第38話 蟒蛇の加藤 狩場への一歩

 阿戸あど市警察刑事部捜査一課には〝蟒蛇うわばみ加藤かとう〟と呼ばれる変人が在籍している。


 加藤頼光よりみつ……その男を表す言葉は多岐にわたる。


・小汚い格好に、数日剃らないのが当たり前の無精ひげだらけの顔

・天然パーマなのか、白髪の混じる髪の毛はいつ見てもモジャモジャしている

・妻子がいないどころか、友人の話を誰も聞いたことがない

・自宅に帰っているか怪しいほどに車の中の生活臭が拭えない

・生活能力の代わりに捜査能力を授けられた男

・非番や休日に重要参考人を挙げることが少なくない

・鉄の肝臓を持つ大酒飲み


 阿戸市最大の繁華街・細見ほそみ……入り組んだ雑居ビル街の奥まったところに飲み屋や小洒落たバーが詰め込まれている。


 細い路地に、クタクタのスプリングコートをぶら下げた男が現れる。踵のすり減った革靴で地面を叩く音が響いた。加藤だった。


 休日前の夜が始まろうとしている。


 無精ひげだらけの顎をジャリジャリと掻きながら、加藤は一軒のこぢんまりとしたバーの前で立ち止まる。


〝赤い気球亭〟──入口の上にぶら下がる看板には、赤い字でそう書かれている。


 加藤はベルの下がるドアを開けて、オレンジ色の照明の中にゆったりと脚を踏み入れた。バーにはカウンター席しかない。


 マスターが促すスツールに腰かけると、早速声がかかった。


「お客さん、いいのが入ってるよ」


 カウンターテーブルの上に現れたのは、赤い気球のロゴが目立つ黄金の缶──【レッドバルーン 濃いハイボール】だ。


 マスターの背後、本来なら様々な種類の酒瓶が並ぶであろうバックバーには、赤い気球のロゴの入った缶がずらっとこちらを向いてぎっしりと陳列されている。それしかないのである。


なぜなら、これは広告だから。


 期待を込めた眼差しで缶のプルタブをプシュッと開け、おもむろに口へ運んだ。強烈な炭酸と爽やかな風味と共に、九%のハイボールが乾いた喉を癒していく。


 そのうまさを噛み締めるように両目をギュッと瞑ると、広告は終わりを告げた。


 だが、バー・〝赤い気球亭〟は、そのままの状態で加藤を受け入れ続けた。このような特殊な環境がこの世界には存在するが、それはまた別の話。


 ──面白いことになってきやがった。


 加藤はテーブルの上に手書きの報告書を広げた。


 市内の警官に有馬ありまあかねを探らせた内容が、そこには記されていた。


 加藤は、〝別腹〟の案件は全てこうして昔のような紙の書類にまとめることにしていた。だから、加藤に付き合わされる人間もまた、こうして警察のデータベースには残らない報告書を慣れない手書きでこしらえなければならない。



 事の発端は、監査官インスペクター井上いのうえ美弥みやからの電話だった。


 とある女性の失踪に有馬茜という高校生が関わっている──。


 奇妙なタレコミだったが、加藤は彼女の調査能力と推察能力に一目置いていた。かつて〝別腹〟の調査で知り合っただけに、意味のない電話ではなかったことだけは確かだった。


 しかしながら、有馬茜の自宅へ差し向けた警官は手ぶらで帰ってきた。しかも、警官を追い払ったのは……、


 ──ウォッチドッグスの徳川とくがわ界人かいと……まだガキじゃないか。


 界人は現阿戸市長の息子で、有馬茜の通う阿戸西高校の生徒だ。そのよしみもあり、彼女の味方をしたのだろうと加藤は想像する。


 それでも、加藤は舌なめずりした。何かがある、と。


 不審失踪は、今や首都圏の警察に突きつけられた難題だった。そこに有馬茜が関わっているというのも、クセのある監査官インスペクターが一枚噛んでいるのも、加藤にはうまそうな獲物に見える。


 ──どう追い詰めてやろうか。


 刑事として、執拗に容疑者を追い、じわじわと絞め上げる蛇のような様を見て、誰かが言った──〝蟒蛇の加藤〟と。


 そして、彼は刑事の合間に〝別腹〟と称して事件を物色し、それを心行くまでしゃぶりつくし、あわよくば犯人と思しき人間の心が折れるまでに追い詰める〝狩り〟を楽しんでいた。


 加藤の蛇のように冷たい目が鈍く光を帯びた。



***



「204号室の? さあ、よく分からないですけどね……」


 加藤は美弥に聞いていた堀田ほった真理愛乃まりあのの自宅アパートへほろ酔いのままやって来た。軽く酩酊している方が、〝狩り〟は楽しめるものだ。


 アパートの住人の話はどれも当てにならなかった。誰も真理愛乃の素性を知らないし、日常的な付き合いもなさそうだった。


 ──だが、なぜ堀田真理愛乃の捜索願すら出ていない?


 警察には、真理愛乃の家族からの捜索願を受理したという記録はなかった。


 家族が彼女の失踪を認知していないのか、完全に疎遠になっていて現状を把握していないだけなのか、加藤には判別がつかない。


 アパートの敷地から出て、加藤は美弥から共有された真理愛乃の情報をまとめたメモ帳のページをめくった。その中に、加藤の目が留まる記述がある。


〝阿戸女子大学 経営学部を中退〟


 長年の刑事の勘というものは、脳の中で情報を処理してきた経験の賜物だ。それが、この短い記述を追えと囁いている。




 日が昇って、加藤はおんぼろの車を阿戸女子大学の駐車場へ乗りつけていた。


 早速、開いたばかりの学生課へ向かう。まだ穏やかな空気の流れる窓口にモジャモジャ頭の加藤が姿を現すと、得体のしれない緊迫感が漂い始める。彼は無言で警察バッジを掲げる。


 休日といえども、警察バッジの威力は当然ながら健在だし、相手には加藤が休日かどうかなど分からない。


「捜索願の出ている人間がいまして、こちらの学生だったと伺ったもので」


 加藤にとって、ウソは〝狩り〟を円滑に進めるためのツールでしかない。


「ええと、学生の名前は……?」

「堀田真理愛乃、経営学部を中退したと聞いてます」

「奥でお待ちいただいてよろしいですか?」


 あまりにも異質な男をそのまま立たせるわけにはいかないと判断されたのか、加藤はカウンターの奥の小さな部屋へ案内された。



「お待たせしました~」


 窓口の職員とは違う、責任者らしき男がプリントアウトを片手に入室してきた。テーブルの上の湯飲みに手をつけていた加藤は、それを置くと軽く頭を下げた。


「朝早くから申し訳ない」


 彼をよく知らない人間には意外に思われているが、加藤にも人並みの社会性は備わっている。


「いえいえ、ご苦労様です~」


 職員の男は席につくと、早速プリントアウトを加藤へ差し出した。


「堀田真理愛乃さん、確かに在籍されていました~。昨年の十一月に退学届けが受理されておりました~」


 加藤は無精ひげを撫でつけて、目を細めた。


「後期分の授業料を収めた一か月後に退学届けを?」

「そのようですね~。まあ、特に珍しいことではないんですけどね~」

「このタイミングなら授業料の一部でも戻るんですか?」

「いえ、うちの大学では戻らない決まりになっていますし、それを皆さんにはご了承頂いておりますね~」


 職員が語るには、学生が退学を希望する場合、次のような手順があるという。



①退学希望者本人が退学届の受け取り(本人確認あり)

②退学届に必要事項と、本人と保証人のサインを記入し、学生課へ提出

③提出された退学届を教授会が承認

④大学が退学許可証を発行し、退学手続きが完了する



「退学許可証は保証人に郵送されるんですか?」

「ええ、もちろんです~」


 ──となれば、家族は娘の退学を認知するはず。両親も退学を認めていたのか? だが、不自然だ。


 加藤が指でなぞる資料の文言では、真理愛乃は大学四年の十一月に退学届を提出したことになっている。


「この時期と言えば、四年生は卒論を残すだけという印象ですが」

「学生によりますね~。卒論がうまくいかずに辞めてしまう学生というのもいないわけではありませんからね~」

「退学希望理由に『家族の都合』とありますが、これは?」

「ああ、そうでした~。昨年の夏休み明けに、保証人住所の変更が届けられていました~。どうやらご実家が移られたようですね~。その関連でしょう~」

「実家の引っ越しの理由は?」

「そこまでは把握しておりませんね~」

「つまり、退学許可証は変更済みの保証人住所へ送付されたわけですね」

「ええ、もちろんです~」


 加藤は顎をさすった。


 美弥が把握している限り、真理愛乃が最後に広告を発動したのは昨年の六月となっている。その三か月後に保証人住所変更、さらに二か月後に退学の届け出……。


 加藤の目が光る。



***



 大学から聞いた真理愛乃の現在の保証人住所のもとへやって来た加藤はニヤリと笑った。


 そこには、およそ一般家庭があるとは考えられない古びた雑居ビルが一棟建っているだけだった。


 ビルのエントランスに入り、階段奥のポストに目をやる。


 テナントごとのポストが設置されているが、真理愛乃の保証人住所と思しきポストには名前を示すプレートなどはない。


 加藤はビルの管理人室に顔を出した。


 中には、くたびれた白髪の男が人生の余暇を無為に過ごす姿があった。


「オヤジ、ここに入ってるテナントのことを教えてくれないか?」

「俺ァ~頼まれてここにいっからよォ、詳しく知らねンだよォ」

「出入りしてる連中の顔くらい見てるだろ?」

「あァ~、案外若ェ兄ちゃんたちだなァ。血気盛んッてのかァ?」

「ここに住んでる家族なんかいないよな?」


 ガスコンロが点火するみたいな笑いを上げて、男は言った。


「そんなもん、おるわきゃねェだろォ~」


 ここではこれ以上の収穫は望めそうにない。加藤は去り際に男に言葉を投げかけた。


「オヤジ、こんなところにいないで、もっとまともなところに拾ってもらえ」

「余計なお世話じゃァ、小僧」


 車に戻って運転席のシートに沈み込む加藤は確信していた。


 ──ここは違法な保証人業者だ。




 現代広告が浸透した現在では、当然のごとく、広告を利用した犯罪も増加の一途を辿っている。世に存在する広告効果は非常に多彩で、犯罪に転用することで威力を増すものも少なくない。


 認証広告は広告監視機構AMAの広告監視システムである天眼が異常や違法行為をカバーしているが、違法な未認証広告ではそうはいかない。


 そこで、警察は長年批判に晒され続けてきた未認証広告への対応について、今から十二年前に重い腰を上げた。


 それが広告監視機構AMAと共同で構築した未認証広告検出システム〝探湯瓮くかへ〟だ。


 探湯瓮の基本構造はシンプルだ。防犯カメラやNシステムなどの既存の監視網と天眼の情報を統合して、認証広告にない広告効果を検出する。


 警察が大見得を切って発表した探湯瓮だが、未認証広告の炙り出しに寄与したのが、全体の四分の一程度と、期待されていた数値を大きく下回ったことで、メディアの槍玉に挙げられることになった。


 とはいうものの、探湯瓮は一定の未認証広告を検出する現段階で最も効率のいいシステムであることには、誰もが疑いを差し挟むところではない。



 一部の違法な保証人業者が売りにしているのが、未認証広告術アドフォースを利用した保証人偽装だ。


 もともとの保証人になりすまして情報を変更したり、他人の振りをして正規の手続きに介入したりと、家族にも打ち明けられない秘密を抱えている人間や非合法な組織には相当なニーズがある。


 現在、外見や音声を変化させるような広告効果を利用した身分証明のすり抜けを防止するため、身分証明が必要な場所では天眼と探湯瓮からの情報をリアルタイムでフィードバックする仕組みが採用されている。


 つまり、だいたいの身分偽装をする広告効果はここで検出が可能だ。


 一部の違法な保証人業者は、その検出を逃れる広告術アドフォースを利用していると見られ、警察も広告治安局アドガードも、それを可能にしている広告術アドフォースやその制作を担う違法な代理人エージェントなどの追跡調査に追われている。


 ──堀田真理愛乃の退学は違法業者の手引きで行われたのは間違いない。


 しかし、それはもう一つの事実を浮き彫りにする。


 そのような業者が自ら一般人の退学手続きに関わるということはあり得ない。つまり、真理愛乃の退学手続きを行う依頼があったということだ。


 ──堀田真理愛乃の失踪に関わるという有馬茜……何者なんだ?

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