第21話 有馬茜の醜聞
二週間のサマーインターンは、矢のように過ぎていく。
ステラに目をつけられて以来、行動を自重するようになった
人の目を盗んで本部の建物の中を探ろうとも、当然のことだが局員の姿があちらこちらにあり、動き回るのがはばかられた。ステラとのあのやりとりがなければ、茜ももう少し大胆に調査を進めることができたかもしれない。それはもはや茜にとって呪いのようなものだ。
「塾の方は順調?」
家を出る時、母にそう尋ねられ、茜は笑顔でうなずいた。母には、塾と別に図書館で勉強をしていると伝えてある。丸一日家にいない理由を作るには、受験生はうってつけの立場だ。母に平気でウソをつけるようになった自分に嫌悪感が募った。
「茜のことは心配してないけどね」
母はそう言って、屈託のない笑いで茜を送り出してくれた。
〈まりちゃん、インターンは順調ナノ?〉
〈いろいろ勉強になることばかりだよ〉
〈まりちゃんが頼もしくなって、嬉しいワ〉
二人の母から頼もしく思われるのは悪い気はしなかった。
昔から「しっかりしてるね」と褒められることが多かった。誇りに思われていることを感じて、茜は嬉しく思ったし、その期待に応えたいと何度も思ってきた。
──今日もしっかりやろう。
雲一つない夏の青空に、茜は気炎を吐いた。
***
サマーインターンは終盤に差し掛かり、広告事件捜査のフェーズへ移っていた。会議室には長机と椅子が教場のように並べられ、ホワイトボードの前にはステラが立っている。
「広告事件には扱う広告によって二種類に分けられる。いくつか分類があるんだけど、分かる人いる? じゃあ、
局員テスト以降、ステラは茜を気に入ったのか、よく声をかけるようになっていた。この日も指名されて、茜は戸惑いを覚えたが、しっかりと返答した。
「認証広告による事件と未認証広告による事件ですか」
「いい分類だねえ~」
ステラは満足げに立てた人差し指を振った。彼女はマーカーを取ってホワイトボードに書き込んでいった。
「認証広告って言い方は元々はなかったんだけど、未認証広告がクソみたいにのさばり始めたから、逆輸入的に使われることになったのよ」
インターン生たちの視線が部屋の端にいる
「認証広告による事件は、〝天眼〟がある程度サポートしてくれるから、捜査にかかる人的なリソースは計算が簡単なんだけど、未認証広告の方は、そもそもが〝天眼〟の監視にかからないところで起こってるからタチが悪いんだよ~。しかも、最近じゃ、未認証広告の事件が増えてるからね。みんなもニュースなんかで観たことあるでしょ」
学生たちがうなずく。
「で、これからみんなには実際の広告事件に臨場してもらうことになるんだけど、扱う事件は認証広告の事件になるよ。未認証事件の現場はさ、こう……ドロッとしてんのよ」
ステラはめいっぱい顔を歪ませた。
「だから、ちょうどいい事件が起こるまで、ワタシの武勇伝でも──」
「副隊長!」部屋の隅で真琴が手を挙げた。手元にはタブレットがある。「ちょうどいい事件、ちょうどいいタイミングで〝天眼〟から通達がありました」
ステラは頬を膨らませた。
「な~んだ。ワタシが犯人を木星まで飛ばした話したかったんだけどなあ……」
***
現場のある街は
乗ってきた
「
真琴へ短く命令するステラの声色はいつもと違い、どことなく覇気が漂っている。
「現場はこの先にある家電量販店・〝イコマ 細見店〟の店内です。〝天眼〟が捕捉した情報によれば、【イコマ】の広告契約者が店内で広告を発動。その際に、不正優位表現が観測されています」
「お~、初心者向けの事件だね。不正優位表現って何か分かる? じゃあ、堀田!」
茜は溜め息をついた。
どういう理由でここまで執拗に指名を受けるのか、茜には分からなかった。だが、ここで無知な自分を晒すのは、今彼女のすぐそばで期待感を持って見つめる眼差したちに申し訳が立たない。
茜はすぐに答えた。
「売上や販売本数などがナンバーワン、面積が最大、最軽量というように順位を明示したり、『○○の機能を搭載しているのはこの商品だけ』のように唯一性を訴えるなどして自社商品やサービスの優位性を、客観的な裏づけなしに広告内で表現することです」
ステラが小さく拍手すると、インターン生たちも一緒になって手を叩いた。
「自社の商品やサービスの優位性を訴えるには、その優位性を保証する証拠物が必要になるんだよね。その証拠物を
「【イコマ】の広告契約者が店内で広告を発動した際に、『【イコマ】は売上ナンバーワン』と連呼していたようです。発動された広告は家電量販店のカテゴリーのものです。明確な優位表現ですが、
インターン生の中から手が挙がる。
「『二期前に売上ナンバーワン』と言っていれば罪にはならなかったということでしょうか?」
ステラは大きくうなずいた。
「うん、そういうことになるね。もしくは、『イコマはナンバーワン』とだけ言えば問題はなかった。何がナンバーワンか明確ではないからね。さあ、ワタシたちはこれから
その時、規制線の張られている辺りでちょっとした騒ぎが起こった。真琴が目をやると、パトカーの姿が見える。ステラが目敏く、そちらを睨みつけた。
「細見署の連中か? なんで来やがったぁ?」
暴走しかけるステラをなだめつつ真琴が言う。
「どうやら、事件が発生した際に周囲の人間と広告のランクを巡って口論があり、容疑者が相手を殴ったようです」
「それだって、広告発動が先でしょ? ワタシらの管轄じゃん」
「まあ、そうなりますね」
「出てけ~!!」
ステラがパトカーの方へ向かって怒号を発した。真琴は慌ててステラを止めに入る。
「副隊長~!! やめて下さい~! インターン生の皆さんも見てますから~!」
「みんなも一緒に言おう!せーの、『警察、帰れ~!』」
「け、警察、帰れ~……!」
「声が小さい! そんなんじゃ警察にでかい顔されちゃうぞ~!」
「副隊長やめて~! 街の皆さんも見てるから~!」
***
その後、ステラが率いるサマーインターンBチームは広告契約者と目撃者の証言から、不正優位表現を確定させることができた。どうやら最近になって【イコマ】の売上を何かで読んで、それを今期の成績だと勘違いしたようだった。
本来であれば、容疑者の身柄は
「というように、警察が絡むと面倒なことあるから、みんなも気をつけてね」
隣で真琴が首を傾げる。
「副隊長が勝手に場をかき混ぜてたような気もしますけどね……」
「何か言った、植村?」
「なんでもありません!」
「今月何件目だぁ?」
「私の記憶にある限りでは、三件目ですかね」
ステラは膝の上に載せたタブレットに目をやる。
「広告消失か」
顎をさすって何やら企んでいる様子のステラに、真琴は釘を刺す。
「インターン生は連れて行けないと思いますよ。今回は発動した広告の契約者もろとも消失……。管轄の警察も事件性を鑑みて動き始めているようです」
ステラは鼻の頭に皺を寄せて舌打ちをした。
「副隊長、落ち着いて下さい。血圧上がっちゃいますよ」
「それにしても、契約者ともども広告が消失するとは……。広告妨害どころじゃないね」
真琴がとタブレットの情報にハッと息を飲む。
「〝天眼〟からの提言があります。『ケースコード・Vに相当する』」
ステラは溜め息をついた。
「同一犯か」
「確定ではありませんが」
「どうせまた手掛かりも何もないんでしょ」
「おそらくは」
「警察が入って来てゴチャゴチャになってるから関わりたくないんだよねぇ……」
「今は
「へっへっへ、ザマぁ見ろ。〝熟女部隊〟め」
真琴は呆れた顔で副隊長の意地の悪い横顔を見つめる。
「副隊長、本当に人前では自重して下さいよ……」
二人の座席の真後ろで耳をそばだてていた茜は、おぞましい想像に苛まれていた。
広告や人の消失──二か月半前に直面したあの人型の黒い影と関わりがあるのではないか……そんな直感が茜を支配していく。
自分のせいで消えてしまった真理愛乃の、決意に満ちた表情を茜は鮮明に思い出すことができた。勝手な考えで彼女の意思を受け継いで、茜は今ここに座っている。
──私が真理愛乃さんの失踪を通報していれば……。
何度も腹の底からせり上がってくる後悔の念が茜を苦しめる。
胸の中にあるものを今すぐに吐き出したいと思いつつも、あの裏路地で起こった出来事を話せば、真理乃が消えたこと、その彼女に自分がなりすましたこと、自分の母親だけでなく、真理愛乃の母親までも騙していたこと……全てを話さなければならなくなる。
それを明かした未来の自分を想像して、茜は眩暈を簿えた。とてもそんなことはできそうになかった。
「大丈夫、堀田? 顔色悪いよ」
前の座席の背もたれからステラがぴょこりと顔を出していた。茜は慌てて座り直し、作り笑いを浮かべた。
「大丈夫です……!」
「身体は大切にね。堀田は
こうして心配や賞賛の声をかけてくれているはずのステラに対しても、茜は心を閉ざしていた。彼女と深く関わることは、自分の素性が白日の下に晒されるという最悪な未来へ飛び込むようなものだ。
──結局、私はこの世界で独りだ。
友人はいない。
家族にも命の恩人の肉親にも
茜にはなすべきことがあるのだから。
彼女に呪いをかけた
真理愛乃を消してしまった謎の人型の黒い影……あれを見つけ出さなければ、また真理愛乃のような人が生まれてしまう。あの夜以来、茜は黒い影に関する情報も探すようになっていた。真理愛乃の復讐といってもいい。
この
本当の茜を知らない人たちの声が耳朶に蘇る。
茜のことは心配してないけどね──
まりちゃんが頼もしくなって、嬉しいワ──
堀田は
しっかりしなくちゃ……。
ぼんやりとする視界の中で、茜はその思いを吐き出すように胃の中のものを足元にぶちまけると、意識を失って倒れてしまった。茜の耳には遠くステラたちの声が届いていたが、何を言っているのかは分からなかった。
茜はサマーインターンの予定を繰り上げて終了することとなった。
病院は茜が急激な環境変化の中で適応障害を発症したと考えたようだった。問診では、茜は自分の胸の中を打ち明けることはなかった。
だが、サマーインターンを急遽終えることが決まった時に肩の荷が下りたような気がして、茜はいくぶんか気分が楽になったのを感じていた。
ただでさえ抱えるものが多かった茜はまだ中学生だ。まわりが大人ばかりの環境の中で、自分も一人の大人であろうとするための無理も相まった皺寄せが来たのだろう。
家族にも真理愛乃の母にも自分が倒れたことをひた隠しにし、茜の中学生最後の夏休みは終わりを告げた。
***
高校受験を終えて、茜は無難な進学先として選んだ公立の阿戸西高校に合格した。
その頃には、広告に関する勉強や調査を休んでいた影響もあり、不安感や焦燥感といった症状は少なくなっていたが、家族の前で変わらない自分でいる時や真理愛乃の母とメッセージをやり取りしている時には、心が重くなるのを感じた。
数少ない学校での時間にも、広告が発動されることが増えてきた。
高校生の前後で初めて広告契約を迎える人間が多い以上、仕方のないことだったが、広告の気配を感じてはその場から逃げ出したり、やむなく広告に巻き込まれる瞬間に、茜の中にこの世界を変えるという思いに再び火が点った。
茜の中には、二つの選択肢しかなかった。
──
適応障害を起こしてから、茜は自分の目的を諦めるという選択肢を持つようになった。心が楽になるというのは、大切なことだ。誰かの期待に応えたり、自分の目的に頭を悩ませる必要などなくなる。
──でも、それは本当に私なの?
茜は自問自答する。
答えのないまま、新しい春がやって来た。
***
その日の放課後、茜は高校の校庭の隅で【スカイ】の広告発動で青春感を演出するために踊り狂う生徒たちを目の当たりにした。
踊る者、周囲で訳もなく興奮する者……小学生の頃に歌わされた『きらきら星』の替え歌を思い出して、茜は彼らの狂騒から距離を取ることにした。
建物の陰に隠れて、冷たい壁に背中をついた。胸の中にこの世界と向き合うための二択がせり上がって来て、茜に詰め寄る。答えを決めろ、と。
眩暈を感じそうになり、深呼吸をする。
──私は大丈夫。私は大丈夫。
家族の顔を思い浮かべる。放任主義の母親、我関せずという顔をしているが母に茜のことを聞いているという父親、いつでも無垢な笑顔で出迎えてくれる妹……。
そんな大切な人たちを置き去りにしているという事実に涙がこぼれる。
孤独に苛まれ、建物の影に消えていった茜を少し離れた校舎の窓から見ていた者がいた。
次の日、茜は学校を休むことにした。
制服を着て家を出て、公衆トイレの中でバッグの中に詰めていた私服に着替えた。高校入学を機に買ってもらったスマホで学校に欠席の連絡を入れる。あてどなく歩く街中で茜に声をかける者があった。
「堀田さん!」
初めは自分に声をかけられていると思わなかった。
すぐに肩を叩かれて振り返ると、目を見張る美人が立っていた。茜が反応に困っていると、相手の女性は歯を見せた。
「植村真琴ですけど、憶えてますか?」
「あっ!」
休日なのだろう、私服にあの頃と違うメイク……茜には一瞬誰だか分からなかった。
「あれからお身体の具合はどうですか?」
「まあ、よくはなりました」
「副隊長が今も残念がってますよ。『堀田はどこにいる?』って」
自分の知らないところで自分が必要とされているということが、茜の心を少し軽くした。
「今は何を?」
真琴は茜をじっくりと見つめた。彼女が肩から提げるスクールバッグに怪訝そうに目をやっている。
「今は……、何をしようかと……」
真琴はバッグの中から名刺入れを取り出して、一枚の名刺を抜き出すと、裏にペンで何かを走り書きした。
「
真琴は茜に名刺を差し出した。
「
「でも、私には向いて……」
「少しずつ環境に慣れていけばきっと大丈夫ですよ。それに、堀田さんには才能があります。私たちがそれを伸ばして行けるよう、サポートしますよ」
名刺を受け取ったまま立ち尽くす茜の肩に真琴が手を置いた。
「別に断って頂いても大丈夫です。そんなに深く考えないで下さい」
「……分かりました」
手を振って春の風のように去って行く真琴の後ろ姿を見送りながら、茜は思いを巡らせた。
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