第16話 先週のこと
「ちょいちょいちょい! どこ行くん?!」
絢斗のブレザーの後ろ襟を
「どこって、
キョトンとした顔で答える絢斗に美言は鳥肌を浮かべる。
「なんで家知ってんの!?」
有馬
「聞き込みの時に情報を入手しておいたぞ」
「いつの間に? キモ・オブ・キモやん」
「そんなキング・オブ・キングみたいに言うな」
「そんな良い意味じゃなかったの分かるでしょうが」
「グダグダ言ってないで行くぞ」
速足で教室を出て行く絢斗を追いかける美言は、彼の背中を眺めていた。子どもの頃から見てきたその背中はずいぶんと大きくなっていた。気づいてはいたはずだったが、いつの間にか彼も自分も歳月を重ねてきたことを改めて認識する。
それでも、先を急ごうとする絢斗の背中に、美言は何か危ういものを感じていた。
一週間前のあの出来事、そして先週のことが彼女の頭をよぎったからだ。
***
四月第二週 木曜日
彼方が広告妨害で
校門前で顔を合わせた美言と絢斗が教室に入ると、真っ先に彼方の机に異変が起きていることに気がついた。二人は近づいて、机の上を真っ黒に染めんばかりにマジックペンで殴り書きされた罵詈雑言の数々だった。はち切れそうなくらい拳を握りしめた絢斗が周囲を睨みつける。
「誰が──」
「やめて。早く消そう」
小さな声で絢斗を制すると、美言は雑巾を持って教室を飛び出していった。絢斗はじっと彼方の机の上に目をやった。
バカ、犯罪者、死ね、消えろ、追放決定……考えつく限りの悪口で汚れに汚れた彼方の机。彼方が広告妨害に走った理由が絢斗には分からなかった。広告に対しては、どのような形であれ邪魔はおろか攻撃などしていいはずがない……それが常識だ。
彼方は常日頃からそういった常識に対して疑問を呈していた。親友としてはそんな彼方をたしなめるべきだったが、彼方のこの世界への疑いの熱弁は知り合ってから最初の数年で終わりを告げた。
この世界への疑問を吹聴して誰かを攻撃するのならば即座にやめさせるべきだったが、彼方は美言と絢斗の前でしか、その憤りを見せることはなかった。それも年を重ねるほどに顔を覗かせる回数が減ってきている。
今回の事件の原因は、そんな彼方をただ見守るだけだった自分にもあるのではないか……そう考えていた絢斗にとって、目の前の光景は鳩尾を殴られたような重い衝撃だった。
「はい、絢斗も」
水を絞った雑巾を持った美言がすぐそばに立っていた。周囲からクスクス笑う声が聞こえる。絢斗は歯を食いしばって雑巾を受け取ると、ゴシゴシと彼方の机を擦り出した。
その直後、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴って、すぐに担任の
「なにしてるんだ、二人とも?」
雑巾を持って彼方の机のそばに立つ美言と絢斗に目を留めて、森川がそばまでやって来る。かすれかけた机の上の罵詈雑言にチラリと目をやって、森川は絢斗に顔を向けた。
「大丈夫なのね?」
何が大丈夫なのか分からなかったが、大事にしたくなかった絢斗はうなずいた。
「みんな席つけ~」
森川は何事もなかったように教壇に立ち、出席簿に手を伸ばした。
──事なかれ主義のクソ教師が。
美言は心の中に呪詛の言葉を吐いて、自分の席へ戻っていった。
*
「誰がこんなことしたのか、犯人を捜す」
一時間目が終わり、その後の休み時間を使って彼方の机の上の文字は読めないものになったが、木の天板は黒ずんでしまった。
「やめなよ。どうせ誰も名乗らないよ」
美言の手には、彼方の机の下に落ちていた水性ペンが握られている。大手文具メーカー・クラタが販売する【クラタの水性マーカー】だ。
「それ、誰のペンだ?」
美言は教室前の隅にある棚を指さした。
「教室の備品」
それでは手掛かりにならない、と絢斗は小さく舌打ちをした。
「なにマジになってんの。あんた頭も回らないんだから、こんなのわざわざ相手しなくていいよ」
「そんなこと分かってる。だけど、許せることじゃないだろ」
美言の手からペンを摘まみ取った絢斗はそれを床に叩きつけてしまった。やり場のない怒りがそうでもしないと爆発してしまいそうだった。
そんな絢斗を見る美言の目にも後悔の念が湛えられていた。
──あたしがこんな人間だったばっかりに……。
彼方を広告妨害へ駆り立てたきっかけは自分だったのではないか……美言はそう思っていた。
美言を揶揄する暴言に腹を立てた絢斗がその発信者である
だから、〝鉄板焼き屋やまちゃん〟で発動された広告に刃向かって行ってしまったのだ。
「おいおい、教室の備品ぶっ壊そうとしてんじゃねえよ! 犯罪者の仲間がよぉ!」
後悔に身を浸していた美言を、その水野の声が打ち破った。
「別にいいじゃん、ほっときなよ。やばい奴なんだからさ」
グループの一員である女子が水野の袖を引っ張っている。ハッとして絢斗に目をやったが、彼は大人しくペンを拾って教室の隅の備品棚へ歩いていくだけだった。
そう、絢斗はそう簡単に手を上げる人間ではない。二日前に水野が放った言葉は、絢斗にとっては決して許せるような類のものではなかったのだ。美言が自分を責めるには十分すぎる事実だった。
水野は殴られたことを盾にしてか、絢斗には強気で言葉を投げつけている。もしまた何かされれば、お得意の大声で被害を吹聴するに違いない。美言は水野のグループを睨みつけた。
だが、そこに違和感があった。
いつも水野のそばに
「犯人捜しはするから」
戻ってきた絢斗がそう言って自分の席に戻っていく。眼鏡のせいか、美言には彼の表情が読みづらかった。
万が一、また絢斗が暴走することになったら……。美言は覚悟を決めることにした。
*
昼休み。
「ねえ」
例の女子が一人でいるところを見計らって、美言は声をかけた。あちこちから漏れる騒がしい声で賑わう廊下、彼女たちのそばを通り過ぎる者はあっても立ち止まるものはいなかった。
名も知らない女子がパッと振り返る。その表情が汚らわしいものでも見るように歪められた。
美言にとっては子どもの頃からよく見る反応だった。
足先から舐め回すように短いスカートを見るその視線も、その後、第二ボタンまで開けたシャツの胸元に目が行くのも、男女年齢関わらず同じだ。
「彼方の机に落書きしたの、あんたでしょ」
直球で質問をぶつけると、相手の女子は蔑むような笑みを浮かべた。
「だったらなんだよ?」
「認めんの?」
相手の女子は、はたから見ればよくいる女子高生だ。一方、美言は不良女子のように見える。二人の姿を見た人間の目には、ごく普通の女子生徒に不良女子が絡んでいるように映ったかもしれない。
だが、美言を見つめる女子は眉を持ち上げて顔を近づけると、
「知らねえよ」
とねっとりとした返答を寄越した。美言はすでに確信していた。
「じゃあ、その手についてるペンの跡はなに?」
美言は相手の右手、小指の側面に一筋走るペンの跡を指さした。
「は?」
女子は自分の手を確認して、今そこに汚れがあることに気づいたのか、パッと腕を引っ込めた。そして、弁明というにはあまりにも攻撃的な言葉を返す。
「だからなに? みんなでやったけど? あいつが悪いんだからしょうがないじゃん」
「彼方があんたに何かしたわけ?」
「なにムキになってんだよ……。ヤリマンのくせによ」
声こそ荒らげないものの、二人の間には深い怒りが渦巻いていた。美言はニヤリと口の端を歪める。対照的に、胸の鼓動は早まり、美言の手足は冷たくなっていく。緊張と不安だ。
「あのペン、【クラタの水性マーカー】だよね。あんたはそれを他人を侮辱するために使った」
「だからなんだよ?」
「ニュースとかで聞いたことないの?
「なっ……、意味分かんないこと……!」
女子の大きな声に、ちょうど姿を見せた水野がこちらを向いた。
「なにしてんだ、ゆっこ?」
「こいつがなんか喧嘩売ってきた~!」
ゆっこは独りの美言を嘲笑うようにして、水野のもとへ駆け寄っていった。
「おいおい、ゆっこをパパ活仲間に引き入れようとしてんじゃねえよ~!」
美言は茶化す水野を真っ直ぐと見つめて、その瞳をゆっこに向けた。
「知らないだろうから教えるけど、過去には広告棄損で億単位の弁償金の支払いが命じられたケースもある。支払いができなければ、広告契約を失うことになるかもしれない、あんたの家族の誰かが」
水野の眉間に皺が寄る。
「……何の話だぁ?」
「あいつの机に落書きしたの私らだって言いがかりつけて来たんだよ」
ゆっこがそう言うと、水野のそばに集まっていた女子連中がキャッキャと声を上げて笑う。
「ゆっこ、バレてんじゃん! なにしてんの~」
「ちょっと待て」水野が女子たちを制して声を低めた。「あの落書き、お前らがやったのか?」
「なにビビってんの~」
女子たちの笑い声とは裏腹に、水野は真剣な表情で語気を荒げた。
「なにしてんだ! そんな証拠の残ることしたら、やばいことになるぞ!」
あまりの剣幕に、女子たちが息を飲んで水野を見つめた。時が止まったように笑いが消えて、やがて彼女たちに引きつった苦笑いが広がっていく。
「大変なことをしたね、君たちは」
知らぬ間に廊下の壁に寄り掛かっていた
「い、いたのかよっ!」
狼狽える水野に界人は笑いかける。
「自分のクラスの前にいて何が悪いんだ?」
「ねえ、徳川くん!」ゆっこが声を張り上げた。「今の話、本当なの?」
「広告管理法によれば、
「じゃ、じゃあ……」
こわばった表情でゆっこが美言に目をやる。だが、界人はさらにその先を続けた。
「だが、広告棄損罪は
「ってことは、特に問題ないってことか!」
水野が言うと、界人は小さくうなずいた。
「広告管理法上はね」
「ビビらせてんじゃねーよ!」
ゆっこがそう吐き捨てて教室に入って行くと、女子たちもそれに続いていく。ホッと胸を撫で下ろした水野に界人は近づいて小さく口を開いた。
「君はトラブルを起こすのが好きなようだ。今回は問題なかったかもしれない。だが、もし彼女が
「わ、分かったよ……」
「お友達が好き勝手しないように見守るのも君の仕事だ」
水野はそそくさと教室へ戻っていく。ちょうどチャイムが鳴り始めた。美言は短く、
「ありがとう」
と界人に礼を伝えたが、彼は鋭い一瞥をくれただけだった。
絢斗には、問題が解決したことだけを伝えた。
美言の有無を言わさない瞳に、絢斗は犯人捜しを諦めたようだった。美言はあり得たかもしれない最悪の事態を潰せたことに安堵の吐息を漏らした。
***
「美言、大丈夫か?」
美言と絢斗は電車に乗って移動し、有馬茜の自宅前までやって来ていた。口数の少ない美言に絢斗が心配げな顔を向けている。
「うん、ダイジョブ……」
住宅街に立つ平凡な一軒家。玄関の脇にインターホンが設置されている。絢斗は唾を飲み込んだ。そのボタンを押せば後戻りはできなくなる。
「よし、行くぞ」
絢斗は美言の返事を待たずにインターホンのボタンを押し込んだ。
『はい?』
しばらくして母親と思しき女性が応答した。
「ええと……、あの……」
取り入る口実を考えていなかったのか、絢斗が口ごもってしまう。美言は慌てて絢斗を押しやってインターホンに向かった。
「すみません、私たち茜さんと同じクラスの者でして……」
有馬茜は一年C組だ。美言は咄嗟に嘘をついた。
『あら、どうかしたの?』
向こうの声が少し明るくなり、弾んでいるように美言には聞こえた。
娘の友人が訪ねてきたという期待感がそうさせたのかもしれない。美言は心苦しい思いをしながらも、単刀直入に切り出すことにした。
「茜さんがここのところ学校に来ていなくて……」
間があった。
『……えっ? いや、茜は学校に行っているはずだけど……』
美言は絢斗と顔を見合わせた。
有馬茜が学校を休んでいるというのは、複数のクラスメイトからの証言だ。そこに疑いの余地はない。
奇妙な食い違いを目の当たりにして、美言も絢斗も安易に踏み込み過ぎたことを後悔し始めていた。
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