第17話 有馬茜の秘密

昨年 六月二週目 金曜日


 その一撃を寸でのところで回避できたのは、単なる偶然だったのかもしれない。


 塾帰りの暗い夜道、ひと気のない道を歩いていた有馬ありまあかねの頭上から得体のしれない感覚が降ってきた。脱いでいたカーディガンと参考書を詰めたバッグを小脇に抱え、スニーカーで走り出す。肩越しに振り返ると、二つの影が目に入った。


 一つは、街灯の方へ向かって転びかけながら脱兎のごとく逃げていく男性の背中。


 もう一つは、街灯の逆光の中に音もなく佇む人型の黒い影。


 その黒い影が、茜の脳天を一刀両断せんばかりに何の前触れもなく現れたのだ。


 ──死ぬ……!


 驚きを引き金に息を吸う一瞬のうちに、恐怖が胸いっぱいに雪崩れ込んで来た。そのせいで窒息するような苦しみが茜を貫いた。


 震える足で地面を蹴って、駆け出す。夢の中でうまく前に進めないあの感覚を思い出して、まだ肌寒い夜なのに冷や汗が噴き出す。


 ──なんでこんなことに……!


 死の恐怖で頭がおかしくなりそうだった。振り返らずに前の方へ、次の街灯が立つ前の方へ、きっと希望のある前へ一秒でも早く進まなければならないのに、茜は背後に目をやった。


 逆光の中で黒い影が歩を進めようとしていた。ゆったりとしているようで、それでいて決して逃れられないような、次元の異なるプレッシャーを茜に与えている。


 ──どうしてこんなことに……!



***



 中学一年生の頃、茜のクラスには清丸きよまる藍里あいりという女の子がいた。


 着ている制服はなぜか傷んでいて、靴はボロボロだった。それなのに、肌や髪には艶があった。そのアンバランスさが当時の茜には不思議でたまらなかった。


 藍里はクラスで孤立していた。誰もその理由は知らなかった。中学に上がるタイミングでこの学区に引っ越してきたからだ。


 茜にも友達と呼べる友達はおらず、そんな自分を客観的に見ているような藍里のことを時折目で追っていた。




 茜の目に映るこの世界に住む人々は、恐ろしかった。


 小学四年生の時のクラスの担任教師は、毎日クラスの児童たちの前で電子オルガンを弾いた。


「一緒に歌いましょう」


 それが合図だった。いつもはお喋りばかりしてまとまりのなかったクラスのみんなが、急に背筋を正してわざとらしく身体全体を使ってリズムを取り始める。


 その瞬間の一体感が茜に気味の悪い感覚を植えつけた。


 みんなが声を揃えて歌う。童謡『きらきら星』のメロディーだが、歌詞は違っていた。


「今からやろう♪ 老後の備え♪

 急な出費や♪ 治療費のため♪

 WEBで契約♪ とても楽ちん♪」


 今の茜にならよく分かる。


 これがどこぞの積立保険の広告だったということが。子どもを広告に出すことによって、積立保険のターゲットである子を持つ層への訴求力が高まるということが。すでに著作権による保護が終了している曲だからこそ替え歌にできるということが。


 広告が始まる瞬間の大勢の狂信的な眼差しが、茜は何よりも恐ろしかった。


 赤の他人ならばまだいい。だが、両親があの目をして広告を始めた時、可愛い妹もまた何かに取り憑かれたように応じるのが恐怖だった。


 だから、家の外では広告に出くわしそうになればすぐにその場を離れるのに、家では可愛い妹を独りにしたくなくて、流れるがままに身を委ねることにしていた。




 何がきっかけなのか、今では茜も憶えていないが、藍里と言葉を交わすようになり、一緒に下校する仲にまで発展した。孤独だった者同士、何か通じるものがあったのかもしれない。


花奈かなちゃん、すごいよね。今月もまた新しい広告の契約をしたんだって」


 帰り道、藍里は憧れの目を夕方の空に向けた。クラスの人気者の花奈ちゃんは、十三歳でいくつもの広告の契約を結んでいた。


「うん、そうだね」


 心にもないことを返して、足元の小さな石ころを蹴っ飛ばした。その石は思いのほか弾んで飛んで行き、離れたところを歩いていたサラリーマン風の男の横っ面に直撃した。


 茜が青ざめていると、サラリーマンは頭を押さえて、


「いったぁ~! ……ついてないなぁ……」


 と肩を落とす。それをトリガーに、すぐそばから制服に身を包んだ女性が瞬間移動して現れた。そして、手で小さくメガホンを作る。


「ついてますよ!」

「えっ?」

「保障がついてますよ!」

「保障?」

「ヤマト生命なら死亡保障もついて30代男性で月々700円から!」

「安い!」


 制服の女性がサラリーマンをどこかへ誘うように手で促すと、二人の姿は突如空間に空いた穴の向こう、どこかの店舗のカウンターに消えていった。


 藍里がチラッと茜を見て、クスッと笑った。茜もつられて笑い声を上げた。




 そんなある日、茜は藍里の家に招待された。親がいないから自由に遊べるよ、と言われて、茜は重い腰を上げることになった。


 制服や靴の様子から家の状況を案じていた茜だったが、案外家はごく一般的な一軒家で、家の脇の屋外ガレージには、外車が停まっていた。家も車も真新しい。


 通された一階のリビングには大きなテレビが置かれ、テレビ台の下にはゲーム機やレコーダーなどが並ぶ。その両脇には巨大なスピーカーが設置されている。ふかふかのソファセットや毛足の長いカーペット……茜の目から見ても、羽振りがよさそうだった。


 それならば、なぜ学校に来る藍里の格好がくたびれているのか……茜がそう考えていると、リビングに一人の男が入ってきた。滅多に見ない臙脂色のスウェットの上下、首からは太い金のネックレスが下がっている。


「おお、藍里、連れてきたか」


 男がニコリと笑ってソファに座る。藍里が茜を見る。


「お父さんだよ」

「は、はじめまして……」


 親は家にいないと聞いていたし、人見知りの茜には、急に現れた大人からの無言のプレッシャーが凄まじく、縮こまってしまう。藍里の父親は、藍里に目を向けた。


「話はしたのか?」

「まだ……」

「さっさとしろよ!」


 彼が思い切りテーブルを叩くと、リビングに大きな音が響き渡る。それだけで、茜はもう身体がすくんで、座ったその場から動けなくなってしまった。


「あのね、茜ちゃん」藍里がゆっくりとそばに近づいて、諭すように声を落とした。「お父さんはすごい広告主スポンサーさんとお友達なの。素敵な広告なんだよ。だから、お父さんのために契約してくれないかな?」


 茜は混乱する頭でオウム返しすることしかできなかった。


「契約……?」

「お金もたくさんもらえるよ」

「いや、でも……お母さんとかに相談しないと……」


 藍里の父親がイライラしたようにテーブルを指先でトントンと叩いている。それで焚きつけられたのか、藍里が身を乗り出す。


「ねえ、お願い! 色んな子に断られて、もう茜ちゃんしかいないの!」


 必死の形相の藍里に詰め寄られて、茜はパニックになりかけてしまう。


「でも、でも……、契約は簡単にしちゃダメってお母さんが……」

「ああ、使えねえなぁ!!」


 藍里の父親が立ち上がって、藍里の顔を蹴りつけた。ギャッという悲鳴と共に藍里がうずくまる。何が起こったのか分からなかったが、床に丸くなって嗚咽を漏らす藍里に飛びついて、茜は声を上げた。


「藍里ちゃん! 大丈夫?!」

「契約取って来れるっつーから任せたのに、いつまでかかってんだよ、クソガキ!!」


 さらに迫ろうとする藍里の父親から庇うように茜は藍里の身体に追いかぶさった。


「やめてください!」


 明らかに普通ではない状況だった。


 小学校の頃からテストに出る時事問題のためにニュースを見るようにしていた茜は、その時になって思い出した。未認証広告と違法な契約のことだ。


 世の中には適切な広告をデザインし、運用・管理する広告主スポンサー代理人エージェントがおり、彼らには日本広告機構JAAによる認証が与えられる。


 大いなる力が含まれる広告を正常に展開するために、この認証システムは必要不可欠なものだ。だからこそ、国は認証を得ないまま運用されている広告を〝未認証広告〟と呼んで、広告管理法に反するものと位置づけた。


 認証を得るためには審査をパスすることが必須条件だが、反社会勢力などが運用する広告などはその条件をクリアすることができない。


 ──この人、悪い人だ……!


 茜はそう確信した。だから、藍里を必死で庇っていたのに、その彼女が腕の中で茜を睨みつけていた。


「あんたが契約しないせいで、お父さんを怒らせた」


 ゾッとして藍里の身体から身を引いた。


「なんで……なんでそんなこと言うの……?」


 茫然とする茜の前で、藍里の父親の手が藍里の髪の毛を掴んだ。そして、彼女を引きずるようにリビングを出て行こうとする。


「やだっ!! やだよ、お父さん!! ごめんなさい! ごめんなさい! 絶対契約取るから!!  許して! 許して下さい! ごめんなさい!!」


 悲痛な叫びだった。思わず茜が声を上げていた。


「分かりました! 分かりましたからやめて下さい!」


 ピタリと足を止めて、藍里の父親が振り返る。


「じゃあ、契約するんだな?」


 自分の呼吸も鼓動も激しくなっていることに、茜は気づいた。深く考える暇もないまま、藍里の身を助けるためだけに、茜はうなずいてしまった。


 父親の手から解放された藍里の表情を、茜は今でも覚えている。呪詛を込めたような、あまりにも鋭利な瞳で茜の心は打ち砕かれた。




 広告には契約条項が存在する。その中に〝発動回数ノルマ〟という項目がある。


 広告にも発動のためのリソースが必要だ。だから、広告主スポンサーは契約者が契約を持て余す状況を是としていない。契約だけを結び、広告を発動しなければ、広告のためのリソースが無駄になってしまう。


 それをあらかじめ防ぐために、週ごとや月ごとなど様々な設定期間内での発動回数ノルマがある。それを達成しなければ、契約違反となり、制裁が科されることとなる。


 茜が契約させられた広告にも、そのノルマは設定されていた。週に十回……それが茜がこなすべき広告の発動回数だった。


 問題は、契約させられた広告の内容だった。


【ブラックリスト】……バイト情報を掲載するWEBサービス。その広告だ。掲載されるバイト情報は法律に抵触するようなもののみで、巷では〝闇バイト情報サイト〟と呼ばれていた。


 完全な違法サービス、そして、違法広告である。


 この契約を家族に打ち明ける勇気など茜にはなかった。そんなことをすれば、家族を不幸にするだけだ。


 広告治安局アドガードへ通報することも、藍里の身に危険が及ぶことを恐れてできなかった。


 その藍里たちは、茜が契約を結ぶなり蒸発してしまった。どこにいるかも分からない藍里のために呪いを抱えるのはバカバカしかったが、契約を違えることで彼女が殺されてしまう可能性を考えると、安易に反故にすることができない。


 茜の夢に何度も蘇る藍里の絶望に塗り固められた表情と叫び。それはまるで胸に深く打ちつけられた楔だ。


 茜にとってさらに最悪だったのは、【ブラックリスト】の広告発動トリガーだった。


 茜が担うのは【ブラックリスト】の広告発動トリガーの箇所だけだ。そのトリガーとは、〝自分自身に性的興味を惹かせ、アクションを起こさせる〟というものだ。


 自分自身が広告の発動トリガーとなることで、自分の身体に対象者が触れるように仕向ける。必然的に彼女の周囲に展開される透明な広告領域に対象者は触れることになる。


 その広告領域は、対象者を【ブラックリスト】の登録画面が表示された拡張現実ARで包囲する。対象者は拡張現実ARを閉じない限り、視界を奪われたままになる。


 だから、茜はひと気のない道を選んでは、一人でいる男のそばに近寄って、スカートをたくし上げたり、服を脱いだりして、相手の注意を引くことを週に十回も行わなければならなかった。


 地獄のような日々を繰り返すうち、彼女は以前にも増して全てを自分一人で抱え込むようになったし、誰も信用できなくなったし、孤独でいることを選ぶようになった。


 いつしか彼女の生きる目的は、この呪われた広告を結んだ藍里の父親を探し出し、契約を解除させること、そして、このような狂った世界を根底から覆すことになっていった。


 そのためには、どのような手段も講じるつもりだ。


 家族に打ち明けられず、たった独りでも。



***



 その一撃を寸でのところで回避できたのは、この世界やそこに住む人々へ抱き続けてきた不信感があったからかもしれない。


 ひと気のない夜道は、自分に課されたノルマを消化するには好都合な環境だった。そんな場所で【ブラックリスト】の広告トリガーを発動した瞬間に、あの黒い影がやって来た。まるで彼女が騙すことになった男たちへの贖罪を求めるかのように。


 ──なんでこんなことに……!


 そうやって背後を、そして過去を振り返る茜の脳裏に、チラリとよぎる思いがあった。


 ──このまま死んでしまえれば、楽になれるのに。


 地面を蹴る足から次第に力が抜けていく。絶望に抗う心と屈する心がせめぎ合う。そのたびに、茜の耳に六つ離れた妹・あいの笑い声がこだまする。


 妹が生まれた日のことを茜は憶えている。あの柔らかくて小さな、そして温かい手を握った時に彼女は思った。この子を大切にするんだ、と。


 ひらがなを全部書けるようになったと言って喜んで目の前でクレヨンを走らせるその横顔を、茜は憶えている。彼女の屈託のない笑顔をずっと見ていたいと願った。


 何の因果だろうか。後に自分に呪いをかけることになる少女の名前と同じ字があてられた、可愛い妹。彼女を茜は守りたかった。笑顔でい続けてほしかった。


 ──死にたくない……、死にたくない!!


 肺が焼けるように熱く、じんじんと痛む。それでも、茜は希望へ向かって走り続けた。黒い影は音もなく追ってきている。


「た……助けて! 誰か……!」


 藁にもすがる思いで声を張り上げた。体力の限界に手がかかりそうな茜の耳に、女性の声が届く。


「どうしましたかっ!?」


 少し先の街灯の光の中に、ジャージ姿の女性が立っていた。

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