第2話 ジレンマ

「朝から終わり顔してんねぇ」


 教室に入るなり、真新しい制服をすでに着崩した明るい茶髪の女子が声をかけてきた。彼女は久世くぜ美言みことだ。小学生以来の彼方かなたの友人の一人である。


「終わり顔ってなんだよ?」


 良い意味ではなさそうな言葉にやり返す彼方だが、その表情は学校へやって来る道中よりも柔らかい。


「この世の終わり顔」

「もう一度訊くわ。この世の終わり顔ってなんだよ?」

「朝っぱらから辛気臭い顔してるということだぞ、彼方」


 長身に黒縁眼鏡をかけた男子が彼方の肩に手を置く。西尾にしお絢斗あやと。美言と同じく彼方の小学生以来の友人だ。


「これが俺の元々の顔なんだが、失礼すぎんか?」

「だったら絶対モテないよ」


 美言の辛辣な一言も、彼方にとってはちょうどいいスパイスみたいなものだ。


「モテるためにここにいるわけじゃないっつーの」


 絢斗が彼方の前に顔を突き出す。


「喜べ、彼方。今年の阿戸あど西高には可愛い女子が七人いるというウワサだ」

「だから、モテる気はねーっつってるだろーが」彼方は躊躇いなく絢斗の顔面を掴んで突き放す。「それもウワサじゃなくてお前が勝手に調べたんだろ」


 素知らぬ顔をする絢斗を美言が親指で指さす。


「こいつ、またキモいファイル更新してたよ」

「キモいファイルとはなんだ。この学校の生徒の情報収集をしていただけだ。その中に女子が多いというだけのことだ」


 やり手の男みたいに眼鏡を指先で直して、絢斗は静かに微笑んだ。彼はスケベ心を胸の中にしまうのが好きらしい。


「それにしても、高校までお前らと一緒だとは」


 彼方が吐息をつくと、二人も同じように感慨深い表情を浮かべる。


「ゴリンゴリンの腐れ縁ってやつだねぇ」

「ゴリンゴリンだと腐ってる感じしないぞ。ベロンベロンの方が腐ってる感がある」


 絢斗の下らない指摘に美言はノールックで返す。


「うるさい。脳味噌下半身男め」

「そんなこと言っていいのか、美言さんよ」


 手のひらの中で光るロゴを一つ浮かび上がらせて、絢斗は鼻高々と口の端を歪める。


「あっ、バカ……」


 彼方が制する手を伸ばそうとする後ろで、嘲笑する視線をこちらに向ける男女グループが声を上げた。


「低級の広告見せびらかすなよ」

「ざ~こ」

「やめなよ~、かわいそうじゃ~ん」


 ケラケラと笑う連中を睨みつけて、美言は彼方と絢斗の腕を引っ張って教室のベランダへズンズンと歩いて行った。


「うるさい奴らがいんだから、むやみに契約印見せるな」


 美言にすごい形相で迫られると、絢斗は頭を掻いて謝った。


「すまん、つい……」


 美言は目を細める。疑いの眼差しだ。


「でも、あんたが契約者に……? 世も末だねぇ」

「【正光せいこう塾】だぜ。頭良さそうに見えるからな、俺は」


 自画自賛する絢斗だったが、美言は軽く彼の尻を蹴った。


「リアバカのくせに」

「なんだ、リアバカって」

「リアルにバカ」



 広告の発動には契約が必要だ。そして、その契約は日々の生活やその人となりが評価されて広告主スポンサーによりもたらされる。


 そして、世の広告を一手に管理するのが公法人のJAA──Japan Advertising Agency(日本広告機構)だ。その出先機関であるAMA──Advertising Monitoring Agency(広告監視機関)が、実際の広告の監視や管理を行っている。


 広告主スポンサーは基本的に広告監視機関AMAの承認を得て広告活動を行ったり、契約者との契約を交わしたりしている。その活動がこの世界の経済を活性化し、人々の生活や技術の発達に貢献している。


 契約者に相応しい人間のもとには、広告主スポンサーから広告の契約通知がやって来て、承諾をすれば晴れてその広告の契約者となる。



 絢斗の初めての契約に美言は彼女なりの祝意を示していた。しかし、口では「おめでとう」と言いつつも、そんな二人を見る彼方の表情は暗い。


 ──契約に足る人物だと評価されるということは、日常生活の全てを広告監視機関AMA広告主スポンサーに監視されているということだ。



「終わり顔だな」


 ベランダの手すりに肘をつく彼方の隣に絢斗がやって来る。


「終わり顔だねぇ」


 美言が同調しながら絢斗の反対側で手すりに背中を預ける。第二ボタンまで外したシャツの首元が白く映える。


「またあの話か?」

「いや、なんでもないよ」


 彼方はそう呟いて教室の中へ戻っていった。二人はその背中を見送って、目を見合わせる。彼方の背中はどこか寂しげだ。



 初めてその話をした六年前の美言と絢斗の表情を、彼方は今でも鮮明に思い出すことができる。まるで一度も聞いたことのない言葉を耳にしたように、二人は呆気に取られていた。


「みんなおかしくないか? 揃って転職サイトの名前叫んだり、空飛んだり、でかい怪獣が出て来ても、〝それ〟が終わったら何事もなかったみたいな顔してんだぜ」


 両親にすら言えなかったこの世界への疑問だった。だから、意を決してひと気のない河川敷で、彼方は二人に幼い頃から抱いていたモヤモヤを吐き出したのだ。


 夕陽を受けて反射する絢斗の眼鏡の奥で、その無垢な瞳が真っ直ぐと彼方を捉えていた。


「何の話してんの?」


 美言の明るい茶色の髪が風に揺れる。


 ──分かってないのか……?


 いくら彼方が熱を込めて説明をしても、二人はキョトンとした表情を崩さない。その時、彼方は孤独を噛み締めた。たとえ心を許せる友人がそばに居たとしても、分かり合えないことがあるのだ。


 彼方はそれから折に触れてこの世界のおかしさを二人に打ち明けてきたが、未だに理解は得られないままだ。その話をする度に、彼方の孤独の色は濃さを増してきた。


 今では、二人にすら心の内を曝け出すのを思い留まってしまう。彼の心は今や爆発寸前の火薬庫だ。



 教室に戻った美言と絢斗の前に、さきほど嘲っていたグループが立ちはだかる。蔑むような目でグループを率いる男子が絢斗を見つめた。


「おい雑魚、お前調子に乗ってんじゃねえのか」

「やめてあげなよ~」


 後ろで悪戯っぽく笑う女子が美言にも冷たい視線を突き刺すと、絢斗は美言を自分の後ろに回らせて鋭く睨み返す。


「いきなり喧嘩ふっかけてきたのはそっちだろ」


 美言が絢斗の耳元で囁く。


「あんた弱いんだから、喧嘩買うのやめなって……」

「別に勝とうと思ってるわけじゃない」


 グループを率いる男子が訝しむような眼差しを向ける。


「なんだよ。雑魚広告でその女を引っかけたのか?」


 後ろの女子たちが蔑んだ笑い声を漏らす。美言を見る彼女たちの眼には、誰の目にも明らかな軽蔑の光が宿っている。痛いほど心当たりのあるその刺々しい感情に触れたことで、絢斗は奥歯を噛み締めて一歩踏み出した。


「言いすぎだろ、お前!」


 彼方はそっと教室を見渡した。いざこざを興味深そうに見つめる者、グループを率いる男子に加勢しようとする者、野次を入れる者、関与しないように努める者、不快感を眉間の皺に刻み込む者……反応は様々だ。



 広告は人々を豊かにしつつも、差別意識を芽生えさせた。


 広告にはランクがつけられている。上から順に、金剛級、特級、一級、二級、三級、それ以下が一般広告と呼ばれるランク外のものだ。それ以外に特殊な零級というものも存在する。つまり、広告には優劣が間違いなく存在している。


 となれば、より上級の広告の契約者やその関係者であれば、下級の広告やその契約者に対して優越感を持つのは自然なことだ。実際に上級の広告は下級のものよりも重要視されている現実があるのは、誰もが知るところだ。



 友人が争いの渦中にいながらも、彼方は立ち上がることができなかった。彼の心には燻る炎が渦巻いている。


 ──こんな世界は間違っている。


 燻る炎をかき混ぜるような記憶が彼方の脳髄を昇ってくる。父親の衛士えいじの言葉だ。


「社会を受け入れなければ、人は生きていけない。そして、社会に生きるのならば、ルールを守るのは当然のことなんだ」


 当たり前のこととして、幼い頃から繰り返し聞かされた言葉だ。それは刑事として働く父親の矜持のようなものだった。幼いながらに、規範を体現したような父親だと彼方は感じてきた。



 争い、差別、友人の危機、父の教え……、それが混然一体となって、一触即発の空気に満たされた教室の中で勢いよく立ち上がろうとした彼方の耳に、スッと刃を抜くような声が横からカットインする。


「みっともないことはやめなよ、君たち」


 教室が一気に静まり返った。


 現れたのは、前髪をさっぱりと上げた黒髪にスタイルの良い長身の男子生徒。このクラスの一員にして、ごく普通の高校生活を送らせたいという父親の意向から公立の高校に入学した阿戸市市長の息子、徳川とくがわ界人かいとだ。入学生代表として、先日の入学式でも登壇してスピーチを行った。


「これでも食べてさ」


 界人の手に握られていたのはアメリカ発のチョコレートバー【スマイラーズ】だ。受け取ったパッケージのロゴが見えやすいように握りしめた絢斗と美言、そして彼に突っかかって来たグループの面々は、合図でもされたように一斉にチョコレートバーにかぶりついた。


 チョコレートバーをかじった全員がもれなく恍惚の表情を浮かべたかと思えば、教室の中がイメージカラーのイエローで満たされていく。


 ──しまった。ダンスものだった……!


 彼方が教室から抜け出す間もなく、教室にいた全員が黄色い衣装に身を包んで列をなし、きびきびとしたダンスをどこかの一点を見つめて踊り出す。


 彼方も泣く泣くダンスの列の中で、なぜか身体に染みついたかのような身のこなしを見せつけていた。その最前列にいるのが界人だ。いつの間にか黄色いスーツ姿になっている。


「一口かじればスマイル~♪ ハッピーハッピースマイル~♪」


 どこかのポップスターのように「アオゥ!」と雄叫びを上げて、界人が勢いよく【スマイラーズ】をかじる。


「笑え! THIS IS SMILERS!」


 どこからともなく紙吹雪が舞って、ダンスのボルテージが高まっていく。


 次の瞬間、教室の様子は元通りになり、絢斗たちは手にした【スマイラーズ】をかじって、争っていた両者は笑みを交わすのだった。


 彼方は羞恥心を抱えながら、身を包んでいるものがダンス衣装から制服に戻っているのを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。


 ──だからダンスものは嫌なんだ……!


 こっそりと睨みつけた視線が、界人と正面衝突する。怪訝そうな表情で彼方へ近づこうとした界人に、廊下から声がかかる。


「徳川くん、ちょっと話が……」


 ショートカットの女子が教室の戸口で手をこまねいている。校内履きの側面に走る線の色は緑色で、それはすなわち三年生であることを表している。


「あれは風紀委員長の奥平おくだいらゆず先輩だ」


 いきなりそばで声がしたので飛び上がりそうになった彼方は、真面目な顔で界人と柚が言葉を交わすのを見つめていた絢斗の頭を引っ叩いた。


「いきなり何するんだ……」


 頭を押さえる絢斗を美言は白い目で睨む。


「あんたの情報収集能力が怖いんだよ」


 彼方は絢斗と対立していた男子に目をやった。特に遺恨を残した様子もなく、彼方は安堵したが、それでも人の精神状態を操作する広告現象を目の前にしては、心中穏やかではいられなかった。


 ──やっぱり、この世界はおかしい。

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