第19話 有馬茜の童心

 あかねの一番の関心は、広告をこの世界から消滅させることができるのか、ということだった。


 世間には広告による差別を受けたり、広告による人権侵害を受けている人々が少なからずいる。彼らは強大な広告利権社会の中で、貧乏くじを引かされて肩身を狭めている。


 そういった苦しみで人生を支配された人々を解放することが、この世界を正しい方向へ導いていく……茜はそう信じていた。


 その考えの根底には、彼女のこの世界への不信がある。その個人的な感情を正当化するためには、自分の主張を補強するために社会の暗部を無理矢理切り取ってくるしかない。


 彼女の考えは社会を転覆させるテロリズムだ。そのことを彼女自身も理解している。一種の中二病のようなものだったのかもしれない。




 中学最後の夏がやって来た。


 周囲は高校受験へのラストスパートに躍起になる生徒ばかりの中、茜は生徒手帳のカレンダーに丸を付けた日が刻々と近づいて来るのをじっと眺めていた。


「おねえちゃ~ん」


 自室のドアを叩く声がする。


 壁の時計に目をやると、もう夕飯時だ。気づけば、キッチンからいいにおいが漂ってきていた。


 ドアを開けて入ってきたのは、妹のあいだ。暑いせいだろうか、ぷくりとした頬を赤く染めている。彼女の顔を見た途端、茜の顔が蕩けたようになる。


「どうしたの~藍ちゃ~ん?」


 藍に近づいてその頬に自分の頬をぐりぐりとこすりつける。


「ご……、ご飯だよ~。今日はピーマンの肉詰め~……」


 強い力で抱き締められた藍が声を絞り出す。


 茜は何かに弾かれたようにハッとして、藍の頭を撫でた。


「すぐ行くから待っててね~」

「おてて洗ってきなさいね~」


 母を真似た言葉を残して手を振り部屋を出て行く藍を見送って、茜はポケットの中からスマホを取り出した。


 真理愛乃まりあのが遺したものと同じ機種である【グラハブ トランク】だ。


 画面にはメッセージアプリ【リンク】の通知が出ている。真理愛乃の母・薫子かおるこからだ。


〈じゃあ、今年の夏は帰ってくるのは難しいのネ……〉


 薫子からのメッセージはいつも語尾がカタカナに変換されている。


〈うん、ごめんね。サマーインターンとかで忙しくなりそうなんだ〉



 真理愛乃のスマホは茜たちを襲った人型の黒い影によって破壊されていた。


 真理愛乃が消えてしまった事実を誰にも伝えられない茜は、真理愛乃が今も普通に生活をしているように見せかけなければならなかった。それは彼女の両親に対しても、だ。


 そこで、茜はかつて観た映画から着想を得て、メッセージアプリなどのネット上で真理愛乃が存在しているように振る舞うことにした。


 そのためには、彼女のスマホが必要だ。


 新しいスマホを調達するための資金には困らなかった。茜には家族にも内緒で貯めている【ブラックリスト】の広告契約料とその報酬があったからだ。


 真理愛乃の部屋から見つけたグラハブアカウントをメモした紙のおかげで、クラウド上に保存されていた諸々のデータを新しいスマホに移行することができた。


【リンク】でやりとりされた会話を読み込んで、以前と変わらない言葉選びを心がけた。


 受験のための勉強をほとんど必要としないほど成績には困っていない茜にとって、ネット上で真理愛乃の振りをするのはそう難しいことではなかった。


 だが、真理愛乃の振りをした言葉を送信するボタンを押すたびに、心の端を削り落としているような感覚に陥っていた。


〈がんばっテ! お母さんも応援してるカラ!〉


 薫子からの返信に、茜は胸が締めつけられた。その言葉は彼女に向けられたものではない。


 そして、それを受け取るべき人はもういないのだ。


〈ありがとう〉


 そう返信して、茜は藍の笑い声が聞こえるダイニングへ向かった。



***



「インターン生の担当は各隊の持ち回りなんだけどね、今回はワタシ、第二隊セカンド・スカッド副隊長の鳥居とりいステラと、うちの隊の植村うえむら真琴まことを引っ張ってきたから、この〝高顔面偏差値ビジュゆうしょうコンビ〟の回でみんな得したね」


 広告治安局アドガード本部の多目的ホールのステージ上で、突然の挨拶を寄越したステラに、最初はニコニコして立っていた隣の真琴の顔が青ざめていった。


「ふ、副隊長! あんまり余計なことはおっしゃらないで下さい! ……インターン生の皆さん、今聞いたことはなかったことにして下さいね~! 絶対ですよ!」

「お、なに、それはフリかな?」


 ニヤつくステラに真琴が大袈裟な手振りで対抗する。


「だから、余計なことおっしゃらないで下さい!」


 賑やかな壇上に、緊張気味のインターン生は反応に困っている。今回集まったおよそ八十名の大学生たちは、ステージ上の彼女たちの美貌に気圧されたのかもしれない。


 インターン生の一員として首尾よく潜り込めた茜は、椅子の列の中で密かに溜め息をついた。このような明るい雰囲気は得意ではなかった。


 ──隙を見て抜け出せないだろうか……?


 茜の最終目的は広告を消滅させることだ。少しでも情報収集に駆け出したい。


「まずは簡単に広告治安局アドガードについて説明したいと思います」


 隊長に任せていると収拾がつかないと悟ったのか、真琴がガイダンスの進行役を始めた。ステラが壇上から椅子に腰をかけたインターン生たちを見回す。


「そこの美人、広告治安局アドガードと警察の違いはなんだと思う?」


 彼女の指は真っ直ぐと茜に向けられていた。


 ざわめきがあって、周囲の様子をキョロキョロと窺っていた茜は、注目が自分に集まっているのに気づいて、思わず立ち上がった。


 優等生としての有馬ありま茜が出てしまったのだ。


「ええと……、違い、ですか?」


 話を聞いていなかった茜はしどろもどろになってしまう。ただでさえ、誰かの注意を引くことに相当な心理的抵抗があったのに、今では百人弱の視線を一身に浴びてしまっている。


「まあ、まだ分からないか」


 ステラはうんうんとうなずく。


「歴史的に、日々発生する事件には大きく二種類があったんだよ。刑事と民事だ。警察が扱ってきたのが刑事事件ね。で、広告ってものが今のような形になってから、刑事と民事の中間に広告事件ってのが位置付けられたわけなんだよ。広告事件ってのが拡大していって、警察でも弁護士でもない組織が必要になった……それがワタシたち広告治安局アドガードってことなの。だからさ、警察も弁護士も──まあ、今は弁護士じゃなくて折衝役コーディネーターが広告事件をやるようになったけど──広告事件わたしたちのかんかつに首突っ込んでくるのよ。ゴチャゴチャうるせーのなんのって……」


「そんなことないですよ~! 私たち広告治安局アドガードは各機関と相互に協力し合って広告事件の捜査にあたっていますよ~!」


 ステラのボヤキを掻き消すほどの大きな声で真琴がマイクを通して行儀の良い、広告治安局アドガードとしての声明を発する。ニコニコ顔のステラが真琴を一瞥する。


「あら、植村だって、この前、警察が器物損壊で事件を仕切り出した時、警官ぶっ殺しそうな目してたじゃん」

「オッホン! 鳥居副隊長、ガイダンスの続きをどうぞっ!!」


 茜はポカンとした表情のまま、椅子に腰を落とした。


「で、何の話だったっけ?」


 ステラが小首をかしげて人差し指をこめかみに押し当てる。


広告治安局アドガードと警察の違いですね」


 真琴のサポートで、ステラが何度もうなずく。


「そうそう、広告治安局アドガードは役立たずの警察と違って──」

「私たち広告治安局アドガードは警察の皆さんを頼りにさせて頂いております」

「──各隊によって仕事内容が変わるってことがないのよ。それを可能にしているのが、みんなも知っていると思うけど、〝天眼〟っていう広告の監視システムなのよ。広告事件の大半は天眼によって分析されて、全ての隊員が同じように事件を処理できるように管理してくれるの。ウワサだけど、警察が天眼の技術を貸してほしいって言ってきたらしいけど、日本広告機構JAAの理事会……つまり、ワタシたちのめっちゃ上司の人ね、その理事会がキッパリと突き返したんだって。ザマぁないわよねえ」

「副隊長~! ウワサ程度の話を勝手に広めないで下さい~! 皆さん、今のはあくまでウワサですから、SNSなどには決して書き込まないようにして下さいね!」

「あっ、それで言えば、広告治安局うちは厚労省ともバチバチにやってるから、厚労省の肩持つと孤立するから気をつけてね。飲み会とかでうっかりそんなことしたら、マジでここでの居場所なくなるからね」


 興が乗ってきたらしいステラの独演に、真琴は涙目だ。


「副隊長~! もうやめて~! 皆さんが引いてますから!」


 ステラはハッとして居住まいを正した。


「天眼があるとはいえ、広告治安局アドガードは慢性的な人手不足に見舞われてるの。だから、ここにいるみんなは逃げないでね」


 インターン生たちの無言の時間が訪れる。ステラはギョッとして声を大にする。


「……逃げないでね?!」


 壇上からダイブせんばかりに釘を刺すステラに、前列のインターン生たちが苦笑いでうなずく。ステラは叫ぶ。


「みんなで一斉に言いましょう! はい、せーの、『私たちは、逃げな~い』!!」

「に、逃げな~い……」

「声が小さいもう一回!」

「そんなブラック企業の号令みたいなの、やめて下さい!」


 真琴の悲痛な叫びがホールの中に響き渡った。




 その後、簡単に本部ツアーが行われた。茜は探検をしているような気分になって、調査したい場所を頭の中に書き留めた。


 ツアーが終わって、インターン生たちは四つのグループに分けられた。それぞれのグループは、あらかじめ設定されたカリキュラムを異なる順番で体験していくこととなる。


 Bチームに組み込まれた茜は、チームを担当することになった真琴がすでにぐったりしているのに気づいて、同情の念を密かに送った。


 広告契約者の中には、広告の中で果たす役割のキャラクターを広告以外にも引き継いでしまう人々がいる。広告性パーソナリティー障害という新しい病気が定義されてまだ年月は浅いが、茜はあの異常なテンションのステラにその症状の疑いを抱いていた。


「どうでしたか、ガイダンスを聞いての感想は?」


 真琴が話を振ると、積極的な女子学生が少し笑顔を強張らせた。


「人手不足っていうのが、どれくらいなのかなと思いました。やっぱりQOL上げていきたいと思ってるんで……」

「人手不足と言っても、そんなに深刻なわけじゃないんですよ。それに、時間管理をしっかりしていれば、自分だけの時間が作れますし、旅行に行ったなんて話もよく聞きます」


 その会話にそばの学生も参戦する。


「え、どうやってスケジュール管理してるんですか?」


 話を聞いていた茜は落ちたものを拾う振りをして、サッとテーブルの下に身を隠した。


 嫌な予感がしたからだ。


「【タイパス】は、スケジュール管理だけじゃなく、通学・勤務先やよく行くジムなどを登録すれば、AIが行動分析をしてくれるの。時間管理を振り返って改善するのに役に立つわ」

「すご~い!」


 学生たちの声がして、静かになってしまった。茜が顔を上げると、同じチームのメンバー全員が消えていた。


 ──【タイパス】には、時間管理をアピールするために時間移動の広告効果があったはず……。


 茜がそう考えていると、フッとチームメンバーが転移して戻ってくる。


「ね、簡単でしょ?」


 揃ってスマホを握る面々が一斉に茜に視線を送る。茜はキョトンとしてメンバーの眼差しを受け止める。


「お先に~!」


【タイパス】で未来を先取りしたメンバーたちが笑顔で手を振る。


「他にも何か聞きたいことはありますか?」


 広告が終わったのか、真琴はしれっと問いかけた。他の女子学生が身を乗り出すようにする。


「忙しいのになんでそんなにお肌がちゅるちゅるなんですか?」


 ──やばい……!


 予測していなかった連続の広告導入に、茜はまるで銃弾から逃れるように椅子から飛び出して床の上を転がると、Bチームのテーブルから距離を取った。


「──……高分子セラミドが……」


 CGでも使ったように肌が煌めく真琴が何かを語るのを、まわりの学生たちが酔いしれるような表情で聞いている。


 ──こんなところで美容液の広告を発動するとは……。


 茜は冷や汗をかきながらホールの外に向かおうとしたが、横合いから声が飛んで来た。


「そこの美人!」


 パッと振り返ると、ステラが立っていた。


「名前はなんて言うの?」


 ステラの勢いの良さに押されて、茜は間髪入れずに答える。


「あり──……堀田ほった真理愛乃です……」


 ステラのテンポに惑わされ、茜はつい自分の本名を言ってしまうところだった。


「どこに行こうとしてる、堀田?」

「す、すみません……。ちょっとお手洗いに……」


 動揺を隠して答えると、ステラは笑って茜の背中を叩いた。異常な力強さだった。ふと見ると、ステラは優しい表情をしていた。


「堀田、多い日は心配だよね……。そんな日は【さらり】で──」


 ──広告に捕まったぁ! しかも、勝手に〝多い日〟だと思われてるぅ……!


 さすがにもう逃れることができなかった茜は、空虚な心でステラが発動する生理用品の広告に応じるのだった。

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