第7話 徳川界人という人間について
「
ショートカットの女子が教室の戸口で手をこまねいている。校内履きの色は緑色で、それはすなわち三年生であることを表している。
教室内でのいざこざを【スマイラーズ】で収めた直後の
「なんですか?」
「ちょっとお願いしたいことがあるの。一緒に来てもらえる?」
もともとこの学校の自治に関わる生徒会中枢への関わりを望んでいた界人は二つ返事で小柄な背中の後について行くことにした。
***
「阿戸西高校?」
父親が勧める進学先を耳にした界人は自分の顔が瞬間的に強張るのを感じた。
徳川
そのエリートが自分の進む先を指さしているのを見て、界人は眩暈がしそうだった。
「お父さん、僕はもっと上に行ける!」
阿戸西高校は標準的なレベルの公立高校だ。有名大学への進学率を誇示するほど指導に積極的ではない。
「そんなことは分かってるさ。界人が優秀なのは知っているよ」
征人の言葉が界人には信じられなかった。まるで自分の価値が低く見積もられているような、そんな屈辱を感じていた。
「だったら……!」
「お前が頑張っているのは知ってる。だけどな、視野を広げるためにはそれだけじゃ駄目なんだ」
「言っている意味が……」
界人には分からなかった。必死に思考を巡らせた。
即座に頭に浮かんだのは二つ年下の弟・
父親が弟を自らの〝後継者〟に選ぼうとしているのでは、という悪い予感が界人の身体の中を貫いていった。
時折、自分以上の能力を感じることがある弟に界人は密かに恐れをなしていたし、可愛い弟にそんな劣等感を抱いている自分が嫌いだった。
「頼人は遊んでばかりで、お父さんの後を継ぐ覚悟なんて持ってない」
ずっと父親に実力を認めさせるために勉強もスポーツも学校やそれ以外での交友関係でも〝いい息子〟でい続ける努力を積み重ねてきた。父親の背中を追って、ここまでの人生を突っ走ってきたのだ。
「頼人のことは話してないよ。界人はもっと生々しい日常を経験するべきだとパパは思ってるんだよ」
界人は征人が自分のことを「パパ」と呼んで話すのが苦手だった。子ども扱いされているような感覚に陥るからだ。だから、オウム返しするその声が刺々しいのは仕方のないことだった。
「生々しい日常?」
「界人は広告についてどう思ってる?」
唐突に投げられた質問だったが、界人はすぐに答えを返した。
「世界や人々を豊かにするための存在」
幼い頃から広告治安の安定に奔走する父親の背中を見て、界人には広告が絶対的なものに映っていた。
「それはそれで正解ではあるんだよ。だけど、広告が人々にどう受け入れられ、どんな感情を与えているのか、清濁併せて理解していく必要があるんだよ。特に界人はね」
父親の説明を聞いても界人は理解はできなかった。だが、それを表に出すこともはばかられた。理解力のない人間だと思われたくなかったのだ。それがたとえ肉親であっても。
界人が返す言葉を模索していたところ、場面が突然切り替わった。
それまで父の書斎にいたはずが、一階の広いリビングのソファに腰かけていた。時刻もそれまで夜だったにもかかわらず、大きな窓の外はさっぱりと晴れている。
リビングには、テーブルを囲んで父と母、弟の頼人、そして界人の他にもう一人スーツ姿の若い女性が座っていた。あさか銀行のファイナンシャルプランナーだ。
急な変化だったが、界人は動じることなく状況を受け入れている。なぜなら、これは広告だからだ。
征人が朗らかな笑顔で言う。
「私は息子たちには自分の夢を安心して追いかけてもらいたいんですよ」
ファイナンシャルプランナーはうんうんとうなずいている。【あさか銀行ファイナンシャルプランニング】は、顧客の将来に寄り添うプランニングを提供してくれる。自然と界人も身を乗り出していた。
「僕は父さんの後を継ぎたい。かっこいい父さんみたいになりたいんだ」
その思いの丈を聞いて、家族が温かい微笑みを交わす。ファイナンシャルプランナーの女性が胸の前で小さく拳を作る。
「その夢のお手伝い、させて下さい!」
征人の妻・
「頼りにしてますよ、あさか銀行さん」
広告が終了すると、界人と征人は再び夜の書斎に転移する。征人は微笑んでいた。
「界人の気持ちは嬉しいよ。そのためのサポートもするつもりだ。だけど、今は自分が選択できない環境の中で経験するものを大切にしてほしい。父さんの言っていることを今は理解できないかもしれないけど、いつかこの選択がよかったと思ってくれると信じてるよ」
界人は内心がっかりしていた。征人が主張を曲げなかったこと、やはり自分の能力を過小評価されているのかもしれないという疑いが残ったこと……自分の選択が認められなかったことが彼には辛かった。
だが、父の期待に応えたい、父を理解しているということを示したいという一心でうなずいた。うなずいてしまった。
そして、界人は疑問を抱いたまま阿戸西高校の入学式を迎えたのだった。その頃には、彼の意識は父の言葉の真意を追求するというポジティブなものに微かに変わっていた。
そう思わなければ望まない環境へ足を踏み出すことができなかったというのも事実ではある。
***
「どうぞ入って」
奥平の案内を受けて界人が迎え入れられたのは、生徒会室だった。
「お、来ましたか、市長の息子」
中で待っていたのは、一人の男子生徒だ。早速、奥平が眉間に皺を寄せる。
「ちょっと、
「慣れてますので」
諏訪は悪びれる様子もなく、かけていた眼鏡を指先でクイッとやりつつ、その長い前髪を人差し指でサラリと流した。
「風紀副委員長の諏訪
界人は彼と握手を交わしながら、抜かりなく諏訪の校内履きの側面に走る線の色を確認した。青色……二年生ということだ。
「よろしくお願いします、諏訪先輩」
三人は長テーブルを囲んで椅子に腰かけた。奥平が勿体ぶった様子で咳払いをした。
「早速なんだけど、街で広がっているウワサがあって──」
「委員長」諏訪が手を挙げて遮った。「その前に、〝息子さん〟に言うことあったでしょ」
奥平は「あっ」と声を漏らして口元を押さえた。見る見るうちに耳が真っ赤になる。
「では、改めまして……。徳川くんには風紀委員に立候補してもらいたいの──」
「分かりました」
「──というのも、あなたのお父さまは
「立候補しますよ」
「いいの?!」
渋られるのを想像していた奥平は思いもよらない界人の反応に目を丸くした。諏訪も含み笑いで界人を見つめる。
「さすが、市長の息子は判断が早いね」
「断られるかと思ってたんだけど」
界人は淡々と応える。
「僕ももともと生徒会をはじめとする学生団体に入ることを考えていましたので、問題ありません。それよりも、さきほど言いかけていた〝ウワサ〟というのは何のことでしょうか?」
「あくまで本当にウワサ程度の話なんだけど、街から人が消えているようなの」
不穏な話に界人は息を飲む。
「街から人が……? それなら警察が動いているんじゃ……」
「そこがウワサたる所以なんだよ」
諏訪が前髪を指先で払いつつテーブルに肘を乗せて参戦してきた。奥平が彼に手を向ける。
「諏訪がそういうウワサを聞いたっていうのよ」
「俺の友人から聞いたんだが、知り合いの伯父さんが数日前から姿を消しているらしい。連絡をしても音沙汰なしで、そういう人じゃないんでみんな心配してるっていう話だ。他の家庭でも、飼っている犬が消えたとか、近所の家族が蒸発したとか、そういう話が出回ってるらしい」
界人は顎に手をやって考えを巡らせている。少しして、ゆっくりと頭の中をまとめ上げるようにして口を開いた。
「そういうことなら、警察が動いているんじゃないですかね。ただ、その話を僕に聞かせてくれた理由が分かりません。僕がここに呼ばれたことと関係が?」
「君を勧誘したのは、生徒会風紀委員に箔をつけたいからだよ、市長の息子さん」
ニヤリと笑って答える諏訪を奥平は手で制した。
「もうちょっとオブラートに包むってことを覚えて、諏訪」
「ということは、僕は本当にここに箔をつけるために呼ばれたということですね」
「あ……」
バツの悪そうな顔で冷や汗を流す奥平だったが、それとは対照的に界人は涼しい顔だ。
「そのことと今のウワサが未だに繋がりません。僕の父親にしても、別に警察への指示権を持っているわけではないので」
「そこまで大きな話じゃないわ。徳川くんが風紀委員になってくれるなら、この話を頭の片隅にでも入れておいてもらって、この学校の生徒の安全を守ってほしいの。だって、徳川くんは『ウォッチドッグス』のリーダーなんでしょ?」
「ああ、そういうことでしたか。それなら理解しました。警戒はしておきましょう」
「助かるわ。
「了解しました」
話がまとまったのを合図にしたかのように部屋のドアが勢いよく開いた。風紀委員と思しき女子が血相を変えて立っていた。
「委員長、中庭でラグビー部と男子グループが……!」
奥平は肩を落として溜息をついた。
「新学期開始早々、問題発生ね……」
諏訪はゆっくりと立ち上がった。
「俺は先生に委任の件を伝えてきますよ。中庭の件は任せましたよ、委員長と〝息子さん〟に」
部屋を出て行こうとする諏訪を呼び止めて、界人は言った。
「名前を覚えてもらえるように最善を尽くしますよ、副委員長さん」
諏訪は鼻で笑った。
「お手並み拝見だな」
サッとっと廊下に消えた諏訪を見送って、奥平は苦笑いする。
「本当にごめんね。気が遣えない奴なの。有能ではあるんだけどね」
「大丈夫です。慣れてますんで」
そう答える界人の瞳の奥の影を奥平は目敏く見出したが、あえて口にせずに風紀委員の腕章を近くの棚の引き出しから取り出して身につけた。
「さ、行きましょうか」
***
中庭の騒動の翌日、夕日がわずかに差し込む廃工場にマッシュヘアの男子の姿があった。脂汗で自慢の長い前髪が濡れている。
「す……、すみませんでした!」
黒い服が廃工場の床に落ちた砂とホコリで白く汚れている。マッシュ男子はそれでも廃工場の荒れた床に膝をついて許しを乞うていた。
その相手は漆黒のシャツとネクタイ、スーツ姿の男だ。黒ずくめの男は直立のまま膝をついたマッシュ男子を見下ろしている。
男は冷静な声を落とす。
「自らの行為が
「申し訳ありません……!」
マッシュ男子は顔が汚れるのも厭わず、床に額を押しつける。それでも男にはプレッシャーを緩める気配がない。
「謝罪は見飽きた聞き飽きた。つまらんものばかり見せるな」
「じゃ、じゃあ、どうすれば……!」
男はマッシュ男子の髪を掴んで顔を引っ張り上げると、鳩尾に拳を叩き込んだ。
「がっ……!」
嗚咽を漏らして床にうずくまるマッシュ男子のそばに膝をついて、黒ずくめの男はドスの利いた声を突き刺した。
「契約を維持し続けたいなら、いい子ちゃんでいなきゃならない。分かっているな?」
「わ……わがっでまず……!」
「オレはお前のことをいつも見ている」
冷たい目が近づくと、マッシュ男子は声が出なくなってしまう。
「我々は君には期待をしているんだよ。君が【カップスタイル】を、ひいてはマルダイフーズの名を広く知らしめることを。だが、学校でのことは少々やりすぎたな。競合の広告に手を出したのはいただけない。そんなことをすれば、
「ち、違います……! 精一杯頑張ります……頑張らせて下さい!」
マッシュ男子の必死の声が届いたのか、黒ずくめの男はスッと立ち上がった。そして、マッシュ男子に手を差し伸べると、優しく立ち上がらせるのだった。
「我々としても、今後のマルダイフーズの発展のために君とは良好な関係を築いていきたいのだよ」
「すみません、【カップスタイル】を売り込もうとして一線を越えてしまいました……」
マッシュ男子の濡れた眼に男は笑いかけた。
「その意気やよし。だが、自分の立場をわきまえろ。そもそも、広告は
「はい……」
「話は以上だ。今後も我々
マッシュ男子は汗と汚れにまみれた顔で力強くうなずいた。
「【リダックス】
途端にマッシュ男子を白い光が包み込む。その光が弾けると、マッシュ男子の身体も服も綺麗な状態に変貌した。
衣料用洗剤である【リダックス】の広告効果を発揮する
「こいつは原則解除標準の
また広告現象の中には、もともと原則から外れるものもあり、黒ずくめの男が発動した
「ありがとうございます……!」
「礼には及ばんよ。これからもオレを飽きさせないようにすることだ」
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