第28話 衛士、広告契約をする

「クマがひどいよ、父さん」


 朝の食卓で、彼方かなた衛士えいじに向かって気遣わしげに声を落とした。いくら忙しくても三人揃って食事をするのが藤堂とうどう家の決まりだった。


 衛士は寝ぼけ眼でうなずく。


「そうだな。山に餌がないから人里に下りてくるんだよ」

「いや、そっちのクマじゃなくて、目の下のクマ」

「ああ、そっちか。やっぱり、山に餌がないから人里に下りてくるんだよ」

「ダメだこりゃ……」


 彼方が諦めてトーストにバターを塗る作業に戻ると、愛美まなみが衛士の前のカップにコーヒーを注ぐ。衛士は自動的にそのカップを口に運ぶと、カップの中の香りでようやく目が覚め始めたようだ。


「昨日、性懲りもなく遅くまでパソコンで作業してたから、お父さんは」


 シンプルに辛辣なことを言う愛美を咎める者はいない。


「慣れないことするから。っていうか、警察でパソコン使ってたんじゃないの?」

「ああ、俺がパソコン使うと日が暮れるから、パソコンまわりのことは朽木くちきが全部やってくれた」


 詩英里しえりとしても、衛士の役に立てるのは嬉しかったらしく、自ら進んで衛士の事務作業を請け負っていたようだ。もちろん、そんな詩英里の想いを衛士が気づいているはずもない。


「今日、広告契約に行くんだろ。大丈夫かよ、そんな体たらくで?」


 彼方が声をかけると、衛士は力のないサムアップを返した。


「そのあたりは、脳内シミュレーションしてあるから問題ない。そんなことより、昨日の見回りはどうだったんだ?」

「うん、一応、なんか訳ありな先輩を家に帰したりしたんだけど、ちょっと他にも色々あって……」

「なんだ、色々って?」

「昨日、ここで話したんだけど、聞いてなかっただろ」




 朝食を終えて制服に着替えるために自室へ戻ろうとした彼方は、逡巡したのちに言葉を口にした。


「父さん、一級広告の契約おめでとう」


 彼方としては、諸手を挙げて賛辞を送れるような心持ちではいられなかったが、両親が喜ぶ様子に水を差すことなどできなかった。


「おう、ありがとう」


 衛士が浮かべる笑顔を、彼方は複雑な思いで受け取った。



***



 最寄りの広告監視機構AMA事務所の駐車場にKURODAクロダの【エルフィード】で乗りつけた衛士は建物の中に入り、受付に必要事項を記入した広告契約締結票を提出した。


「広告の契約は初めてですか?」


 受付の係員がそう尋ねる。


 ちなみに、広告監視機構AMAの職員は準公務員で、この世界では比較的人気のある職業である。富と人が集まる世界だけに、安定性があると見込まれているのだ。


「いや、初めてじゃないです」

「それでしたら、順番が来ましたらお呼びしますので、三番窓口の前でお待ち下さい」


 クリアファイルにまとめられた書類を受け取って、衛士は三番窓口前のベンチに腰を下ろす。


 窓口が開いて間もない時間ではあるが、すでに待合スペースにはチラホラと人の姿がある。そのあたりは、病院となんとなく雰囲気が似ている。


「藤堂さ~ん、藤堂衛士さ~ん」


 三番窓口の係員の呼び方も、どことなく病院的である。衛士は小走りで三番窓口に立って、クリアファイルを差し出した。


「藤堂さんですね~……」


 係員がそばの端末を操作する。


「この後、個別の契約確認と書類の記入等行っていただくことになりますので……」


 係員は立ち上がって身を乗り出すと、建物の奥に続く廊下を指さした。


「こちら進んでいただきまして、『個別契約』と書かれた窓口がありますので、こちらのクリアファイルをお出し下さい」


 衛士は係員の指示に従って廊下を進む。


 ──浄玻璃じょうはりだったり天眼だったり、技術力はあるはずなのに、こういう手続きはアナログなんだよな~……。


 この後静岡に向かう予定の衛士にとっては、時短が物を言う。


 初めての広告契約の時には、色々と手間取って二時間ほどかかってしまったことを思い出す。そうならないためには、アナログでも係員の誘導に従順になるのが手っ取り早いのも事実だった。


 こうした広告監視機構AMAの事務所にも、クレーマー気質の人間は一定数存在する。そんな時に職員が口にする必殺の文言は、「広告契約の変更が生じる可能性がありますので、確認させて頂きますね~」だ。


 誰でも契約締結が目の前の広告を手放したくはない。だから、役所や病院などよりも比較的穏やかであることが多い。


 その役所や病院でも、トラブルを起こすことによって広告の契約に傷がつく可能性を恐れて、イライラを押し留めて大人しくしている人間もいるというアンケート結果が最近でもネット上で話題になっていた。



 個別契約とプレートのある窓口にクリアファイルを提出して、再びその前のスペースで待っていると、横合いから声がかかる。


「あれ、藤堂さんですか?」


 若い男が笑顔で立っていた。衛士にはとんと記憶のない顔だ。


「ええ……、そうですが」

「ぼくですよ。〝ひったくりのタケ〟」


 声を潜める〝ひったくりのタケ〟に衛士は小さく声を上げた。


「おお~、ずいぶん人相が変わったなぁ」


 かつてひったくりグループの内輪揉めで傷害事件を引き起こしたタケの取り調べを担当したのが衛士だった。


 自分の「壮絶な過去」を勝手に語り、衛士が生返事で話を聞いていただけだったが、タケはそれで衛士にすっかり懐いてしまった。


「さすがに、シャバで真面目に働いてるんで、顔つきも変わりました」

「そうかそうか。あれ、ってことは、今日は広告の契約に?」

「そうなんすよ」タケは嬉しそうに笑った。「一般広告なんすけどね、【奥田おくた製麺】っていう、『おく〝だ〟じゃないよ、おく〝た〟だよ』って地方CMのやつなんですけど、ぼくの地元の会社で、そこが契約をしてくれるっていうんで……」

「お~、よかったなぁ~。頑張ったじゃないか」


 広告はこうして人々の更生の支えとしても機能している。


 社会的に失敗をしたとしても、いずれこのように拾い上げてくれることも少なくない。それを売りにしている企業もあるほどで、それぞれの企業による社会貢献の形があるというわけだ。


 誰でも誰かに認められるというのは未来への活力になるというものだ。


「藤堂さんは? 何の広告なんすか?」

「俺は【グリーンライト】」

「あのビールの? 一級じゃないすか。やっぱ、すげぇなぁ……」


 タケは衛士が広告法取引を行ったことを知らないのかもしれない。窓口から名前を呼ばれて、タケは頭を下げた。


「じゃ、お先にっす」

「おぅ、頑張れよ」




「では、藤堂さん、一番のお部屋へ入って頂きまして、こちらの書類に必要事項をお書きになってお待ち下さい」


 数枚の書類とクリアファイルを受け取って、衛士は〝一番手続室〟と書かれた重いドアを開けた。


 気密性の高い部屋の中には、廊下に面した分厚い窓ガラスが嵌っており、時折外を通る人の姿が見える。衛士は荷物置きにバッグなどを置いて、壁際のデスクに移動した。室内には小さな本棚があり、広告やその契約に関する書籍が並んでいた。


 部屋の奥には入ってきたのとは別のドアがあり、〝関係者以外立ち入り禁止〟と記されている。


 数分かけて書類を書き終え、空調の静かな音を感じながらしばらく待っていると、奥のドアが開いて係員がやって来た。係員は衛士の書類とクリアファイルを回収して、その場で簡単にチェックを済ませると、ポケットから取り出したリモコンのスイッチを入れた。


 壁際の天井からスルスルとスクリーンが下りて来て、同時に徐々に照明が落ちていく。


「それでは、これから広告契約に関する講習の動画をご覧になって頂きます。全部で八分ほどとなっていますが、広告の契約に必要ですので。最後までご覧下さい」


 係員が退室していくと、スクリーンに映像が流れ始める。


 ──これ、退屈なんだよな~……。


 契約の度に観させられる講習ビデオだ。


 衛士も観飽きているが、たまにちょっとだけ内容がマイナーチェンジされていたり、唐突に有名人が出演するバージョンがあったりする。飽きが来ないように工夫しているのかもしれない。




 記憶の中にあるのと何ら変わらない講習ビデを眠気に耐えて観終えて、さらに少し待っていると、奥のドアからクリアファイルを抱えた係員が現れる。


「お疲れさまでした。この後は、医師による問診を受けて頂きますので、お部屋を出て頂きまして、問診室の前でお待ちになって下さい」


 衛士は「はぁい」と眠そうな返事をすると、荷物をまとめて部屋を出た。


 一連の流れと医師による問診で、ますますここが病院だと錯覚する者は続出する。SNSでも、広告契約を「クリニック行ってきた」と暗喩する人たちがいる。


 広告契約に際しての健康チェックは、広告の発動維持に健康上の問題がないかを確認するために広告管理法でも実施が定められている。広告主スポンサーごとに健康基準は異なり、リスク過多だと判断された場合には契約の締結が見送られることもある。その割合は全体で一割程度だと言われている。



「はい、藤堂衛士さんね」


 待ち時間なしで問診室に入ることができた衛士を迎えたのは、丸々と太った白髪の医師だった。首から下げた聴診器を耳につける。


「ちょっと、お腹と胸見せてね~」


 衛士がシャツをたくし上げると、聴診器の冷たいチェストピースが胸元にぴとりと押し当てられる。定型的なチェックを終えると、医師は問診に移った。


「タバコ吸う?」

「いや、吸わないですね」

「ご両親に何か病気なんかあるかな?」

「いや、健康ですけどね。父が高血圧ですけど」

「ちょっと口の中見るよ~」


 医師は念入りに衛士の口の中を見ていった。特に何か異変があった様子もない。手元の資料に目をやって、医師は声を漏らす。


「はぁ~、刑事さんだったの?」

「そうです、最近まで」

「藤堂さんくらいの年齢で身体にガタきちゃう人もいるからねぇ~」

「まあ、そうですね、騙し騙しという感じではありましたかね」

「ストレスがすごいからね~。生活サイクルもバラバラになっちゃうしね~。刑事辞めて正解だったかもね~」

「はぁ、まあ、そうですかね……」

「辞めてどう? 生活の方は?」

「まあ、ぼちぼちですね」

「ちょっとクマがあるね。顔色も良くないね。いつもそんな感じ?」

「ここ二、三日ちょっとバタバタしてまして」

「はぁ~、刑事辞めたら辞めたで大変だね、そりゃ。家族を食わせなきゃいかんしね」

「まあ、そうですね……」

「ちゃんと寝る。食べる。夜は寝る。これでだいたい大丈夫だよ」


 素人の作った健康情報サイトのような結論を出して、医師は最後の質問を投げかけた。


「今は何か気になることない? 気分悪くなったりしてる?」

「いえ、全く」


 医師はニコリと笑って衛士にクリアファイルを差し出した。


「問題なさそうだね」

「ありがとうございました」

「じゃ、それ持ってこの先の窓口で契約確認してね」




 契約確認窓口でクリアファイルを提出した衛士は、個室に案内される。個室には、係員が一人、テーブルの向こうの椅子に腰かけていた。


「藤堂衛士さんですね。この度はご契約おめでとうございます。早速ですが【グリーンライト】の広告についての説明をさせていただきます」


 係員による【グリーンライト】の商品の基本情報、広告の内容、広告効果、禁止事項について説明された衛士はクラクラしそうになりながら、【グリーンライト】の広告契約冊子を受け取った。


 今は理解よりも手続きを終わらせることを衛士は選択したようだ。


「そして、契約期間は一年ごとの更新となります。こちらは更新のタイミングで広告主スポンサーより更新か満了かの契約通知がご自宅に届きますので、その際にご確認頂きます。契約料ですが、藤堂さんの場合、広告発動回数ノルマの達成で月32850円──この基本契約料が支払われます、それ以降、発動回数によって定められた上限までインセンティブが設定されております」


 広告発動による報酬は、全市民評価システム・浄玻璃によって契約者ごとに設定される。著名人などは広告の効果やイメージアップに繋がるため、必然的に高額な報酬を得ることができるとされている。


「また、こちらの契約料に加えて、広告活動助成金分配金が支払われます。こちらは月ごとに360円となっております」


 国会の予算会議ではその財源確保などでたびたび取り沙汰される広告活動助成金は、広告に関わる広告主スポンサー代理人エージェントなどに政府から交付されるものだ。


 交付を受け、広告を発動する者と契約を交わした広告主スポンサーは、その契約者に対して定められた割合で広告活動助成金を分配しなければならない。


 それが広告活動助成金分配金である。


 広告主スポンサーによっては、提携する代理人エージェントなどと共に広告活動助成金分配金のための財団法人を立ち上げているところもあるが、これらの金の流れは政治家による汚職の温床になっているという指摘も多い。


「広告についての詳細や疑問点などがございましたら、広告主スポンサーへお問い合わせ下さい。それでは、そのクリアファイルはこちらでお預かりしますので、最初の入口の八番窓口でお待ち下さい。お疲れさまでした」




 八番窓口の係員が書類や冊子を詰めた大きな封筒を用意していた。


「それでは、藤堂衛士さん、お手続きお疲れさまでした。この時点から契約された広告の発動が可能となっておりますので、機会がございましたらご確認下さい。もし契約について何かございましたら、こちらに来ていただければ対応させて頂きます。ちなみにですね、広告契約につきましては、藤堂さんのご都合で解除したいとなった場合には、広告主スポンサーとの協議が必要となりますので、その際には折衝役コーディネーター協会にご相談いただくという形になっております」


 衛士は聞き慣れた注意を受け流して、係員から封筒を受け取った。


「それから、広告監視機構AMAからささやかではありますが、広告契約のお祝いとしてこちらをプレゼントさせて頂いております」


 係員が差し出したのは、〝アマちゃん〟という広告監視機構AMAのキャラクターがノック部分にくっついたボールペンだった。


「ありがとうございました」


 衛士はロボットのようにボールペンを受け取ってポケットに突っ込むと、広告監視機構AMAの事務所を後にした。


 広告契約に要した時間は四十分ほどだったが、衛士にとってはかなり体力を削られる小一時間だった。

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