第3話 日常に潜むもの
生徒たちから早速、〝おじいちゃん先生〟と呼ばれている教師が指先をペロリとひと舐めして、公共の教科書のページをめくった。
「まあね、みんなもね、分かってると思うけどね、広告ってのは現代社会を語る上では絶対に外せないポイントなわけなんだよね。だからね、こうして公共の科目で取り扱わないといかんわけ」
教室はしんと静まり返っている。抑揚のないおじいちゃん先生の催眠音声と黒板を叩くチョークの音がその中をゆったりと流れていく。
「現代社会はね、人間が広告というものを管理し始めてからのことを指すっていう考え方もあるんだよね。そもそもはね、日本じゃね、『
教室の後方の席からはあくびの音もちらほらと聞かれる。それらの音に紛れて、教科書を壁にしてなにやらコソコソとスマホをいじっている男子連中の姿もある。彼方は遠い席の
「広告の契約に応じてね、
彼方は広告について記載されている公共の教科書に目を落として、口をへの字に曲げた。
──優れた人間が広告にありつける仕組みのせいで、誰もがみんな広告を絶対的なものだと思い込まされてるんだ。教育で洗脳してるに違いない。
彼方が自らの不信感を確かめるすぐそばで、男子が大口を開けてあくびをかました。その瞬間、教壇のおじいちゃん先生の目がクワッと見開かれた。
「こりゃあああああああ!!」
おじいちゃん先生の灰色の髪が逆立って、スパークを帯びている。目を丸くした教室の生徒たちを、燃えるおじいちゃん先生の目が見渡す。
「授業を真面目に聞かんかい!」
前方の真面目そうな生徒が手を挙げる。
「先生、眠くて仕方がありません」
「なにぃ? これでも食らえ!」
おじいちゃん先生の手の中から青地に黄色の稲妻が走ったようなパッケージが現れる。【スーパーすっぱグミ】だ。
おじいちゃん先生が教壇の上に飛び乗って、大袈裟なフォームでグミを投げ放つと、さきほどあくびをした男子の口の中にダイレクトに【スーパーすっぱグミ】が飛び込んでいった。
次の瞬間、その男子の耳と鼻から白い煙が噴き出し、スパークして髪の毛が逆立った。満足げなおじいちゃん先生が教壇の上で残像を伴うほどの超スピードで教室の生徒全員の口に【スーパーすっぱグミ】を放り込んでいった。
口の中に飛び込んできた強烈な酸っぱさを持つグミに、彼方も他のクラスメイトたちも「ふぉおおおおおお!!」と叫び、おじいちゃん先生の授業に没頭することになる。
「広告はね、すごく影響力があるんでね、広告管理法っていう法律で行動規範が示されてるんだよね。で、その広告治安を守るための組織が
滔々と語り続けるおじいちゃん先生のせいで、慌てて板書をノートに取る生徒も少ない。彼方の席からは相変わらずコックリコックリやっている絢斗の姿が見える。
おじいちゃん先生の目が光る。
「こりゃあああああああ!!」
おじいちゃん先生の灰色の髪が再び逆立って、バチバチとスパークを帯びる。彼方は肩を落とした。
──また同じCMかよ……! 芸のないジジイめ、CMのバリエーションねえのか!
「このスーパーサワーパウダーの威力を味わうがいい!」
そう叫んで教壇に飛び上がった狂気の教師はさきほどと同じように教室の生徒の口という口に【スーパーすっぱグミ】をぶち込んでいく。ぶち込まれたそばから生徒たちが髪を逆立て、バチバチと電気を迸らせる。
彼方は酸っぱさのあまり顔面をしわくちゃにして机の上に突っ伏した。
──このペースでやられたら身体と心がもたん……。
おじいちゃん先生による二連続【スーパーすっぱグミ】の恩恵か、公共の授業の場からは眠気が去っていった。ところが、その影響でクラスのやんちゃ連中がおしゃべりを始めた。
「ファフニールキングだと属性相性がさ……」
「ドラゴンナイト召喚だ」
「ゾンビロードが暴走したぞ……」
やんちゃ連中はおじいちゃん先生の目を盗むようにスマホをいじっている。その中の一人が思わず立ち上がって叫んだ。
「やばい! アトラク・ナクアに襲われた!」
教室の窓が一斉に弾け飛んで、校舎の外から巨大な化物が突っ込んできた。やんちゃ連中がスマホを片手に各々のモンスターを召喚し始める。ドラゴンやら巨大な甲冑やらが教室内に現れて、壁も天井も崩れていく。
「ウオッホン!」
おじいちゃん先生が盛大に咳払いをする。モンスターをアトラク・ナクアにけしかけようとしていた生徒たちが顔を引きつらせた。
「君たち……」
おじいちゃん先生が険しい表情を向ける。生徒たちが生唾を飲み込んで身構える。
「ボクも仲間に入れて~!!」
あらかじめ机の下に避難していた彼方は、呆れてしまう。
──注意すべき大人が一緒になって楽しむパターン、目が腐るほど見たわ。
おじいちゃん先生はにっこりと笑って【サモナーズ・ウォー】が起動しているスマホを掲げると、巨大なドラゴンを召喚した。
ありがちな展開に、彼方は呆れ果ててしまった。彼の脳裏には、【サモナーズ・ウォー】が大人気アニメの『
──キャラの名前出されても知らねーよ。こいつら、いつも何かとコラボしてるな。
広告が終わると、モンスターたちは煙のように消え去って、破壊された校舎も時が巻き戻るように瞬く間に元の状態に回復していった。原状復帰の原則だ。その仕組みを誰も説明できないのが、現在の科学の限界だ。
***
初日の授業が終わり、彼方と絢斗と
「げっそりとした顔してどうした、彼方?」
ボロボロの革のソファに身を投げ出した彼方はホコリを巻き上げて咳き込んだ。
「高校生活張りきろうとしたんでしょ。彼方らしくもない」
美言がグデーッと横になる彼方を鼻で笑う。溜め息をつきながらボロボロのソファに座り直した彼方は、絢斗を睨みつけた。
「お前、あんなこと言われて悔しくないのかよ?」
今朝、絢斗の契約していた広告が笑われたことを彼方は蒸し返していた。
「過ぎたことだ。それに、俺の【
「だから、そうやって広告レベルを理由にあんな難癖つけられておかしいと思わないのか?」
絢斗と美言は顔を見合わせて苦笑した。
「世の中って、そういうもんだよ」
子どもを諭すような美言の声に、反論しようとしていた彼方はその気力を削がれてしまった。熱を込めて訴えるほどに、二人の心が離れていくような芯から凍る空間に身を投じるほど今の彼方には体力もなかった。
美言は眉尻を下げていた。
「朝に突っかかって来た男子には気をつけた方がいいかもねぇ」
「名前なんだったかな?」
初日のホームルームで自己紹介があったはずだが、絢斗は首を捻った。
「あんたが男子の名前憶えられないだけでしょ」
「失敬な。お前は憶えてるのか、美言?」
美言はパン、と手を叩いた。
「さ、研究会の活動を始めるよん」
「無視するなよ」
彼方は二人のやりとりを微笑ましそうに見つめ、それから部室のドアに嵌る窓に貼りつけられた紙へ目線を投げた。綺麗な毛筆の字で「映画研究会」としたためられている。
彼方が「新しい部活を作る」と言って美言と絢斗を教室の自席に手招きしたのは、つい昨日の帰りのホームルームが終わった頃のことだった。
「なに、高校でも何か始めんの?」
美言が呆れたように尋ねる。つい数か月前に卒業した中学校でのことを遠い日々のように思い出して、絢斗は微笑んだ。
「俺たちが卒業して中学校から〝探偵愛好会〟が消滅したらしい」
「ああ、三年間、俺たちしかいなかったからな」
しれっと悲しげなことを言う彼方の目を美言が覗き込む。
「高校でも〝探偵愛好会〟やんの?」
「いいや。美言、この紙に俺が今から言う文字を書いてくれ」
「なんであたしが……」
「習字やってただろ」
美言は頭を掻いて、溜息をついた。
「……ったく。習字道具探してくるわ」
教室を出て行く美言を見送る絢斗の視線を一瞥して、彼方は呟く。
「俺らの中学出身の奴らが美言のウワサを流してるらしい」
絢斗は頭を掻き毟った。苦々しい表情から悔しさが迸る。
「美言の苦労も知らないで……」
憤りを顕わにする絢斗の隣で、彼方は瞳の中に炎を燻らせていた。彼も美言の置かれている状況に怒りを覚えずにはいられないのだ。
「それもこれも、元を辿れば広告が存在するせいなんだぞ。それでもお前は広告ってものを受け入れられるのかよ」
「またそれか……」絢斗は残念そうに応じる。その眼は悲しげでもある。「美言のことと契約のことは別物だ」
「よく考えろって、絢斗。美言の悪いウワサを流してる奴らは──」
「ほ~い、習字道具かっぱらってきたよん」
教室のドアを勢い良く開けて美言が戻ってきた。今しがた話した内容のせいか、彼方たちには教室に残る何人かの生徒たちが美言に向ける目が冷ややかに感じられた。新高校一年生らしい大人しい出で立ちのクラスメイトたちと比べれば、美言の茶色い髪と着崩した制服、短すぎるスカートは目立ちやすい。
二人の友人の微かな変化に、美言は目を丸くした。
「なに臭い顔してんの?」
彼方の眉毛がピクリと反応する。
「なんだよ臭い顔って」
美言はたった一言だけを返した。
「辛気」
「伝わるか!」
彼方たち自主活動の集まりがこの学生棟に部室を得ることになったのは運の巡り合わせにすぎない。毎年、学生棟の空き部屋を巡って、自主活動の抽選会が行われる。ギリギリでそのタイミングに滑り込んだ映画研究会が倍率およそ六倍の部室使用権を勝ち取ったわけだ。
バッグをごそつかせる絢斗のそばで美言が首を捻っている。
「昨日訊きそびれてたんだけどさ、なんで映画研究会なん?」
「この学校になかったから」
「え、それが理由? 尖ってんねえ」
「そこで、だ」さっきまでバッグに顔を突っ込んでいた絢斗が横合いから口を差し挟んだ。「これを見ろ」
彼の手には小型のカメラ【
「映画研究会の話をしたら姉に持たされたんだ。弟からは『ショート動画作ってバズらせろ』と言われた」
絢斗にじっと見つめられて、美言は警戒心マックスの表情で自分の両肩を抱いた。
「あたしはチャラついた激寒ダンスなんかやらんよ」
「そこまで言うか」
彼方は二人のやりとりを眺めながら自分の胸の中に芽生えた疑いに目を向けていた。
──動画を撮るならスマホで十分なはず……。絢斗はなんで【
青春の一ページを切り取ったような、一見広告に見えない広告も多い。【
と、そこまで考えを巡らせていた彼がハッと息を飲んでガクリと肩を落とす。
──なんで絢斗たちを疑ってるんだ、俺は……! 最低だ……。
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