第5話 ターニングポイント

 身を翻した謎の少女、その長い黒髪がなびくさまが彼方かなたの脳裏に焼きついていた。学生棟の部室へ戻るさなかも、彼方はずっと名前も知らないその人のことについて頭の中で思いを巡らせた。


「なんか、彼方が抜け殻ってんだけど」


 美言みことに小声で身を寄せられると、絢斗あやとは眼鏡をクイッとやる。


「あんなことがあって、彼方なりに反省してるんだろ」


 中庭での騒動は、今後、彼方が交わすであろう広告の契約に影響を及ぼす可能性のある出来事だった。そして、広告の契約は家族をはじめとした周囲の人々を巻き込んで社会的立場を左右する大きな要因だ。それ一つで自らの命を絶つ人がいることも事実である。


「彼方の考えることは分かんないねえ……」



***



 学生棟、映画研究会の部室に舞い戻った彼方は、バッグの中からノートを引っ張り出して記憶を頼りにさきほど見かけた少女の絵を描き始めた。三十秒ほどで描き上げた絵を二人に掲げて、彼方は尋ねた。


「この子、見たことあるか?」


 ノートの上に踊るその絵を見つめて、絢斗は眼鏡をかけ直した。


「……イカの化け物か?」

「イカの化け物を『この子』なんて言わねーよ」

「レジェンド的に下手すぎて無理」


 美言が肩をすくめて、床に置いたままの自分のバッグを拾い上げる。


 ──この子を探し出して話を聞かないと。


 イカの化け物みたいな絵に目を落として、彼方は決意を新たにした。彼にとっては、あの少女は孤独な世界に差し込んだ一筋の光芒だった。


「彼方が女の子に興味持つなんてね」


 事情を察したらしい美言がニヤリと口の端を歪めた。絢斗はギョッとした顔で彼方の手元に指を向ける。


「こんな化物みたいな女子がいたら、さすがに俺の耳に入ってると思うぞ」


 彼方はため息を返すと、気を取り直すように笑顔を作った。


「〝やまちゃん〟行こうぜ」

「おっ、いいねえ~。あたし今日はバイトないからOKよん」


 美言が満面の笑みで応えると、絢斗は二人を鼻で笑う。


「お前ら、学生手帳読んでないのか? 登下校中の買い食いするのも飲食店に寄るのも校則で禁止されてるぞ」


〝やまちゃん〟は三人の行きつけの鉄板焼き屋だ。彼方は苦い顔で顔を背ける。ルールに心を乱されたばかりで、神経質になっているのだ。彼と対照的に、美言は頬を膨らませた。


「いいじゃん、別に。やわいこと言いなよ」


 硬いこと言うな、ということらしい。


「それに、本当はバイトも校則で禁止されてるんだぞ。あまりバイトしてるって言うなよ」

「わかった、わかった。お口縫いつけとく。さっ、行こ!」


「いいのか?」


 絢斗の眼鏡が光る。


「新学期の勝負はもう始まってるんだぞ」

「新学期の勝負ぅ~?」


 急に抑揚のある声を上げた美言を振り向いて、彼方は悟った。


 ──CM入りやがった、こいつら。


「【正光せいこう塾】は個別指導が充実してるから、一人一人の目標に合わせて学習プランが選べるんだ。それに、大手予備校出身の講師も多数在籍してるからサポートもバッチリなんだ。受験は高一から! まわりに差をつけるには今始めるしかない!」


 目を輝かせて訴える絢斗を彼方は冷めた目で見つめる。


 ──情報言うだけのつまらないCMだな。さすがは一般広告。


「うん、私、はじめる!」


 キャラに合わない爽やかな美言のセリフ。着崩していたはずの彼女の制服がいつの間にかまっさらなものに代わっていた。地毛だった明るい髪の色まで黒く染まっている。


 ──美言のやつ、CMの世界観に強制されてら……。


 彼方はハッとした。二人の視線が自分に向いている。彼方の脳裏には、


 未来で笑おう。


 というキャッチコピーみたいな文言が浮かんでいる。二人の親友の視線が、そのセリフを欲しているのも分かっていた。彼方は苦悶の表情で刹那の時間に考えを走らせた。


 赤の他人に水を向けられることは、これまでの彼方の人生の中でも数えきれないほどあった。そのたびに辟易としながらも応じてきた。その相手が親友となると話は別だ。


 じっと見つめる四つの瞳。彼方には時間がなかった。



 広告が適切に運用されるために、社会には強固な監視体制が敷かれている。正式に認可された正規の広告契約は全て国の管理下にあり、広告の発動状況などは常にモニタリングされる。


 広告管理法に違反するような状況が発生した場合には、自動的に広告監視機関AMAに通達、広告治安局アドガードが出動することになる。


 広告管理法では、いかなる形であっても展開された広告を中断せしむることを禁じている。


 このまま彼方が沈黙を続ければ、広告管理法を破ることになる可能性がある。それによる影響は、両親に及ぶだろうことは彼方の想像に難くない。温かく見守ってくれている両親の顔が瞼の裏に浮かび上がる。



「未来で笑おう」


 作り笑いでそう言った彼方は、ざわめいた胸を押さえて俯いた。何もない部室の一角に三人揃って顔を向ける。


 その瞬間に、どこかの大学のキャンパスに三人の身体が転移した。爽やかなそよ風に包まれる中、


「受験に力を。正光塾」


 と力強く言い放った。


 正光塾の広告が終わりを告げると、三人の身体は阿戸あど西高校の学生棟、映画研究会の部室に一瞬で戻っていた。美言の様子も元通りだ。広告現象の原状復帰の原則である。


 いそいそと部室のドアへ向かう美言と絢斗の表情を窺いながら、彼方は恐る恐るもう一度提案を投げた。


「〝やまちゃん〟行こうよ」


 振り返る二人は、まるでそのお誘いを初めて聞いたように目を丸くした。


「お~、いいじゃん! お好み焼き食べよ」


 小躍りする美言を諫めるように絢斗が首を振る。


「いやいや、校則で禁止されてるの知らないのか?」


 ──さっきの会話がなかったことになってる……。


 正光塾の広告によって、二人には寄り道する欲望に抗う精神が宿ったのだ。広告は発動の前後でそうやって人々の意識を変える力を持っている。


 彼方は拳を握りしめた。ただ二人の心を広告世界から引き剥がしたい一心で、言い合う二人の間に割って入った。


「さっきの中庭の件で空気悪くしたから、今日は俺が奢るよ」


 美言の目が輝く。


「その発言取り消し禁止だよ」

「彼方がそこまで言うなら仕方ないか」


 絢斗も気が進まない振りをする。子どもの頃から悪さを共にしてきた仲だ。その秘密を共有するような悪戯っぽい笑みに、彼方は救われるような気がした。


「あたしキムチチーズにしようかな~」

「俺が奢るんだからちょっとは気つかえよ」

「オヤジさんに会うの久々かもな」


 笑い合う三人を廊下の角から盗み見る人影があった。


 今朝、絢斗たちが教室でやりあった男女グループを率いていた、誰もその名前を知らないリーダーだ。



***



 校門へ向けて足取り軽く先を行く美言の背中を見つめながら、絢斗は小さく呟いた。


「あいつ、ああいう身なりだから舐められてるのかな」


 着崩した制服、短いスカート、明るく茶色い髪。すでに一部の教師からは目をつけられており、問題児扱いされている。彼女の髪の色は生まれつきのものだ。だが、それが理由の一つで彼女は白い目で見られてきた。


 いじめられ、陰で「ビッチだ」「ヤリマンだ」などと言われるたびに、彼女の出で立ちはより挑発的に変貌していった。その理由が分からないまま、そして理由を訊けないまま、彼方も絢斗も高校生になってしまった。


 彼方と絢斗は三人が出会ったあの日のことを思い返していた。



***



「なに見てんだよ、ビンボー女!」


 三人組の悪ガキが小さな公園の砂場に小学二年生だった美言を蹴り飛ばした。小さな悲鳴を上げてランドセルから砂地に背中をついた美言に、悪ガキたちの心ない言葉が浴びせられる。


「死ね!」

「出来損ない!」

「消えろ!」


 砂を固めた塊を次々と投げつけられ、明るい茶色の髪が砂まみれになる。


「待てい!」


 遠くから細い怒号が飛んでくる。悪ガキたちが目を向ける方に眼鏡をかけた小さな少年が立っている。幼い日の絢斗だった。背が伸びるには中学二年生まで待たなければならない。


「なんだ、てめえ!」


 一斉に砂の塊を投げつけられて、絢斗は涙目になって頭を庇った。その隙を突かれて間合いを詰められた絢斗は、容赦なく殴る蹴るの暴力を受けるハメになった。


 ──痛い……! でも、我慢しなきゃ、格好がつかない……!


 暴力の勢いに耐えつつチラリと砂場の方を一瞥する絢斗は、砂場にへたり込んで声もなく涙を流す美言の姿に心も痛めた。


 同じクラスの美言のことを絢斗はよく知らなかった。いつも小汚い格好で、クラスの輪から外れたところで一人寂しそうにしていた。彼女の事情には詳しくなかったが、家庭が良い状況でないことくらいは絢斗にも分かる。


「いでっ!」


 悪ガキの一人が投げ飛ばされて、苦悶の声を上げた。その腕を捻り上げて立っているのが、たまたま通りがかった彼方だ。


「なに弱い者いじめしてんだ、卑怯者」

「弱い者って……!」


 反射的に言い返そうとする絢斗の目の前で、彼方はするすると流れるような動きを見せ、残りの二人を背中から地面に叩きつけた。


「いってぇ……!」


 音を上げる悪ガキ三人を鋭い眼で見下ろして、彼方は仁王立ちした。


「もっと痛めつけてやろうか?」


 悪ガキ三人はパッと飛び起きて、捨てゼリフを残すことも忘れて一目散に公園から逃げ出していった。



「あ、ありがとう……」


 泣き腫らした美言とボロボロの絢斗が揃って礼を言って頭を下げた。彼方は気が引けるように手を振る。


「いや、いいって。弱い者を助けるのは当たり前のことだから」

「その弱い者ってやめろよ!」


 絢斗は顔を真っ赤にして彼方に詰め寄った。だが、彼方は悪びれる様子もない。


「だって、お前弱いじゃん。あんな奴らにやれてるようじゃ、誰も守れないぞ」


 目の前であんな技を繰り出されたせいで、絢斗には返す言葉もなかった。


「お前強いんだな。なんだよ、さっきのは?」


 彼方はニヤリと笑って鼻の頭を人差し指で擦った。


「父さんに教わったんだ。制圧術ってやつだ」

「はえ~……、すげえな~」


 得意げに胸を張っていた彼方だったが、全身砂で汚れた美言に気づいて心配そうに声をかけた。


「お前は大丈夫か? 帰ったら怒られないか?」


 美言は寂しそうに、そして卑下するように笑みを浮かべた。


「別にあたしのことなんか気にしてないよ」

「そんなことないだろ……」

「あたしと関わらない方がいいよ」


 ランドセルを背負い直して立ち去ろうとする美言の腕を彼方は強く掴んだ。


「変なこと言ってくるような奴なんか気にするなよ」

久世家ウチは広告ないんだよ」


 彼方の手を振りほどいてそう告げる美言の口振りは、まるで縁を断ち切るための免罪符のようだ。だが、この世界のおかしさに気づき始めていた彼方にとっては、意味のない告白だった。


「だからって何やってもいいわけないだろ」


 美言は目を丸くした。生まれてから一度も触れたことのない考え方だった。そんな美言に彼方が手を差し出した。


「俺は二年一組の藤堂とうどう彼方。お前は?」


 美言は差し出された手をおずおずと握り返した。


「に、二年三組の久世くぜ美言……」


 それが三人の絆の始まった瞬間だった。氷がじわりと解けるように微笑む美言。それを見つめ返す彼方。


「あの、俺もいるんだけど」絢斗が慌てて二人の間に割って入る。「俺は西尾にしお絢斗。俺も二年三組」


 彼方はじっと絢斗を見つめた。


「お前、美言の友達?」

「いや、今日初めて喋った」

「じゃあ、なんで一緒にいたんだ?」

「いや、それは……」

「美言の後をけて来たのか?」

「ちっ、ちげーよバカ!」


 うわずった声が公園に響き渡ると、彼方と美言はおかしくなって笑い声を上げた。


「わ、笑うなよ!」


 それは葉桜がそよ風に揺れる頃のことだった。

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