第6話 口火
「
自分たちの出会いの思い出を二人で振り返っていると思っていた
「聞いてたのかよ!」
美言は自分の耳を指さす。
「あたし耳めちゃ良いの知らなかった?」
「初耳だわ。耳だけに」
絢斗が間髪入れずに返して、真剣な眼差しを向けた。その瞳は悲哀に満ちている。
「美言、いいのかよ? みんな陰でお前のこと──」
「もういいよ、そんなこと」
美言は顔を背けてしまう。謂れのない非難の視線を受け続けたその華奢な背中を、口を噤んだまま彼方が見つめていた。彼の隣で絢斗が声を上げた。
「よくないだろ!」
彼方は知っている。美言のことになると、絢斗はすぐに熱くなる。美言は身体をびくりと振るわせて絢斗を振り返った。
「な、なに、急に……?」
「髪の色は仕方ねえよ。でも、そんな格好してるから変なウワサが立つんだろ。裏でコソコソしてる奴らに餌を与えてるようなものじゃないか」
どこかで美言の思い詰めたような表情を期待していた彼方と絢斗は、彼女が鼻で笑うのを見て呆気に取られてしまった。彼女は言う。
「別にそれでいいよ」
「なんで!」
絢斗が掴みかからんばかりに叫びにも似た声を飛ばす。
「だって、それは本当の私じゃないもん」
「は?」
「制服崩してヘラヘラしてるあたしがいくら陰口叩かれてても、それあたしの身代わりみたいなもんだから。だから、あたしはノーダメなの」
「でもよ……」
理解を越えた言葉に絢斗は口ごもってしまう。彼方も釈然としない様子だった。
「だからといって、お前が陰でグチグチ言われてるのは気分が悪い」
「あたしは大丈夫だから、あんたらは気にしなくてOKよ」
飄々とした足取りで行ってしまう美言の考えを改めさせる術が彼方にも絢斗にも見つからなかった。彼方は熱くなった絢斗の肩に手を置いた。
「あいつを信じるしかないな」
「分かってるけどな……」
「泣くなよ」
「泣いてねえよ」
苦い顔でうなずく絢斗の視線の先で美言がくるりと振り返った。
「早く〝やまちゃん〟行こうよ~! お腹がベコンベコンだよ~」
二人が返事をしようという瞬間に、横合いから大きな声が響いた。
「おいおいおい!
大袈裟な身振りと必要以上の大音声で彼方たちを指さすのは、今朝教室で絢斗に突っかかってきた男子だった。絢斗は眼鏡に手をやって頭を掻いた。
「ええと、お前は誰だったっけ……」
こめかみに青筋を立てたその男子は自分の胸に手を当てて、一歩踏み出した。
「
「いや、申し訳ない。俺にとってはどうでもいいことだったからつい……」
悪びれる様子もない絢斗に水野は地団太を踏む。
「失礼な奴め!」
しかし、その口角が何かを企んでいることを物語るようにニイッと切れ上がっていく。
「ってことで、こいつら、やっぱり下校途中で店に寄ってなんか食おうとしてんだよ」
そのことを意味ありげに、そして、声高に発する水野の真意を彼方たちが測りかねていると、落ち着いた響きの声がやって来る。
「君たちは問題ばかり起こすな……」
現れたのは、
「問題なんて起こしてない」
「いや、
手にした生徒手帳を掲げて、その内容を諳んじる界人に三人は後ずさりする。界人の隣に大手を振って並ぶ水野は自分の手柄かのように胸を張っていた。
「校則を破るのはよくないよなあ? 教師どもに知れたらどうなるか……。最悪、お前んちが
広告の契約者は社会通念上、好ましい人間であることが望まれている。広告の発動によって
水野の煽りは半分は正しい。しかし、校則を破るという程度ではそこまでの大事になるというわけではないことを彼方は分かっていた。
──つまりあいつ、俺たちへの当てつけとして徳川をけしかけやがったな。
「分かった、分かった」彼方は降参するように両手を挙げた。「寄り道せずに帰ることにするよ」
この場では相手の出方に合わせておけばいいという判断で、彼方は美言と絢斗の腕を取って校門の方へ引っ張るようにして歩いて行こうとした。
「逃げてんじゃねえよ!」
目をつけた相手をとことん追いかけ回したい性分なのか、水野の声が三人の背中を掴んできた。
「無視して行こう」
彼方は小声で言って足を速めた。
彼方にとって、生きづらいこの世界を生きるには、「誰かにとってあるべき自分を演じる」という彼自身が導き出した解にすがるしかなかった。それが父親に叩き込まれた「ルールを守れ」という言葉から彼方が絞り出した教訓だ。
従順で物分かりが良く、人当たりの良い人間……それが彼方の仮面だった。その仮面を脱げる唯一の場所が、たった今、彼が腕を取っている二人の前なのだ。
「知ってんだぞ!」
水野の声が追いすがる。
「
水野は声高らかにそう言い放って美言をビシッと指さした。まるで魔女を断罪せしめるかのように。
その言葉を耳にした絢斗が彼方に引かれていた腕を振りほどいて、ズンズンと水野へ向かって行く。無言で水野の目の前に立った絢斗の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「な、なんだよ……?」
身長差のある強い眼差しに水野の身体は微かに震えた。奥歯を噛み締める絢斗に美言が手を伸ばす。
「絢斗、もういいから、行こ!」
一瞬、息を飲んで握り締めていた拳を開こうとしていた絢斗を水野は笑った。
「へっ、ヤリマン女が呼んでるぞ」
絢斗の拳が水野の左頬にめりこんだ。衝撃と驚きで水野が尻餅を突くと、絢斗は覆い被さるようにして怒号を発した。
「美言の家はずっと大変だったんだ! それでもあいつはバイトして金を家に入れて頑張ってきたんだよ! 何も知らないくせに──!」
絢斗が思いの丈をぶちまけるのを遮るように、界人の静かな声が響いた。
「【ナノウォッシュ】
複数の光の球体が絢斗を取り囲んでギュッと収束する。拘束された絢斗が膝をつく。
「校則を破ろうとしただけでなく、暴行を働くとは。君の身柄は速やかに警察に引き渡すことにしよう」
「ふざけんな……!」
「何してんの、絢斗! あんた弱いんだから……」
「そういうことじゃない……」
そう答える絢斗の背中は頑なだ。
「ちょっと! 絢斗を放しなさいよ!」
駆け寄ろうとする美言に界人が厳しい目を向ける。
「暴行を働いた人間を庇うのかい? 黙っていれば、君の家族の数少ない広告契約に傷がつくことはないよ」
「さっさと警察に突き出そうぜ、こんな奴!」
口の端から細い血の筋を垂らした水野が叫ぶ。
彼方の脳裏に父親の言葉が蘇る。
「社会を受け入れなければ、人は生きていけない。そして、社会に生きるのならば、ルールを守るのは当然のことなんだ」
彼方の父親・
父の言葉を否定したいわけではなかった。
だが、父の、そして母の〝いい息子〟であるために社会に、世界に従順である自分を演じ続けてきた。
その自分と本当の自分が年々ズレていくのが、彼方には苦痛で仕方なかった。
「ねえ、彼方、絢斗が連れて行かれちゃう!」
我に返った彼方の目に涙を浮かべた美言の顔が飛び込んでくる。
──ああ、俺はこいつらとルールを天秤にかけようとしていたんだ。
彼方の心のどこかで彼を縛っていた鎖が外れる音がした。
ゆっくりと界人の前に歩み出る。
「君も僕の邪魔をするのかい?」
すっと伸びてきた界人のその手を取ると、彼方はそれを捻り上げてサッと間合いを詰めた。その一瞬で、界人の背中がアスファルトの地面にぶち当たった。
──制圧術第四章体術第九節……〝
***
「いいか彼方、誰かを守るためには強くならなきゃいけない」
衛士は幼い頃から彼方を近所の公園に連れて行っては、警察で使われる制圧術と呼ばれる近接格闘術を教え込んでいた。
彼方は打撃を受け、絞め技に耐え、投げられて空を仰ぐ日々の中で、その技の数々を身体に染み込ませてきた。
「なんで父さんにこんなボコボコにされなきゃなんねえんだよ……」
砂場に投げ飛ばされたかつての彼方は砂まみれになったまま、大の字で青い空を睨みつけた。それを愉快そうに覗き込むのは、短く刈り込んだ頭を申し訳程度に下げる精悍な衛士の顔だった。
「いやぁ、すまんすまん。だが、手加減はしたんだぞ」
「信じられるかよ、そんなこと……。仕事のストレスを俺で発散してんじゃないだろうな?」
むくりと起き上がって砂の上に胡坐をかく彼方に、衛士は言った。
「ストレスはないわけじゃないが、お前を投げ飛ばしても発散はしないぞ。それに、俺が手加減しなけりゃ、お前は今頃気絶してるはずだ」
彼方は身体の砂を払いながら立ち上がった。
「今のは初めて見た技だな。なんていうの?」
「制圧術第四章体術第九節……通称では〝天地直行〟と呼ばれてる」
「天地直行?」
「虚を突いて相手の身体を地面に叩きつける……。叩きつける時に相手の手を離せば、最悪の場合は死に至らしめてしまうこともある」
ニコリと歯を見せる衛士に彼方は顔をひきつらせた。
「そんなやべえ技、いきなり自分の息子にぶちかますなよ……」
「ハッハッハ、お前がビビるかと思ってな」
「笑ってる場合かよ。母さんに言いつけるぞ」
今度は衛士の笑顔が引きつる番だった。
「バカ、母さんには内緒だって言ってるだろ!」
***
──
界人を地面に叩きつけるその瞬間だけ彼の腕を掴む力を緩めていた彼方は、目の前で界人が意識を失ったのを確認した。同時に、絢斗を拘束していた
「おいっ!」
水野が咎めるように声を上げたが、彼方は睨み返した。
「ルールに従ってさえいればなんでもやっていいわけじゃない。お前は人間としての罪を犯した」
冷徹な眼光に水野は魂を抜かれたようになってしまった。その隙に彼方は駆け出す。
「逃げるぞ!」
彼方が呆気に取られる絢斗の手を引いて校門へ走る。美言が慌ててその後を追った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
気絶した界人のそばでは水野がなす術なく口をパクパクさせている。
「あっ、おい……! なんつーことしてんだ、おいっ!」
***
心配そうに見つめる水野に、目覚めた界人が尋ねる。
「一体何が……?」
「藤堂の奴にやられたんだよ。大丈夫かよ?」
「彼らは?」
「逃げた」
界人は頭を振りながら身体を起こすと、湧き上がる憤りに震えた。
「
その燃える瞳を前にして、水野は何も言えなくなってしまった。
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