第18話 有馬茜の知恵

 あかねの背後に迫る人型の黒い影を認識したからだろう、ジャージ姿の女性は手をこまねいた。


「こっちへ! 早く!」


 茜はその女性の手を握って、彼女の手に引かれてそのエリアを横切る遊歩道へ足を向けた。


「警察には?!」

「スマホ持ってなくて……!」


 もともと学校では一人だ。


 スマホを持つ必要性を感じていなかった。母は安全のためにスマホを持たせようとしていたが、それを肌身離さず持つということは、この広告世界アドワールドと繋がることと等価であるような気がして、茜は気が進まなかった。


 今にして、そんな選択をした自分を後悔する。


「待って、私が通報するから!」


 女性はジャージのポケットからスマホを取り出した。その瞬間、黒い影が間近に瞬間移動して、スマホのど真ん中を爪のようなもので貫いて破壊してしまった。


 悲鳴と共に転がって、それでも女性は壊れたスマホを拾い上げ、茜の背中を押し出した。


「人のいる方へ……!」


 彼女はそう叫んで黒い影の方に振り向くと、アドレナリンで興奮したまま、震える両手で構えた。


「あ……、【あんしんホームセキュリティ365】抽出エクストラクテッド……、警護防壁セキュア・ウォール──」


 広告術アドフォースは広告から派生した特殊技能だ。誰でもが扱えるわけではないし、基本的には広告治安局アドガードなど広告の治安維持に関わる人間が発動すべきものだ。


 だが、一般人の中にも広告術アドフォースを扱えるものは存在し、こうした緊急時での発動は社会的に認められている。


 ──エイジン警備保障の三級広告……。


 この世界を覆そうと決意した日から、茜は広告に関する知識を収集し始めた。今や彼女の頭には広告とその広告主スポンサー代理人エージェント、ランクなどの情報がインプットされている。


 広告術アドフォースの威力と広告のランクは不可分なものではない。個人の素質によっても左右されるが、ランクの異なる広告術アドフォース同士がぶつかれば低級の方が打ち破られる可能性が高い。


 女性の周囲に油膜のような半透明の壁が展開された。


「早く逃げて!」


 女性の鋭い声に茜は走った。しかし、その背後で、黒い影が振りかぶった手が大きな爪に変貌していった。黒い影がそれを振り下ろすと、女性の腕ごと警護防壁セキュア・ウォールが引き裂かれてしまった。


 女性は腕を庇いながら後退し、茜と共に逃げ出す。


「腕が……!」


 茜が悲鳴を上げる。女性の右腕の肘から先がなくなっていた。切断された断面からは血が滴ることなく、まるで作り物の腕が切り離されたかのようだ。


「いいから走って……!」


 アドレナリンのせいなのか、女性は痛がる様子も見せなかった。




 黒い影から逃れながら人のいる繁華街を目指す二人は、人の気配のないビルの谷間の路地に身を隠していた。


 室外機が並ぶスペースに二人で身を縮こまらせて息を潜めた。


 黒い影に半ば追い込まれるように入り込んでしまったせいで、下手に身動きを取るのも躊躇われた。


「だ……、大丈夫ですか……?」


 女性の腕に手を伸ばす茜は、悪夢を見ているような心地のままだ。


「痛みがないの……。訳が分からない」

「すみません……。私のために……」


 謝罪で埋め合わせられるようなことではないと知りつつ、茜は頭を下げた。


「謝らないで。私があなたを助けたいと思っただけなんだから」


 その言葉は彼女の心の中から自然と湧いているもののように茜には思えた。


広告術アドフォースを……?」

「ええ、来年、広告治安局アドガードに入局する予定なの」


 茜はそれでなんとなく納得した。彼女がジャージ姿なのも、入局に備えて体力づくりのランニングをしていたからだろう。


「それなのに、私のせいで……」

「だから謝らないでって。それに、正式な手続きはまだなの。入るべきか迷っていてね」

「どうして……?」


 女性は辺りを警戒しながらも、茜を落ち着けるためなのか、会話を続けた。


広告治安局アドガードには生半可な気持ちで入るもんじゃない。そのための覚悟が私にはまだできてなかったの」


 茜は首を振っていた。


「見ず知らずの私を助けてくれたんです。そんなお姉さんなら、きっと入るべき人です」


 茜は目の前の彼女に、あの頃、藍里あいりを助けた自分自身を重ね合わせていた。きっと、目の前にいる人を助けずにはいられないのだ。


 女性は小さく笑った。


「私の家がね、この近くの公園の脇にあるの。そのアパートのベランダから身を乗り出すと、ビルの隙間の遠くに広告治安局アドガードの支局が見えるんだ。ずっと背伸びをしてその建物を見ては、憧れてたんだよ。きっと、向こう側から私は見えないのにね」


 女性はじっと考え込んだ。その瞳に決意のようなものが点るのを、茜は確かに見た。女性は茜を真っ直ぐに見つめる。


「背伸びなんかしなくてもよかったんだね、私」


 どこか遠くで衝撃音がした。


 二人が壁に並ぶ室外機の隙間から、少し離れたビルの屋上の広告看板がズタズタに引き裂かれているのが見えた。


 アップライト照明の光を受けて、人型の黒い影がこちらを窺っていた。


 茜の背筋にぞくりと悪寒が走る。その茜の背中に手が回された。


「私は堀田ほった真理愛乃まりあの。あなたは?」

有馬ありま茜……」


 自分を見つめる真理愛乃の目に滾るものを垣間見た茜の胸に重い感情が芽生える。


 嫌な予感というやつだ。


「有馬さん、あなたはここを出て全速力で人を呼びに行って」

「ダメです……」

「私があいつを引きつける。その隙に警察を──」

「ダメです……!」


 声を潜めながら語気を強める茜だったが、真理愛乃の決意は固かった。彼女は静かに茜を抱き寄せた。


「私たち、頑固なところが似ているのかも。小さい頃、お母さんに妹が欲しいって無理を言って困らせたのを思い出しちゃったよ……」


 真理愛乃は立ち上がった。


「ダメです……!」

広告治安局アドガードになるための勇気をくれてありがとう」


 真理愛乃は背中でそう言い残して飛び出していった。


 その瞬間に、茜は真理愛乃の辿る運命を脳裏に思い描いて絶望した。彼女の選択を誤りでなかったことを証明するための方法は、彼女の言葉に従うことしかなかった。


 涙を堪え、茜は真理愛乃が飛び出していったのとは反対の方向へ駆け出した。




 人通りのある場所に辿り着いた茜は声を上げようと行き交う人々に顔を向けた。


 汗みどろの少女を立ち止まらずに奇異の目で一瞥していく通行人。茜はこれまで最低発動回数ノルマを稼ぐために声をかけた男性たちの顔を思い出して、眩暈を覚えた。


 助けて下さい──その一言を口に出すことができなかった。


 男たちの下卑た目とそう誘い込んだ自分の醜さに、これまで抑えていたものが込み上げて来て、茜は嗚咽を漏らした。それでも、声をかけずに通り過ぎていく人々に、茜は踵を返した。




 真理愛乃と言葉を交わしたビルの谷間に舞い戻った茜は、暗く細い路地の真ん中に穴の開いたスマホが落ちているのを見つけた。


 そばには財布と鍵が転がっている。静かにそれらを拾い上げた。


 財布を開いた。ローマ字で〝Mariano Hotta〟と金色の文字が入っている。


 全てが終わりを迎えた裏路地は、寒くて、静かだった。




 私の家がね、この近くの公園の脇にあるの──その言葉を頼りに、茜はアパートを見つけた。


 入り口のポストから真理愛乃の部屋を探し、二階の一室の前に立つ。手にした鍵を差し込むと、カチリとロックの外れる音がした。


 スッと開いたドアの向こうから、茜を抱きしめた真理愛乃のにおいが押し寄せてきた。暗い玄関に立つ茜の背中でドアがバタリと閉じて、外の気配を追いやった。


 ふかふかのラグを踏みしめて、ワンルームの部屋に足を進めると、壁際に置かれたチェストの上にコルクボードがかかっているのが目に入る。


 四枚の広告契約通知書が画鋲で止められている。


 おそらく古い順に上から、


清涼飲料水【スカイ】

制汗剤【シュローズ クリアデオドラント】

【あんしんホームセキュリティ365】

遊園地【みかどランド】


 広告契約を大切に思っていたのだろう。


 すでに契約を得た【スカイ】と【シュローズ クリアデオドラント】には〝満了!〟と書きつけられている。どちらも中高生をターゲットにしており、契約者も同年代になる傾向にある。高校卒業と同時に契約が満了を迎えたのかもしれない。


 コルクボードには他にも高校時代からの写真がピンで留められている。


 柔道着に身を包んで何かの大会の五位入賞の賞状を手に悔しさで鼻を赤くした写真、海岸で水着になった女子のグループが一列に並んでポーズを取っているもの、両親と思しき夫婦を間近で撮影したもの……真理愛乃のこれまでの人生の歩みが、そこには刻まれていた。


 それはあまりにも抱えきれないほどの人生そのものだった。


 広告治安局アドガードになるための勇気をくれてありがとう──真理愛乃の言葉を思い出して、茜はその場にへたり込むように腰を下ろした。


 小さなテーブルの上には、広告管理法に関する参考書や広告治安局アドガードについて書かれた書籍が小さく山を作っている。そのそばには、付箋の貼られたクリアファイルがある。


 それを手に取って、付箋に目をやる。赤ペンで大きく字が書かれている。


『6/15まで!』


 クリアファイルの中には、広告治安局アドガードへの提出書類や資料がまとめられていた。


 一緒にクリアファイルにの中に入っていた『広告治安局アドガードインターンシップ制度の手引き』をパラパラとめくる。


 それによれば、サマーインターンが大学の夏季休暇期間にあたる八月のお盆明けから二週間ほど開催され、その申し込み締め切りが六月十五日ということだった。


 茜は藍里の声を思い出していた。


 その悲痛な叫びを聞いてから今までのおよそ二年間、茜はこの世界をひっくり返すことを胸に刻んで生きてきた。そのために人々を狂信的にさせる恐ろしい広告についての見識を深めてきた。


 だが、中学生の茜には限界がある。広告を知るために、何か大きな推進剤のような機会が必要だった。


 手の中にサマーインターンの申し込み書が握られている。茜の中である考えが頭をもたげた。


 ──広告治安局アドガードに潜入するチャンスだ。


 サマーインターンのためには顔写真を登録しなければならないが、そのための書類も揃っている。この機に乗じて、広告に関わる機関の内部からこの世界を知ることができるのではないか……それが茜の閃きだった。


 大人っぽいと言われることも、彼女自身の考えを後押しした。


 コルクボードに留められた真理愛乃の両親の写真が目に入る。


 ──なんて愛のある表情。


 おそらく、両親の写真を撮ったのは真理愛乃だろう。彼女にカメラを向けられて破顔する彼女の両親とカメラのこちら側にいる真理愛乃の深い愛が茜にも感じ取れた。


 そんな真理愛乃が消えてしまったことを、彼女の両親に伝えられるだろうか……茜は首を振った。自分のせいで巻き込んでしまったことなど、とてもではないが口にできないだろう。


 提出書類には、すでに真理愛乃の名が記入されている。


 彼女は言っていた。広告治安局アドガードが憧れだった、と。そして、その決意を固めたのだと。


 真理愛乃を巻き込んでしまったことへの慚愧の念とやましさ、そして、自分を救ってくれた真理愛乃の夢を叶えたいという思いが、彼女に未熟な知恵を授けることになる。


 それは自分自身を正当化するための彼女なりの大義名分だったのかもしれない。


 ──私が真理愛乃さんになって、思いを引き継ぐんだ。

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