第9話 賽は投げられた②

 人気モデル・栗濱くりはまステファニーが大きな目でウィンクする。〝鉄板焼き屋やまちゃん〟の黄ばんだ壁に向かって。


「【鉄板焼き屋 金のコテ】は、大増量キャンペーン! ですよ!」

「大増量キャンペーン?!」


 バカの一つ覚えみたいなオウム返しをする二人のサラリーマンを見て、大将も美言みこと絢斗あやともただ目を丸くするばかりで、母屋を奪い取らんばかりのチェーン店鉄板焼き屋の広告に異議を唱える素振りも見せない。


 ──こんなんでいいわけないだろ……!


 これから自分の取る行動が未来にどのような影響を与えるのかを考える余裕が彼方かなたにはなかった。物心ついてから今まで蓄積してきた世界への呪詛の思いはこの瞬間についに形を持ってしまったのだ。


 席から立ち上がって、彼方はステファニーとサラリーマンたちを制するように手を伸ばした。


「人の店でCMやってんじゃねえ!」


 広くはない店内に彼方の声が微かにこだました。時が止まって、全員の目が一斉に彼方に向けられた。最初に声を上げたのは、ステファニーだった。


「ちょっとぉ! ありえないんだけど!」


 彼女はそう叫び残して煙に包まれて消えていった。


「なっ、何してんだ、お前は!」


 サラリーマンの一人が血相を変えて彼方に詰め寄る。美言と絢斗は混乱したように椅子に尻をくっつけたままだったが、大将がヘラを持った手を二人の間にすっと差し入れた。


「申し訳ねえ! 子どものやったことです!」


 ヘラを持つ手が震えていた。その時になって、ようやく彼方は自分のしでかしたことの大きさに気がついた。


「俺たちの広告の邪魔をしたんだぞ!」


 もう一人のサラリーマンも火がついたように大将に掴みかかった。驚きと恐怖と戸惑いの入り混じった大将の表情が彼方の目に入る。これまで見たことのない切羽詰まった顔が彼方の心を煽り立てる。


 収まりかけていた心の動揺が再び沸き上がって、彼方はそのサラリーマンの肩に手を回して、床に投げた。


 その一連の動作はほとんど自動的で、子どもの頃から父の衛士えいじに技を叩き込まれてきたことを物語っていた。


 ──制圧術第四章第六節……〝たすき落とし〟。


「彼方、何してんの!」


 美言の叫ぶ声がして、彼方の目には連れのサラリーマンと絢斗に助け起こされるスーツ姿が映し出された。


「すぐに広告治安局アドガードが来るからな! 俺たちのは一級広告だぞ! 広告主スポンサー幸博こうはくホールディングスも代理人エージェント新光しんこうだって黙ってないからな!」


 綺麗とは言えない床に投げ出された彼は身体を払いながら鬼の形相でそうまくし立てた。


 新光しんこうといえば、日本を代表し、世界でも有数の代理人エージェント企業だ。その名を掲げる姿は虎の威を借る狐のようで、それが幼い頃からの不信感という油に包まれた彼方の心に再び火をつける。


「お前らがやったのは比較広告だ! 広告の中で他の競合相手の価値を下げるようなことをした! それこそ広告管理法違反だ! 今すぐ出て行け!」


 比較広告とは、広告の主体が競合より優れていると見る者に認識させる広告のことだ。広告管理法で禁じられている。例えば、自動車メーカーが他社の車の名前を出して貶めるようなことは許されていない。


 彼方は、父に連れられてきたあの時から広告世界アドワールドの中にオアシスのように存在していたこの店を守りたいという一心で必死に訴えた。だが、サラリーマンたちはそれを一笑に付す。


「ここは名もなき店モブなんだよ! 俺たちが広告を発動しようが関係ねえんだよ! そんなことも分からねえのか!」

「巨大代理人エージェントの広告だからって、何やってもいいと思ってんのか!」


 この世界では広告の力の差がものを言う。新光しんこうのように多くの広告主スポンサーを手がけている代理人エージェントは富の中核をなし、それがいびつな支配構造を生み出していると主張する者もいる。


「彼方……、もういいって! やめてくれよ!」


 絢斗が彼方の腕を取って店の出口に引っ張っていこうとする。


「逃げんのか、犯罪者!」


 彼方は絢斗に手を引かれながら、サラリーマン二人を睨みつける。


「お前たちのせいで苦しんでる人たちがいるんだ!」

「やめなって、彼方……」


 美言が彼方の口を塞いだ。二人がかりで羽交い絞めされる彼方に、大将は「しっし」というように追い払う仕草をしてみせた。


「大人しくお家帰ってな!」


 サラリーマンたちは怒りの矛先を対象へ向ける。


「あんた、あいつらを庇ってたな。あんたも同罪だぞ」

「ふざけるな! 大将は関係ないだろ!」


 彼方が口を押える美言の手を振り払って叫んでいた。サラリーマンたちが正義の火の点った目で見つめ返す。


「なに言ってんだ? 広告を邪魔するのも、それを手助けするのも禁止されてる。お前の大好きな広告管理法でな」


 言い返そうする彼方を制して、大将が声を大にする。


「いいから、もう帰れ! ……いいんだよ、これで」

「待ってくれよ、大将……!」


 どこか諦めたような大将の表情に彼方はおぞましい想像をしてその場に留まろうとしたが、絢斗と美言に店外へ連れ出されてしまった。



***



〝やまちゃん〟を後にして、彼方は美言と絢斗に手を引かれ駅前のメインストリートを走る。通りすがりの人たちがチラホラと彼らを一瞥していく中、彼方は立ち止まった。


「彼方……」


 思い詰めた表情の彼方に絢斗は優しく声をかけるが、目が合うことはなかった。彼方は青ざめた顔を背けていたのだ。


「俺がみんなを巻き込んだ……。もう終わりだ」

「そんな落ち込まんでもいいやん」


 明るく返す美言の声は彼方には届いていないようだ。


「二人とも早く家に帰って、もし何か聞かれてもさっきの出来事とは関係ないと答えるんだ。そうしないと、二人にも……」

「どうしちゃったんだよ、彼方」


 目の前の親友に心配げな眼差しを向ける絢斗は、心のどこかでこんな日が来るような予感を抱いていた。理解はできなかったが、この世界への不信感を募らせていた彼方の姿をずっとそばで見てきたのだ。


 悪夢を見ているように茫然とした様子の彼方を目にして、彼を止められなかった自分の無力感に絢斗は苛まれていた。


 だから、絢斗は「ごめん」と言いかけて、それが場にそぐわない言葉だと気づいて口を噤んだ。


「あぁ、でも……」彼方は頭を抱えていた。「広告治安局アドガードはもう俺たちをマークしてるはずだ……どうしたら……」


 彼方が混乱する理由は、広告治安局アドガードを擁する日本広告機構JAAが誇る全市民評価システム〝浄玻璃じょうはり〟に組み込まれる監視体制にある。


〝浄玻璃〟の監視AIである〝天眼〟は地上・上空・宇宙から市民と認証された広告の状況を漏らすことなくモニタリングしている。広告管理法に抵触する状況のうち、機械的に関知できるものについては即座に広告治安局アドガードに通知される仕組みになっている。


 その通知を受けて広告治安局アドガード各隊スカッドは緊急出動する。



***



「よぉし、バカどもをとっ捕まえに行くぞぉ」


 金色の短髪をオールバックにして、正隊員制服の袖をまくった第五隊フィフス・スカッド隊長・石川いしから伽藍がらんが左の手のひらに右の拳を叩きつけた。制服の襟もとにはアヒルのピンバッジが光っている。


 阿戸あど市内で発生した広告犯罪を関知した〝天眼〟が発した緊急出動命令のすぐ後、広告治安局アドガード本部の廊下を肩で風を切って歩を進めている。


「悪役みたいなこと言うのやめて下さい、隊長」


 伽藍の横についているのは、青い長髪をアップにしてまとめ、スクエアタイプの眼鏡の奥に冷静な瞳を宿らせる及川おいかわ亜月あづきだ。


「及川ぁ、俺様はなぁ、悪ってもんを許せねえのよ。だから、この緊急出動命令ってのにたまらなく俺様のソウルが震えるんだよぉ」

「広告犯罪を歓迎してるみたいな言葉はどうかと思いますが」


 冷ややかな副隊長・亜月のツッコミにも伽藍の真っ直ぐな眼は揺るがない。


「及川ぁ、俺様たちってのはなぁ、広告犯罪者のおかげで飯食ってんだ。だから、そいつらのふざけた面に一発ぶちかますってのが、礼儀ってもんなのよ」


 伽藍のロジックを亜月は眼鏡越しに一瞥する。


「理解しかねる思想です」

「ハッハッハ! だけどよぉ、悪を許せねえって点では、俺様と及川は方向性が一致してんだ。だから心置きなく泣き叫んで許しを乞う連中に鉄槌下せるってもんだろぉ?!」


 亜月は眉間に皺を浮かべて伽藍のビリビリする大声量に白い目を向けた。


「だから、それは悪役の発するセリフなんですよ」



 二人は広告治安局アドガード本部の地下駐車場へ向かっていた。


「で、どこで何が起こったんだ、及川ぁ?」


 亜月は失望したように肩を落とす。


「ハァ……、悪は許せないと言いながら、基本的な情報を何も押さえてないじゃないですか」

「ハッハッハ! 細かいことを気にするな、及川ぁ。おさらいができる機会ってのは貴重なもんだぞ」

「そういうことにしておきます。発生時案は、阿戸市森岡もりおか一丁目、森岡駅周辺の飲食店での広告妨害です。被害広告は幸博こうはくホールディングスの【鉄板焼き屋 金のテコ】……、契約者の栗濱ステファニーが所属する芸能事務所からも通報が入っています」


 二人は地下の駐車場に辿り着く。亜月の声の反響して、何やら緊迫感が増していく。


「広告妨害か。今日は同じ管区内でもなかったか?」

「ありました。阿戸西高校内ですね」

「チィッ、文科省の目が光ってるせいで踏み込めなかったやつか……。ぶっ飛ばしたかったぜ」


 全国の学校を管轄する文科省は、学校内での広告治安局アドガードの活動について難色を示している。現在の文科省のトップが日本広告機構JAAの理事長とは対立する政治派閥に属していることが原因だと巷では言われている。


「暴力で全て解決してるみたいな言い方はやめて下さい」

「容疑者は?」

「三人組の高校生と広告契約のない飲食店の店主とのことです」


 伽藍は再び舌打ちをする。


「無契約者どもが刃向かってやがるのか、身の程知らずめ」

「なんでいつも悪役みたいな言い方になるんですか。彼らなりの主張があるんでしょう」


 亜月の客観的な分析に、伽藍は燃えるような目を向けた。ちょうど彼の乗る車である【フォートレス】の運転席のドアに手を触れたところだった。


「なんだぁ? 理由があれば広告犯罪どうぞとでも言いたいのか、及川ぁ?」

「落ち着いて下さい、隊長。さっさと車出して下さい」


 二人は【フォートレス】というフルサイズSUVに乗り込んだ。


 広告治安局アドガードの車両のイメージカラーであるホワイトとグリーンでカラーリングされた大きな車体は力強く、四輪駆動のパワーは悪路での走行も容易だ。


 世界的な自動車メーカーであるKURODAクロダがアメリカで販売したものを日本用にローカライズしたバージョンが【フォートレス】だ。伽藍の契約している広告でもある。


「車体に傷がつかないからと言って乱暴な運転はやめて下さいね」


【フォートレス】の契約者である伽藍が運転する限り、この車は傷一つつくことはないし、横転することもない。そういう広告デザインであり、それが広告の力というものだ。


「毎度のご忠告ありがとう」


 伽藍は悪戯っぽく笑って、アクセルを勢い良く踏み込んだ。



***



 彼方たちの目の前でブロック塀が弾け飛んだ。


 三人が驚きの声を上げるよりも先に、吹き飛ぶ瓦礫の向こうにホワイトとグリーンの【フォートレス】の車体が現れた。


 その車体には、案の定、かすり傷ひとつない。


 街中を暴走しても問題がないのは、映画やドラマなどの中で正義の名のもとに展開される広告現象──〝作中補正〟が適用されているからだ。


広告治安局アドガードだ!」


 住宅街のど真ん中に絢斗の叫びがこだまする。


「どこ突っ切ってきたん?! めちゃくちゃじゃん!」


 美言が嘆く通り、その車は住宅の角を破壊してタイヤを軋ませながら彼方たちの進路上に横滑りしてきた。運転席のドアが開く。金色の髪をオレンジ色の陽で輝かせた伽藍が降り立った。


 たった今【フォートレス】がぶち壊してきたブロック塀や家屋の瓦礫はすっかり元通りになっている。


「クソガキども、大人しく捕まりやがれ!」


 ビシッと彼方たちを指をさす伽藍とは対照的に、スッと助手席から姿を現した亜月がやれやれというように首を振る。


「本当にこの人はいつも第一印象が悪い……」そして、彼方たちに強い瞳を向けた。「通報を受けて参りました、広告治安局アドガードです」


 彼方は無意識のうちに美言と絢斗を自分の背後に庇うようにして、伽藍たちと対峙した。

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