第13話 笑い飛ばしていこうぜ
パッと瞬く火花ほど儚いものはない。
つまり、彼の決意は早々に暗礁に乗り上げたわけだ。問題はそれだけではない。
一週間ぶりに高校の制服に袖を賭した彼方だったが、気持ちは重く、高校の校門をくぐる自分の姿を未だに想像できずにいた。鉛のように重い溜息をついては、自室のデスクの前の椅子からなかなか立ち上がることができない。
「めっんっ、つゆ~♪ めっんっ、つゆ~♪ サカイのめんつゆ~♪」
部屋の外から
──ビビらせやがって。朝っぱらから手汗かいちゃったじゃねえか……。
その衛士がドアの開いた彼方の部屋の入口から顔を覗かせる。
「久々の学校で緊張してるのか?」
「そのアイドルみたいにちょこっと顔出すのやめてくれよ」
衛士が入口で仁王立ちになる。
「ちゃんとツッコミを入れられるなら大丈夫そうだな」
「どういう基準なんだよ」
椅子から立ち上がる彼方の声はやはり少し震えている。
「暴れるホシに怪我させられた
「その牧野って人の失敗談みたいなのしか聞いたことないんだよなぁ……」
「そんなことより、ちょっと見てほしいものがあるんだが」
衛士は手招きをして、同じ階の彼の部屋に向かった。殺風景だった部屋にパソコンとデスクが導入されていた。
「父さん、こういう現代機器に弱いんじゃなかったっけ?」
すでに電源が入っているモニターに何かが表示されていた。
真っ白な画面のど真ん中に縦書きで『
「なにこれ?」
「量販店の店員の言いなりになって買ったパソコン」
「そっちじゃねえよ。画面に映ってる方を聞いてんだ」
衛士は胸を張る。
「聞いて驚け。父さんは刑事をやめて新しいことを始めるぞ。何だと思う?」
「え、探偵じゃないの?」
「あっ、そうか! もうネタバレしてたな……」
決定事項のように頭を掻く衛士を彼方はまじまじと見つめる。
「え、本当に探偵を始めるの?」
「ああ、父さんにはやっぱりこういうことしかできないと思うんだ。警備員になってあの光る棒振り回すなんてつまらないことはしたくないからな」
「それは世の警備員に失礼だろ」
「このホームページはまだ公開されてない。探偵業の届け出をしないと、今度はリアルに逮捕されるからな」
「探偵ってそんなに簡単になれるものなの?」
「書類と3600円で始められるぞ」
そう答える衛士の目は少年のようにキラキラとしていた。そんな少年のような父が息子の肩にポンと手を置く。
「だからな、お前も自分の人生を楽しめ」
父の言葉に背中を押され、彼方は最寄りのバス停までやって来ていた。すぐにバスが滑り込んでくる。定刻通りだ。
バスの中はやや混んでいて、彼方は前方のベンチ席の前のつり革に手をかけた。隣には別の高校の女子生徒が立ち、その正面の席では、おばあさん二人がなにやら話し込んでいた。
「──……だわよねぇ。だって、ISPが……」
「そうよ、ISPが……」
部屋に引きこもっていたことで研ぎ澄まされた彼方の感覚が、何かを告げた。
──CMのにおいがする。
今度は女子高生の後ろでサラリーマン二人組が喋っている。
「やっぱり、ISPがさ……」
「なんだかんだでISPだよな」
ついにバスのあちこちで「ISP」について話し出す乗客が続出する。すると、彼方の隣の女子高生が過剰に困惑した表情で窓の外の一点を見つめて、声を上げた。
「ISPって、なに~?!」
それっきり車内は再び静かになり、疑問を叫んだ女子高生も何事もなく眠そうにつり革に掴まった。
──たまにある企業の名前だけ言って終わるCMじゃねえか。ネットで調べさすな。CMの最後にクリックカチッじゃないんだよ。
復帰早々に広告の洗礼を浴びた彼方はぐったりしながら目的地の停留所でバスを降り、
その道中にスマホで「ISP」について検索をする。どうやら、〝IT技術で社会に貢献する企業〟らしい。
まんまと踊らされてホームページまで見てしまった彼方は、
──CMで完結させろよ……。
とイライラしながら高校の校門をくぐった。イライラを抱えたことが逆にナイーブな心を支えてすんなりと学校の敷地内へ足を踏み出すことができたようだ。
だが、やはり、周囲の生徒からの視線に厳しいものが混じっていることに気づくまでに時間はかからなかった。そして、徐々に重くなる足を教室に踏み入れた瞬間に、懸念していたことが現実のものとなってしまった。
「おいおいおい! 犯罪者がノコノコやってきやがったよ!」
一週間前に
水野の肩越しに、こちらを見つめる
「みんな、藤堂くんも反省してるようだし、快く迎え入れてあげようじゃないか」
と発した。その言葉で、水野は彼方を鼻で笑って自分の席へ戻っていった。休んでいる一週間にクラス内の情勢には変化が訪れているようだった。
「おつかれ~」
「よく登校したな。えらいぞ、彼方」
「お前は俺の父親かよ」
美言がおもむろに彼方の頭を撫でる。前屈みになると、第二ボタンまで開けた彼女のシャツの胸元が少しきわどくなる。
「いい子ちゃんですね~」
「お前は俺の母親かよ」
彼方は美言の手を振りほどいて、メッセージアプリの【リンク】では聞けなかったことを単刀直入に尋ねた。
「あれから二人はクラスの奴に何か言われなかったか?」
美言がニヤリと歯を見せる。
「絢斗が水野を殴ったんで、学年主任にガビガビに絞られてたよぉ」
「【
絢斗が初めて契約をした一般広告だ。
「先生も無駄におおごとにしたくなかったようで、そこはノーダメージだったぞ。説教の後にクラスの女子から心配されたから、どちらかと言えばプラスだった」
「やかましいわ」
つっけんどんに言葉を返す彼方だったが、これが自分の日常だったと思い出して頬を緩ませた。これほどすんなりと日常に帰って来られたことに肩透かしされたような感覚すらあった。
チラリと界人の様子を窺う。
「徳川とは何かあったか?」
小声で尋ねると、二人とも首を傾げた。
「いや、特には何もなかったけど……」
制圧術で無力化してしまった界人が、今は穏やかな様子でいることが彼方には何か空恐ろしかった。普通であれば、何かしらの意趣返しがあっても不思議ではない。
それとも、市長の息子としての威厳を損なわないように振る舞っているのだろうか……答えのない問題に首を突っ込みかけて、彼方は我に返った。
内側に籠りがちな心がこの世界で自分自身を孤立させてきたことに思い至って、彼方は胸の中がズンと重たくなるのを感じた。
彼方の肩に手が置かれた。絢斗が何やら柔和な表情をしている。
「彼方、なに落ち込んでるんだ?」
「いや、別に落ち込んでるわけじゃ──」
彼方の反対の肩に別の手が触れる。美言の身なりがいつの間にか優等生化している。
「今から受験が不安なんだよね?」
「え、いや、勝手に決めつけないで。マジでそんなんじゃねえから……」
広告はいつも自分勝手だ。なぜなら宣伝したいことに早々と話題を持って行きたいからだ。二人の親友がジッと彼方を見つめる。明らかに何かの反応を欲している。
──これいつの間にか【正光塾】のCM始まってんじゃねえか。しかもよく見るとこいつら目ぇイッちゃってんじゃねえかよ……。
自分が望む反応を見せるまでは二人の目がイッたままだという恐ろしい想像に、彼方はすぐに折れてうなずいた。
「そうなんだ……。俺なんか一週間休んで、もう授業に追いつける気がしないんだ……」
「そんな彼方でも大丈夫!」
絢斗はようやく笑顔になった。美言も普段見せないような聖母みたいな微笑を浮かべる。
「【正光塾】なら、学習済みの内容を理解できるまで何度でもおさらいできるし、大手予備校出身の講師も多数在籍してるからサポートもバッチリなの。周囲のレベルに追いつけないっていう心配はいらないわ!」
──「いらないわ」って喋り方まで変わってるやん……。
「それは安心だね」
美言と絢斗の圧に屈するほかなかった。彼方は棒読みのセリフを返して広告の流れに身を任せた。絢斗は再び彼方の肩に手を置いて、遠くを見つめる。そして、一週間前に聞いた例のキャッチコピーを口にする。
「未来で笑おう」
──絶妙にダサいんだよ、そのキャッチコピー。
自分を支え、励ましてくれる親友がこうして目の前で広告に駆られているのを見るのは、彼方にとっては辛いことだ。彼方の中で、よりこの
絢斗がキャッチコピーを発すると、教室の隅に顔を向ける。その瞬間に、どこかの大学のキャンパスに三人の身体が転移した。彼方は作り笑いを浮かべつつも、心の中で叫んだ。
──まーたこの大学に飛ばされたよ。どこだよ、ここ。どうせ訳分からん学部があるFラン大学だろ。
「受験に力を。正光塾」
絢斗がそう言って広告は終了し、三人は元の教室に帰還した。美言の身なりも元通りだ。
朝のホームルームが始まるよりも前に、これほどまでに広告に巻き込まれるとは思っていなかった彼方は自分の机に突っ伏した。
教室ではあちこちでパラパラと広告が発動している。
高校生になると、広告契約を結ぶ者も増え始める。そうやって人々は広告との付き合い方を学んでいくのだ。
そこかしこから大きな声やキャッチフレーズ、ダンスや既存曲の替え歌が聞こえてくる。誰しも、広告と契約したばかりの頃は広告を発動したがる。
だからこそ、一週間前の中庭で起こったような衝突も日本全国で頻繁に見られるようになるのだ。
「CMのバーゲンセールかよ……」
美言と絢斗が笑顔で顔を見合わせる。
「なんだよ、ニヤニヤして?」
美言は首を振った。
「ツッコミ人間の彼方が戻ってきたって感じただけ」
「俺ってそんなにツッコミのイメージあるか?」
彼方が絢斗に問いかけると、即答が返ってくる。
「ある。お前はよく近くで発動してる広告にブツブツとツッコミ入れてるだろ。美言なんかよくそれでクスクス笑ってるぞ」
「ちょっと待った。声に出してないつもりだったんだが、聞こえてたのか?」
下手をすれば広告妨害になる可能性もあった。だから、彼方はいつも心の中だけで周囲の広告に茶々を入れてきた……つもりだった。
「気づいてなかったん? 羞恥100
美言が意地悪そうに笑った。がっくりと肩を落とす彼方だったが、絢斗は首を傾げていた。
「いいじゃないか。それが彼方なんだから、気に病むことはない」
何気なくそうフォローした絢斗の言葉に、彼方は目の覚める思いがした。この世界との向き合い方の彼なりの正解は、すでにそこにあったのだ。
──広告を鼻で笑ってやればいいんだ。バカバカしいと誰かが思えるように。そうすれば、その誰かはこの悪夢のような世界で目を覚ますかもしれない。
遠回りだった。しかし、彼方にとっては必要な道程で、だからこそ、彼は自分が辿り着いた結論が掛け値のないものだと心から信じることができた。
──この世界の全て、全部全部笑い飛ばしてしまえばいいんだ。
パッと晴れた彼方の表情に二人の親友は胸を撫で下ろした。
「なんかいいことあったん?」
美言に顔を覗き込まれて、彼方はうなずいた。
「まあな」
「元気になったようでなにより。これでようやく彼方も心置きなく女の尻を追いかけられるな」
絢斗の言葉が一瞬理解できなかった彼方だったが、瞼の裏にフラッシュバックする謎の少女の姿に雷を食らったような衝撃を受けた。
校庭の隅で展開されていた清涼飲料水【スカイ】の広告を避けるようにして姿を消したあの見知らぬ少女……。彼女はこの学校のどこかにいるはずだった。
「それだ!」
クラスメイトをはばかることなく、彼方は絢斗を真っ直ぐと指さした。
──あの子を探そう!
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