん」


 絢斗が額を押さえる。


「はぁ……、なんで美言は昔から姉ちゃんの肩持つんだ?」

「だって、リスペクトしてるもん」


 彼方と絢斗が、げぇ~というように顔をしかめる。


 ──私だけ「さん」づけなんだ……。


 何気ない事実が、茜の心を苛める。




 そこまで自分の心を苦しめているのが、自分自身であるということを茜はよく分かっていた。


 私も戦いたいから──。


 彼方に思いの丈をぶつけられて口を突いたその言葉。


 それは紛れもなく茜の真意だった。


 しかし、それでも、胸に秘めたままにしていたことがあった。


 茜の中にある〝喋ってはいけないことリスト〟のことだけではない。




 そのリストにすら挙げず、その事実自体を認めずに心の奥に封印したこと。


 それは、茜が自分自身の罪から逃れるために、そして、誰かを騙すために、自分がこれまで否定してきた広告の力を利用し、別の罪を重ねたということ。


 この年齢ではとても持てない額のカネを違法広告から得て、恩恵を享受していたということ。


 この世界に疑問を持ち、変えようと真っ直ぐに訴える彼方の目を前にして、そんなことなど口が裂けても言えなかった。




 茜は必死だった。


 真理愛乃を殺してしまった、と今でも思っている。


 自分の母親に優しい瞳を向けられるたび、真理愛乃の母親から愛を感じるメッセージを受け取るたび、あの夜の路地裏での出来事がなかったことになればいいのに、と現実逃避したくなった。


 本当は真理愛乃を殺してしまったと思いたくなくて、真理愛乃になりすました。


 彼女の意思を継ぐなどという言葉は、そんな卑怯な自分を覆い隠すための大義名分でしかなかった。


 真理愛乃として振る舞うたびに、罪悪感以上に恐怖が彼女を支配した。


 真理愛乃を殺してしまったことがバレないように……茜はそのことばかり考えた。



「しっかりしているね」……そう言われることが嬉しくて、そうなれるように努力した。それが彼女のアイデンティティーだった。


 だから、違法広告のことも自分独りで背負ってみせた。しっかりあるべきだと思ったから。


 真理愛乃のことだって、もししたら、どこかで不意に見つけられるかもしれないと思っていた。


 その時のために、堀田真理愛乃という席を温めておくのは悪いことではないと自分に言い聞かせた。


 しっかりした自分なら、それができると信じていた。


 真理愛乃として広告治安局アドガードに潜り込み、優等生だと評価され、隊長のステラには将来を嘱望された。真理愛乃の人生に傷をつけずにいられたことが誇らしかった。


 それが自分自身を肯定した。




 彼方が現れて、彼女の中に変化が訪れた。


 彼方や美言や絢斗は、茜にアイデンティティーを求めない。

 忘れかけていた友人という存在に触れあった時に、茜は素直に感じた。


 飾らないままで、みんなと同じで、こうして笑っていたい。


 それは、この人生では二度と手に入らないと諦めていた矢先のことだった。

 だからこそ、失いたくなかった。


 彼方に手を差し伸べられた時、心の奥に封印していたことを口に出せなかったのは、自分自身を守るためだった。



 今は、この四人でいる時間を守りたかった。



 だから、ますます心の奥にあるものを、さらに奥に押し込んでいった。もう絶対に誰にも打ち明けずに、死ぬまで隠していよう、と。


 その苦しみ、罪悪感、葛藤が、今また茜に問いかける。


 ──私はここにいていいのだろうか?

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