第12話 失意の底で掴むもの

 衛士えいじによる広告法取引が成立して、藤堂家は大黒柱の広告契約と職を失ってしまった。


 広告法取引の手続きが終わるまでの一週間、彼方かなたは安全のために高校を休んでいた。


 外に出る気分になれず、部屋に籠りきりだった彼のもとには、美言みこと絢斗あやとから毎日メッセージがやって来て、授業の共有や業務連絡、他愛ない話題を提供してくれた。


 彼方はあまりにも稼働するメッセージアプリ【リンク】の「グループリンク」に広告を疑ったが、親友たちが新しい、しかも、【リンク】のような特級広告と契約できるはずもないと思い直した。


「彼方、少し話をしないか?」


 階下から母親の愛美まなみの声がする。


「今行く!」


 彼方は部屋の外に返事をして、急いで階段を駆け下りて一階のリビングへ向かった。



 リビングのソファには、衛士と愛美が並んで座って待っていた。衛士からは繰り返し、「気に病むことはない」と言われていた彼方だったが、さすがに、肩身の狭い思いをしながらソファの向かい側のカーペットの上に腰を下ろした。藤堂家が家族会議をする時の昔からの定位置だった。


「まず言っておきたいんだが……」


 衛士は深刻な表情で声を落とした。彼方は思わず固唾を飲んで父の次の言葉を待つ。


「さっきまでエゴサしていたんだが、炎上はしてなかった」

「ああ、よかった」


 愛美が両手を合わせてニコリとした。彼方は正座をしたままずっこけてしまった。


「最初に言うことがそれなの?」

「いや、彼方、SNSで炎上してないってのは好都合なんだぞ。芸能人なんか、下手すりゃ、殺害予告の乱れ打ちを食らうことだってあるんだからな。だから、俺の退職金が出た件も大して話題になってない。全く誰も気にしてないのが少し残念だとすら思ったぞ」

「まあ、ただの刑事が一人辞めたくらいじゃ大ニュースになんてならないわよね」


 ニコニコと感想を述べる人生のパートナーを、衛士はかなり複雑な感情を抱きながら見つめていた。


「ま、まあ、母さんの言う通りなんだが、とりあえず、最悪の中でも最良の結末を勝ち取れた感はあるな。なんと母さんの広告契約は生きたままだぞ」


 衛士はそう言って彼方へキラリとウィンクを飛ばした。子どもの頃から、彼方が何かにチャレンジした時に見せていた、おじさんにしては綺麗なウィンクだ。


 彼方は微笑んでウィンクを受け取ると、息を吸って言葉を発そうとした。その時に彼は自分の喉が震えていることに気がついた。


「父さん、母さん……、ずっと言わなきゃいけなかった。迷惑をかけてごめん。この一週間、ずっと考えていたんだ。自分の感情ばかり優先させて、自分の行動がまわりの人にどんな影響を与えるかなんて考えてなかった」


 愛美が寂しそうな表情を浮かべる。


「母さんもびっくり。彼方が他の広告に喧嘩売るなんて、夢にも思わなかったわ……。何かにモヤモヤしてて、それが限界を迎えて爆発しちゃったの?」


 生活を一変させた息子に何か間違いがあったのだろうかという、それは一点の曇りもない心配だった。この一週間、結果的に広告犯罪に走ってしまった自分は責められて当然だと思い続けてきた彼方にとっては、痛いほどの優しさだ。


「彼方、俺にもずっと言えなかったことがある」


 衛士がじっと彼方の目を見つめた。真っ直ぐな眼差しだ。またしても彼方は固唾を飲む。衛士の眉根が寄せられて悔やむように歪んだ。


「怖かったんだよ。中学生になった頃からお前が何を考えているのか分からなくなっていった。小学校から中学校に上がって、環境が変化したせいだと勝手に自分を納得させた。今もまたそう思おうとしている。お前の親なのに、お前のことが分からなくなっていくのが情けなくて……お前に向き合うことも、俺に理解できないことや解決できないことを突きつけられるんじゃないかと怖かったんだ」


 いつも飄々としていた父の思わぬ心の内に、彼方は心臓を鷲掴みにされたようになってしまった。衛士の言う時期は、彼方のこの世界への不信感がより強まっていった時期だったからだ。


 じっと内省する彼方に愛美がそっと身を乗り出す。


「考えを話して、とは言えないわ。彼方の心もガバガバってわけじゃないでしょ?」

「……言い方は置いといて、確かにそうだね。でも……」


 彼方は葛藤していた。


 両親に心の内を曝け出せない理由は、この世界への不信感が発端になっている。日常に広告が捻じ込まれるという彼方にとって受け入れがたい異常な世界……それに気づいているのが自分だけだという事実。


 それを両親に話して、もし美言や絢斗たちと同じようにあのキョトンとした目で見つめ返されたとしたら、彼方には本当にこの世界に自分の居場所を見失ってしまう気がしていた。


「まあ、いいさ」


 彼方の気持ちを汲み取ったのか、衛士は笑顔で自分の問いかけを引っ込めた。彼の脳裏には、昨夜遅く、寝室のベッドの中で愛美と交わした会話がよぎっていた。



***



「正直、怖いんだよ」


 暗く静かな寝室。ベッドのそばに置いた目覚まし時計が時を刻む音がする。毛布の中で身動ぎをする衛士の方に顔を向けて、愛美が頬を緩めた。


「刑事を辞めたら途端に気弱になっちゃって」


 短い一言で確信を突かれた衛士は思わず降参した。


「それは本当に言い逃れできないな。俺の人間としての芯って、刑事であることだったのかもな」

「定年退職して目的を失った人みたいなこと言わないで。人生まだ長いでしょ」

「人の足跡追いかけて、汗水垂らして……、そんな毎日が急になくなるのははっきり言ってキツイ」

「だから怖いの? 衛士がやることなくなって飲んだくれてる姿なんて想像できないけど」

「そんな海外ドラマの元刑事みたいにはならないよ」

「道端で紙袋に入れたままの酒瓶をグイっとやったりしてね。断酒会に参加するけど、事件に巻き込まれて結局お酒飲んじゃうのよね。それで、心の距離が縮まりかけてた離れて暮らす娘に見放されちゃうのよ」


 海外ドラマが好きな愛美は頭の中の妄想を膨らませて、なぜか嬉しそうに笑った。


 アメリカのドラマや映画にはありがちな紙袋の中の酒瓶だが、アメリカにも日本の広告管理法にあたるルールがあり、アルコールを飲む場面は広告内ではご法度とされている。だから、飲んでいるのがアルコール商品であることが分からないようにしなければならないのだ。酒瓶の形やラベルで商品が出てしまえば、それは広告と変わらない効果を生み出してしまう。


「俺が怖がってるのは、俺たちと彼方のこの家庭が崩壊してバラバラになってしまうかもしれないってことだ。俺が不甲斐ないばかりに……」


 愛美はこちら側に身体を向けていた衛士の胸にそっと手を当てた。


「大丈夫よ。私たちは家族なんだから。誰がなんと言おうと」


 愛美の手を握ってその温かさを感じると、衛士はようやくうなずいた。


「明日、彼方と話し合いをしよう。ずっと細かいことを喋っていなかったからな。現状のことと今後のことを……」


 決意に満ちた衛士の表情を愛美が笑う。


「もう緊張してるじゃん」

「人生のターニングポイントなんだ。俺たちにとっても、彼方にとっても。……今日は眠れそうにないな……」


「眠れない夜に!!」


 突然、ベッドの脇のスペースから見知らぬスーツ姿のイケオジが現れて立ち上がった。その手には【スヤルディープ】の小さなボトルが握られている。藤堂夫妻はベッドの上でバッと上体を起こして、


「えっ?!」


 と驚きの声を上げた。


「質の良い睡眠のために【スヤルディープ】! ストレスを緩和して、翌朝を気持ちよく迎えましょう!」


 藤堂夫妻は見知らぬイケオジから【スヤルディープ】を受け取ると、一斉にその小さなボトルを傾けて飲み干した。


 次の瞬間、心地よさそうな表情で背中からベッドにダイブすると、二人は静かに寝息を立て始めた。


 スーツ姿の男はどこかに視線を向けて声を潜め、


「ヒナノ製薬です」


 と広告主スポンサーの名前を告げてから、背後で眠りに落ちる藤堂夫妻をチラッと見て、満足そうな表情を浮かべた。


 広告が終わると、イケオジは即座に姿を消したが、衛士と愛美は眠りに落ちたままだ。これが愛美の契約の一つである二級広告【スヤルディープ】である。




 ちょうど同じ頃、ベッドの中で悶々としていた彼方のもとにもそのイケオジが姿を現した。何の前触れもなくベッドの縁からにゅっと顔を出したイケオジに、彼方はリアルな叫びを発した。


「うわっ!」


 ──急に出てくんなよ! 心臓止まるかと思っただろうが!!


 彼方は愛美の影響で発動した広告への呪詛を心の中に吐き出しながら、謎のイケオジから【スヤルディープ】を受け取って一気に飲み干した。


 たとえ広告を否定していたとしても、その力を無視できるわけではない。彼方はすぐにベッドの中で寝息を立てることになった。



***



「ちょっと散歩に行かないか?」


 衛士は彼方にそう言った。


 愛美を家に残して、彼方と二人で曇り空の下に足を踏み出す。愛美は「また男同士の会話?」と少し不満そうだったが、どこか嬉しそうに二人を見送っていた。


 四月中旬の街は肌寒い。灰色の空からは時折強い風が吹きつけてくる。


「どこに行くの?」


 彼方の問いを聞き流す衛士の足は駅前の方に向かっていた。彼方はあの日、美言と絢斗に手を引かれて逃げ走った時のことを思い出して、その時の感情が蘇りかけてゾッとしてしまった。


「彼方、学校はどうするんだ?」

「考えてる。行かないといけないとは思ってるけど」

「学校変えるか?」


 彼方は二人の親友の顔を思い浮かべて、首を振った。


「いや、たぶん、どこに行っても同じだと思うから……」

「そうか」


 それ以上は何も言わない衛士はしばらく歩いて、とある建物の前で立ち止まった。〝やまちゃん〟の前だった。


「え、これって……」


 彼方の目が店の入口に釘付けになる。


『鉄板焼き屋やまちゃんは閉店致しました。三十七年もの間、ご愛顧いただきまして感謝致し〼』


 大将の筆文字がしたためられた白い紙が入口に貼りつけられている。彼方は全身から血の気がサッと引いて目の前が暗くなり、その場に立ちすくんだ。


「広告妨害の幇助で大将は店を畳むことになった」

「大将は関係ないって言ったのに……!」


 あの日の自分の足掻きが全て無駄だったことをいまさら知った自分に、彼方は憤りを感じていた。


「だが、それがルールだ。社会に生きる者なら──」

「ルールを守れ、でしょ。父さんは俺にずっとそう言ってきた」


 棘のある声に、衛士は彼方の横顔を見つめる。


「父さん、なんで早く教えてくれなかったの」

「すまん、父さんもショックでな。言うタイミングを逃した」


 今度は彼方が衛士の横顔を見る番だった。初めて見る、父親ではなく一人の人間としての衛士の姿に、彼方はハッとした。


 彼方には心の中に燻り続ける思いがあった。子どもの頃から聞かされ続けてきた「ルールを守れ」という言葉。彼方はその言葉に縛りつけられているような感覚があった。この世界の異常性を認識してからは、その思いは強まっていった。それでもこの世の理不尽を受け入れなければならないのか、と不信感を募らせながら。


 衛士は刑事だった。街の平和を守るため、戦い続けてきた。そんな衛士にとって、ルールを守るというのは、彼自身の心の拠り所だったのかもしれない。


「また大将に会えるかな」


 ボソリと呟いた彼方に、衛士は答えた。


「分からない」


 希望のある言葉ではなかった。


 これまでの礼も伝えられず去ってしまったあの口の悪い心優しき大将。その姿も声も、お好み焼きのソースが焼けるにおいも、アルバムのようにたまにめくっては懐かしむものになってしまうのかと思うと、彼方は胸が締めつけられた。


 しかし、その眼には光が点っていた。


 ──この異常な世界をぶっ壊す。そして、大切な人たちを広告から解放するんだ。


 彼方は生まれて初めて、自分の生きる意味を見つけたような気がしていた。

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