第27話 勇み足
文具メーカー・サクマの女性社員たちが
事件は十一日前、サクマの社員である
有本の自宅には事件の痕跡はなく、彼はおそらく自らの意思で車を運転して
有本の同僚には、既婚者で細見に住んでいる八尾という女性社員がおり、他の社員たちによれば、彼女が有本と会話をしている様子がたびたび目撃されている。
──有本さんは、自らの意思で自宅を出た。おそらくは、何者かの誘いや要求があったに違いない。その後、細見で車を降りた彼は、その相手と合流し、姿を消してしまった……。
衛士が着目したのは、八尾という女性社員が既婚者であること、そして、そんな彼女が有本にたびたび話しかけていたという点だ。
──八尾さんは、有本さんに好意を抱いていた。だが、不適切な関係のため、二人は策を講じることにした。有本さんの失踪はその策の副産物のようなものだ。
あとは、八尾にこのことの確認を取り、有本の居場所と安否を把握すれば、問題は解決する。衛士は一人うなずいた。
仁王立ちの見本みたいな衛士のもとにサクマのビルから華奢な女性が駆け寄っていく。同僚の社員が呼びに行った八尾がやって来たのだ。
「お待たせしました……」八尾は息を切らせ、頭を下げた。「何の御用でしょうか?」
衛士は八尾の左手の薬指に指輪を確認して、自分の考えに自信を抱いた。
物々しい空気に、野次馬が集まりつつあった。その中には、スマホを構える者もいる。
すると、二人んそばにドラムとベースとギターを従えた白シャツに黒いスラックスのボサボサ頭のボーカルが転移してきた。
驚くべき事態にもかかわらず、衛士はそんなことに構いもせずに口を開いた。後ろではバンドがBメロを演奏し始めている。
「八尾さん、あなた何か隠していますね?」
不敵な笑みを浮かべた衛士の表情。いつの間にか、衛士はシャーロック・ホームズのような
「な、なんですか、いきなり?!」
「あなたは職場の同僚である有本さんに好意を抱いていた。有本さんもまた、あなたに好意を抱いていた。不倫が発覚するのを恐れたあなた方は、駆け落ちを計画したのです」
「そ、そんな証拠がどこに……?!」
ボサボサ頭のボーカルが歌う。
What's happened?! どうすりゃいいのさ
がむしゃら夢中な俺の計画
君のその寂しげな笑顔に
俺はただ立ち尽くすだけさ
ロックバンド・
疾走感のある失恋ソングには、失敗やトラブルに巻き込まれ翻弄される女性を描いた映像作品が当てられている。
『BAD PLAN』の一番のサビが終わると、バンドメンバーたちはどこかへ消えてしまった。
衛士は何事もなかったかのように八尾の左手を指さす。ちなみに、すでに元の格好に戻っている。
「あなたは既婚者です。そして、社内でお二人が話している姿はたびたび目撃されていました」
「いや、待って下さい」八尾は呆れたように苦笑する。「有本さんが無断欠勤してると青山さんに連絡したのは私です」
衛士の時間が一瞬止まった。
「……はい?」
「青山さんも有本さんも私の共通の友人です。同じ
衛士が事前に把握していた事件の概要、その中には、有本が勤める会社の同僚が青山に連絡をするくだりがあった。
「あれが、あなたなんですか?」
「そうですよ! こんな騒ぎにして、どういうことなんですか!」
八尾は周囲の野次馬を指す。ストレスを感じて頭を掻き毟る八尾だったが、すぐそばで空間に穴が開いた。
中から飛び出してきたのは、赤と白の衣装に身を包んだ美少女だ。なんと、アニメーションがそのまま動いている。
「ストレスで大変な時は、【すとふり】!」
いきなり現れたアニメ美少女から口の中にチョコを放り込まれ、何の躊躇もなくそれを噛み締めた八尾はグーンと伸びをして、どこかの広大な草原へ転移した。
一方、衛士のそばに立っているアニメ美少女は解説する。隣には、草原に転移した八尾の様子を映し出す球体のモニターのようなものが浮かんでいる。
「【すとふり】はストレスを軽減する働きのある
チョコレート色の目で真っ直ぐと解説されると、衛士も、
「なるほどぉ~」
と感心せざるを得なくなる。ちなみに、彼らは認識していないが、この様子をテレビなどで観ている視聴者には、ストレスを軽減することについての細かい但し書きがびっしりと表示されている。
「よし、がんばろっ!」
草原の中、涼やかな表情の八尾は笑顔で拳を作ると、衛士の前に転移して、目の前の事態に対峙した。
「あなたは都合の良い手掛かりだけを繋ぎ合わせて、私が有本さんと不倫をしているという結論を導き出してしまったんでしょう」
「そ、そうだったのか……」
地面に膝を突く衛士を見守って、アニメ美少女はどこかに向かってウィンクをすると、再び空間に穴を開けて去って行った。
「申し訳ない……」
野次馬の只中で、衛士は顔から火が出るような思いで頭を下げた。
「いえ、仕方のないことですよ」
八尾は困惑した表情で許したが、とんでもないミスをした衛士の耳には昨日の
『アンタは目の前の情報に踊らされすぎなんだよ、昔から』
肩を落とす衛士に野次馬の中から声が上がる。ドレッドヘアに派手でスポーティーな格好の若い女性だ。彼女はスマホを構え、言った。
「撮影に失敗しても編集モードがあるよ!」
彼女の言葉で、衛士が八尾を問い詰めるシーンがまるごと切り抜かれて削除される。まるで、情報収集のために訪れた凛々しい顔の衛士が、たった今、八尾のそばに立ち、これから話を始めるかのようだ。
世界最大のIT企業・グラハブが開発したOSを搭載した〝グラハブスマホ〟には高性能な写真・動画編集機能がプリインストールされているのだ。
「これで黒歴史も修正完了!」
トレッドヘアの女性がニコニコした顔で告げると、過去が消え去ったわけでもないのに衛士は安堵の表情を浮かべた。
そんな彼らのそばに、再び演奏中の
彼らは、『BAD PLAN』の
その一団に八尾と探偵の格好になった衛士も加わって、
What's heappened?! どうすりゃいいのさ
がむしゃら夢中な俺の計画
君のその寂しげな笑顔に
俺はただ立ち去るだけさ
『BAD PLAN』のラスサビを踊りきった衛士は、そこでようやく八尾と和解できたようだ。
「不倫の疑いをかけられて私の広告契約に何かあったら、あなたを訴えるところでしたよ」
八尾が溜め息交じりにそう言う。
「本当に申し訳ありません。結果を出そうと必死だったもので……」
八尾も心配げな表情を浮かべる。
「有本さん、本当にあれから何の音沙汰もなく、私もずっと心配なんです。何か事件に巻き込まれているんじゃないかと……」
「有本さんには、そういうトラブルと関わるような人間関係があったんでしょうか?」
「いえ、とてもそういう風には見えませんでしたけど」
解決間近だと確信していた衛士は、ここで立ち止まらざるを得なくなってしまった。
──これからどうすれば……。
調査が長引いてしまうことで時間も費用も無駄にしてしまう。探偵としての最初の仕事は成功が絶対だと思っていた衛士には、この状況はかなり痛いものだった。
八尾から何か聞き出せるかと淡い期待を抱いた衛士だったが、得られるものもなく、失意のまま彼女に別れを告げ、車に戻ることにした。
静寂に包まれた運転席に座ると、助手席の保冷バッグが目に入る。すでに昼はとうに過ぎ、衛士も空腹を覚えていた。
バッグを開け、弁当箱を開ける。ぎゅうぎゅうに敷き詰められたご飯の上には、たらこ味のふりかけがかかっている。ニンニクの効いた大ぶりな鶏のから揚げや枝豆とエビとレンコンをゴマ油で炒めたもの、甘い卵焼き……どれも衛士の好きなものだった。
卵焼きをかじると、優しい甘みが口の中に広がっていく。
愛美の気遣いに溢れた弁当に、衛士は一人、ハンドルの前で涙を流してしまった。
愛する家族のために……その覚悟を新たにして弁当を掻き込む衛士のポケットの中でスマホが震えた。急いで口の中のものを咀嚼して飲み込み、スマホの画面を見た。
青山からだった。
『すみません、今、大丈夫ですか?』
「ええ、どうされました?」
『有本の弟の話をしたのを憶えていますか?』
「ああ……」
衛士はメモに走り書きした〝弟〟の文字を思い出す。
「確か、有本さんが昔はよくトラブルを解決していたという……」
『その弟が有本の居場所を知っていると仄めかしているそうなんです』
「なんですって?! 有本さんはどこに?」
『それが、家族にもまだ詳しくは話していないようで……』
有本の実家は静岡だ。もしその場に行くとなれば、慎重にならなければならない。衛士にとっては、節約することも重要なポイントなのだ。
「弟さんは静岡に?」
『はい。どうやら、話すことに躊躇っているようで……。私も準備でき次第──明日にはなってしまいますが、向こうに行こうかと考えています。
「行きます」
衛士は即答した。即答してしまった。
***
夕方頃に家に戻り、衛士は愛美に事情を話した。静岡へ向かうための出費についてだ。
「最初だし、そこケチってたらダメだよ」
愛美は胸を張ってそう返した。胸を撫で下ろす衛士だったが、後悔の念は残る。
「こんなことなら、調査料取りますっ言っとけばよかったな……」
リビングのテーブルの上に突っ伏す衛士に愛美は優しく微笑みかけた。
「それに、今日これが届いてたよ」
衛士のそばに一通の封筒が差し出される。
広告契約締結通知
このたび、株式会社ヤシオリ・ビアからエールビール【グリーンライト】の広告契約締結についての通達の申し出があり、
本通達より二週間以内に、最寄りの
なお、本通達より二週間以上経過するか、同封の契約辞退書を提出することにより、契約締結の効力は失われます。
封筒には、各種書類が同封されており、その中には
「こんなに早く広告契約の話が来るなんて、意外だね」
書類に目を通す衛士の隣で、愛美が嬉しそうに笑っている。
「『弊社の主力商品の一つでもあるエールビール【グリーンライト】は、販売開始から六十年が経過し、大幅にリニューアルすることとなりました。そこで、【グリーンライト】は、世の中で挑戦、再スタート、逆境を経験する方々のサポートをより強化いたします。貴殿の人生の再スタートに挑む姿勢に感銘を受け、広告契約の締結を申し出た次第です』……だって」
二人は笑顔で抱き合った。【グリーンライト】は一級広告である。
「やったやった! 頑張ってよかったね~!」
愛美に髪の毛をぐちゃぐちゃにされて、衛士は夢見心地だったが、すぐに明日のことを思い出した。
「とりあえず、明日朝イチで
「分かった。ご飯はどうする? 静岡だから海鮮でも食べて来たら?」
「そうしようかな」
興奮の冷めやらない衛士は愛美の言葉に甘えることにして、自室に戻ろうとした。
「そういえば、
すでに高校の下校時刻は過ぎている。
「街の見回りをしてるって、ついさっき連絡来てたよ。市長の息子さんと一緒なんだって」
──市長の息子……とりあえずは、安心できそうか。
衛士は自室に戻り、慣れないパソコンを立ち上げた。彼の仕事は今回の失踪事件だけではない。ネット上での広報活動もこれからの収入に関わる重要なミッションだ。
パソコンが立ち上がる僅かな時間に青山に連絡を入れ、明日の午前十一時半には東京駅で彼と待ち合わせる段取りを取りつけた。
それから、衛士は彼方が帰宅するのにも気づかずにパソコンに向かい合って黙々とキーボードとマウスを操作した。
全ては家族を守るためだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます