第8話 賽は投げられた①
肺が焼けるほど走りに走った
「大丈夫か、これ……?」
「弱いのに手出すから……」
「反省してるんだから傷をえぐってくるなよ……」
絢斗が弱りきった様子で頭を抱える。その隣では、さらに深刻そうに肩を落とす彼方の姿があった。
──覚悟してたとはいえ、やっちまった……。終わった……。
彼方の脳裏では、最悪な未来の青写真が次々と描かれていく。
市長の息子である界人を敵に回したことで、街中から追われる身になる。家族とは離散し、この
──享年十五歳……その頃には十六歳になってるといいなぁ……。
絢斗が警察に突き出されるとはいえ、父親の
「彼方、すまん」
深く頭を下げる絢斗を見て、彼方はやるせない思いに駆られた。界人を退けてあの場から逃げ出したことは、何の解決にもなっていなかったのだ。
「いや、謝らないでくれよ……。あの時は俺も必死で、自分が何をしたのか分からなかったんだ」
「ちょっと、二人とも……」美言が明るく声を上げた。「もう終わったことなんだし、メリメリに落ち込まないでよ。なんとかなるってこともワンチャンあるって」
わざとらしくおどけてみせる美言だが、彼女が一番分かっていた。二人の友人を駆り立たせたものが何なのかを。
「ほら! もうすぐ着くよ! 〝やまちゃん〟で気晴らしだね!」
二人の男たちは頭を抱えたままだ。
「飯食えるかな……」
「味しねーだろうな……」
暗澹たる二人の様子に美言は勢い余って、
「あたしが奢るからさ、元気出しなって!」
と彼方たちの顔を覗き込んだが、
「いや、それはダメだ!」
という使命感にも満ちた二人の力強い
「なんだ、元気じゃん……」
〝やまちゃん〟は駅の近くに店を構えて四十年ほどの老舗鉄板焼き屋だ。彼方たちが降り立ったバス停からは歩いて十分ほどのところにある。綺麗とは言えない上にこぢんまりとした外観だが、彼方にとっては思い出の深い店だった。
年季が入った赤い暖簾は紫外線にも当てられて薄く退色してしまっている。その暖簾を腑抜けた顔でくぐり抜けた彼方たちを聞き慣れたダミ声が迎え入れた。
「おっ、彼方じゃねえか! なんだ、辛気臭ぇ顔して!」
彼方の後ろで美言と絢斗が目を合わせた。今朝、教室で彼方にかけた言葉と同じだ。二人はさっきまでの重い空気も忘れて思わず吹き出してしまった。彼方はジロリと後ろを睨みつけて店内に足を踏み入れる。
「ほれ、座った座った!」
鉄板のあるカウンターに陣取り、金属製のヘラをガンガンと鳴らして大将のやまちゃんこと
長年の煙を吸って白い壁紙が黄ばんだ店内には、カウンター席と座敷のテーブル席がある。そろそろ夜の足音が聞こえる時間帯だったが、客の姿はない。彼方にとってはいつものことだ。ここは静かな店だ。大将以外は。
その大将が身を乗り出して彼方の顔を覗き込む。
「なんだぁ? 女に振られたみてえな顔しやがってよ!」
美言が笑う。
「大将、彼方にそんな
「ああ、
わっはっは、と二人が笑いを交わす。絢斗は、ふとさきほどの学校での出来事を思い返して隣の彼方を見つめた。
「だが、気になる女子はいるようだな」
「なんだ! 彼方も男だな!」
嬉しそうに並びの悪い歯を見せる大将に彼方は追い払うように手を振った。
「うるさいな……。そんなんじゃないよ」
彼方は大将の視線を逃れて店内を見回した。
「それにしても、相変わらず閑古鳥が鳴いてんな」
痛いところを突かれたというように大将が自分の額をペチリと叩く。
「おめえは昔から減らず口を叩きやがるなあ……!」
***
彼方がこの店に初めてやって来たのは、小学生に上がる頃だった。父の衛士と公園でたっぷり〝訓練〟した後のことだった。
「衛士も息子を連れてくる時代になったかぁ……! 俺ぁ、涙出ちまうぜ……!」
「大袈裟ですよ」
苦笑いしながら幼い彼方と隣り合ってカウンターに座る衛士の前に、目頭を熱くした大将の顔がやって来る。
「今日はサービスだな!」
「ダメですよ」衛士は店内を見回した。この頃から店は静かなままだ。「ちゃんとお金落としていかないと、俺の憩いの場所がなくなってしまいますからね」
「おう、舐めるんじゃあねえよ! 逆立ちしたってお好み焼き焼いてやらあ!」
二刀流のヘラをぶつけて音を鳴らすと、大将はポーズを決めた。
「逆立ちしたらお好み焼き焼けないじゃん」
彼方が冷静にツッコミを入れると、大将はニイッと歯を見せた。
「なんだ、坊主、威勢がいいじゃねえか! 顔は母ちゃんに似たのか? 名前はなんていう?」
「
「胃袋はち切れるほど食わしてやんよ!」
***
ソースの焼ける香りが店内を満たしていく。
彼方は目の前で出来上がっていくお好み焼きを見つめて、あの頃のことを思い出していた。
絢斗が水の入ったコップで指をさす。
「ほら、女の幻影を見ている顔してる」
「どんな顔だよ。お好み焼き見てんの」
大将はヘラを動かしながら意地悪そうな笑いを上げた。
「思春期ってやつは大変だなあ、おい。あの彼方が色恋沙汰に首突っ込む歳になるとはよぉ」
「だから違うって!」
ムキになる彼方をケッケッケと笑い飛ばして、大将はお好み焼きに青のりと鰹節を気前よくふりかけ、ヘラで切り分け始めた。マヨネーズをかけないところを彼方は気に入っていた。
「これからもおめえたちの下らねえ話聞けたらいいんだけどなあ……」
急に声のトーンを落とす大将に、三人はギョッとしてその顔を見上げた。
「え、なに……、どういうことなん? 真面目な話をしろと?」
美言が苦笑いを混じらせて茶化すような口振りで尋ねたが、大将からはため息が返ってきた。
「ずいぶん前から、近所にできたチェーンの鉄板焼き屋に押されてよぉ……。いよいよこの店も厳しくなってきてんだ」
「大将のお好み焼きうまいのに」
取り分けられて目の前にやって来たお好み焼きに目を落として絢斗が言う。大将は寂しそうに笑った。
「人ってのはよ、うまいからってだけで店を選ぶわけじゃあねえんだよ。存在も知らねえ店には行けねえだろ? チェーン店は広告を打ってるから、客はそっちに引っ張られていくって寸法だ」
──また広告か。
大将との会話で学校でのことを頭の片隅に追いやっていた彼方は、再びこの閉塞した世界に意識を傾けるハメになった。
ヘラを扱う大将の手。長い間、見慣れていたが、日に焼けて皺とシミが目立つのに、彼方はいまさらながら気づいた。それだけ、自分も大将も歳を取ったということだ。
彼方が大将について知っていることは多くはない。
この店は大将が何十年も前に脱サラして始めた。「安い、うまい、早い」という、売りは典型的だが愛される店で、子どもたちがお小遣いを握りしめてやってきても腹いっぱい食べられると有名になったらしい。
当初は奥さんと共に切り盛りしていたらしいが、病気で亡くしてからは独りでこの店を守ってきた。バイトを取らないのは、折に触れて奥さんのことを思い出してしまうからではないかと衛士は言っていた。
「ほれ、お土産だ、持ってけ」
それが大将の口癖だった。パックにぎゅうぎゅうに詰めたお好み焼きやら焼きそばやらを、今しがた食い倒れるほど食べた客に追加料金ももらわずに持たすのだ。
衛士は「江戸っ子気質の最たるもの」と穿った見方をしていたが、彼方には大将がただ目の前の人を楽しませたり幸せにしたりして、見捨てることなどできない人のように映っていた。
「チェーン店の鉄板焼き屋ってことは、ここは競合にあたるってことか」
熱々のお好み焼きを口に運びながら、絢斗がそう言っていた。彼方は思わず拳を固める。
「ってことは、この地域はそいつらの広告のせいで飲食店の露出格差が起こっているのか」
「露出格差……なんだっけ、それ?」
お好み焼きで口をいっぱいにした美言が絢斗に目をやったが、返ってきたのは頼りない言葉だった。
「言葉は聞いたことある」
彼方は呆れてしまった。
「露出格差っていうのは、簡単に言えば、広告の量や質で他の競合の存在を矮小化してしまうことだ。そうなったら、広告のランクなんかで太刀打ちできない競合は競争で苦境に立たされることになる。勝手に
通常、
「そういや、どこかの
大将が手を叩くと、彼方の懸念が現実を帯び始める。
「よく分かんないけど、だからお客さん入らないってこと……?」
美言が結論づけると、大将は胡麻塩頭を撫でつける。
「参ったなあ……。そりゃあねえぜ……」
「そいつらの広告でこの店が割を食ってるのは確実だよ。こうなったら……」
彼方はそこまで口にして、黙りこくってしまった。
「こうなったら……、なんだ?」
大将が首を傾げる。
広告を出そう──そう言おうとした自分に彼方は愕然とした。
彼方にはなんとなく分かっていた。この世界に溢れる広告は全てどこかで実際に起こっている出来事だ。
映像であろうが写真であろうが絵であろうが文章であろうが、広告の中で語られ、展開される以上、どこかの誰かを巻き込むことになる。それは彼方自身がこの
それ以前に、様々な現象を引き起こす広告の強力さのために、広告管理法はあらゆる広告を厳しく管理統制している。
広告の創出も構築も発動も、ビラ一枚配る程度のことにすら認可が必要だ。小さな店を営む大将には経済的にも時間的にも認可を得るのは難しい。
そして、未認可の広告への取り締まりは苛烈さを増すばかりだ。
──「うまいからってだけで店を選ぶわけじゃない」……。カネのある連中が広告を使って知名度を振り撒くせいで、本当にいいものが隅に追いやられて淘汰されていく……。そんなのが正しいはずがない。
大将は職人気質が頑固なところで出てしまう人間だ。
彼方が知る限り、広告の契約は一つもないはずで、それがこの店の状況をより悪くしている。
無契約という状態もチェーン店にとっては好都合だ。
広告同士がかち合えば、
だが、そういった後ろ盾のない大将はチェーン店にとっては格好の的と言える。
頭の中で悶々と思いを巡らせる彼方の耳に店の引き戸の開く音が聞こえた。仕事帰りのサラリーマンらしき二人組の男が暖簾を掻き分けて顔を覗かせた。
「なんだ、お客さん来たじゃん」
美言がホッとしたように自分のお好み焼きを箸でつついた。
彼方たちとひとつ離れたカウンターの席に案内されると、二人組は壁に貼られたメニューを眺めながら思案し始めた。
「なに喰おうかな~?」
「ガッツリいきたいんだよな」
「あっ、分かる。今日はガッツリだな」
すると、突然、二人組のすぐそばに煙が立って、その中からユニフォームとエプロン姿の女性が現れた。
人気モデルの
驚いて目を丸くする二人組に顔を近づけたステファニーは人差し指を立てる。
「ガッツリ食べたいなら! 【鉄板焼き屋 金のコテ】! ですよ!」
「えっ?!」
わざとらしいサラリーマンたちのユニゾン。彼方は血の気が失せる気がした。
──こいつら、人の店で広告を……!
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