これはCM上の演出です!

山野エル

第1話 アドワールド

 街からは遠く四方に山が見える。東京のどこかにあるという阿戸あど盆地にこの阿戸市という街はゆったりと寝そべっている。日が昇ってから数時間ほどしか経っていない街は静かに動き出していた。



 四月のまだ肌寒い朝の通学路に、青白くかすむ遠方の山影を目に映して溜め息をつく高校生が一人立っている。


 藤堂とうどう彼方かなたは制服のブレザーのポケットに手を突っ込んで、住宅街の道を最寄りのバス停に向けて足を運ぶ。肩から提げた真新しいスクールバッグが少しだけ重くなったことが、今日から授業が始まるのを物語っている。



 通勤通学時間だ。住宅街から大通りに出ると、スーツや制服の人影が目立つようになる。彼方の背後から忙しない足音がやって来る。バッグを背負ったサラリーマン風の若い男だ。


 男を一瞥した彼方は、その手に「速攻チャージ!」と書かれたロゴのゼリー飲料【パワーゲイン】が握りしめられているのを見て、本日二回目の溜め息を吐き出した。



 男はおもむろに【パワーゲイン】の小さな蓋を取って飲み口をくわえた。スパウトパウチ(註:ゼリー飲料にありがちな、あのパッケージの一般名称)をグッと握り締めてゼリーを飲み込んだその瞬間、男の身体が光に包まれて、数メートルほど浮き上がる。近くの通行人がわざとらしい驚きの表情で、空高く飛翔した男を見つめている。


「忙しい朝に!」元気満タンになった男が叫ぶ。「速攻チャージ! パワーゲイン!」



〝それ〟が終わると、夢から覚めたかのように男も通行人たちも何事もなかったかのようにまた歩き出す。


 ──ああ、まただ。


 彼方は目を背けた。まるで路上にぶちまけられたゲロを見つけてしまった時みたいな表情で。



【パワーゲイン】の男がいきなりトチ狂ったわけではない。これがこの街の、いや、この世界の日常である。


 豊かな生活をしている連中の中には、いくつもの広告を抱えた契約者も存在している。彼らは日々、契約を交わした広告を発動させてきた。それが当たり前のことなのだ。広告が世界を豊かにし、人と人を繋げ、より良い未来を描く。



 この世界は、広告世界アドワールドだ。



 彼方は嫌気が差していた。いきなり始まる広告に。そしてそれを疑問にも思わない人々に。


 昨日は校内で清涼飲料水【スカイ】の学生の集団ダンスに巻き込まれそうになって慌てて逃げ出したし、先週は阿戸駅前のメインストリートに突如出現したスマホゲーム【ドラゴンズ・スフィア】のドラゴンの群れに襲われた群衆にもみくちゃにされた。


 とにかく、この街は、そしてこの世界は、彼方にとって一日でも息つく暇がないのだ。



 彼方は周囲を気にしながら、バス停のベンチに腰かけた。炭素繊維複合材料CFRPでできたベンチの表面には人の温もりはない。初春の空気を吸い込んだ冷たさが、彼方の制服のズボンを通して伝わってくる。


 これがCFRPでできているのを彼が知っているのは、数年前に隣に座って来た見ず知らずのおっさんが懇切丁寧に説明してきたからだ。その時バス停にいた全員がどこかの会社の名前をお決まりの一点を見つめてでかい声で一斉に口にしていたのだが、彼方はその名前を憶えていない。それも広告だったのだ。


 ──話しかけてくるなよ……。


 ベンチの隣に座った女子高生も、彼方にとっては脅威である。広告の名の下に、いつカラオケボックスやらスポーツ施設やらに瞬間移動させられてもおかしくないのだ。


 広告には、抗えないほどの強制力がある。巻き込まれれば、成り行きに任せるしかない。それが終われば元の場所に戻されると分かっていても、彼方は心中穏やかではいられない。



 何事もなくというか、ごく普通にバスがやって来て、彼方はバスの後方の座席に収まることができた。彼方の自宅の最寄りバス停・森岡二丁目からの乗客は多く、バスでは座れないことも多いのだ。


 彼方の前列、二人掛けのシートに親しげに話しながら腰を下ろす若い女性が二人。通路側に座った女性がなにやら憂鬱そうな顔をする。


 ──眠気覚まし系のCMか? それともビタミン剤か?


 彼方は身を低くして、いつでも前方の座席の背もたれに隠れられるように身構えた。この辺りの〝導入〟には鼻が利くのだ。



「はぁ……」


 通路側の女性が聞こえよがしに溜息をついてみせる。彼方は、始まったな、と一層の警戒を強化する。すぐ後ろの座席にいる以上巻き込まれる覚悟はしておかなければならないわけだ。


「どうしたの?」


 窓側の女性が反応すると、通路側の女性はすぐにくしゃみをする。


 ──かぜ薬か。季節の変わり目にくしゃみするとすぐに飛んでくるからな……。


 彼方にもそうやってかぜ薬【バルファミンEX】の契約者に声をかけられた経験が何度もある。だから、「人前ではくしゃみとせきをしない」というのが信条になっている。寒がる素振りを見せるのもかなり危険だ。さもなければ、健康体なのにすぐに薬を勧められるハメになる。



「花粉症なら!」


 窓側の女性がどこからともなくパッケージを取り出して掲げる。空気の循環のないはずの車内にそよ風が吹いて、二人の女性の髪をなびかせる。


「【ビラノックス】!」

「でも、眠くなっちゃうから……」

「【ビラノックス】なら眠くなる成分が入っていないから、朝飲んでも大丈夫!」


 途端にバスの中の空間が膨らんで天井や壁がピンク色に染まると、通路側の女性の身体がふわりと浮かび上がって風に包まれる。いつの間にか飲んだ薬が早速効いたらしい。



 やがてバスの中も元に戻り、浮かび上がっていた女性も席に収まり、車内は何事もなかったように静まり返る。薬のおかげで快適になった女性の日中の様子が彼方の脳裏にはありありと思い描くことができた。


 バスの車窓から流れる景色を眺めて、彼方は気が重くなるのを感じた。今日はこれを何度繰り返せば済むのだろうか、と。



 高校の最寄りバス停にバスが停まると、車内の制服姿が大勢立ち上がって騒がしくなる。彼方もその流れに沿って座席から立ち上がったが、後払い形式のバス前方出口が詰まって生徒の列が止まっているのに気づいた。


「早くしろよ」

「なにしてんの~?」


 口々に不満を募らせる降車する人たちに、彼方は不安で胸をざわつかせた。どうやら、先頭の生徒が現金で運賃を支払おうとしててこずっているらしい。


 不満とか不便さをこうもあからさまに出してくる時には、ここに広告が入り込む余地があるということを彼方は経験上学んでいた。そして、つい先日もコンビニのレジに並ぶ列で出くわしたのを思い出す。


 ──タッチ決済系か。今度はなんだ?


「ねえ、まだ現金なの?」


 列に並んでいた小学生の女児がブラウンのランドセルを背負って列から半身を覗かせる。


 ──子役みたいな独特な抑揚と必要以上にハキハキとした喋り方……。やっぱり、あのガキ、広告の契約者か。このやり口は【イージータッチ】だな。


「いまどきはキャッシュレスでしょ!」


 そう言って小学女児はスマホを取り出して精算機にタッチする。


「【イージータッチ】!」


 列をなしていた連中が揃いも揃ってどこかの一点を見つめてサービス名を声高に口にする。


 ──こいつら、いつもどこ見てるんだ?


 別に彼らの視線先には誰がいるというわけでもない。それなのに、彼らはいつも意思疎通が取れているかのように同じ方向に商品やサービス名を叫ぶ。彼方にとっては、この世界の七不思議の一つだ。一体誰に向かって訴えているのだろうか?



「こら、順番守りなさい!」


【イージータッチ】の女児の母親らしきパンツスーツの女性が叱りつけると、女児はしょんぼりと肩を落とす。


「ごめんなさい、ママ……」


 大人びた女児が最後には子どもらしい姿を見せるという、いかにも広告のオチっぽいオチだ。


 降車客が全員【イージータッチ】で精算を済ませてバスを降りて行く。彼方の手の中のスマホにもいつの間にか【イージータッチ】がインストールされており、チャージをしてもいないのに精算機にタッチをすると青い光が返ってくる。


 ──まあ、こういうのは便利なんだけどな……。


 三々五々にバスの乗客が散っていくのを確認して、彼方はスマホの画面に目をやる。さっき作動していたはずの【イージータッチ】のアプリはきれいさっぱり消え去っている。


 ──毎度のことながら、いつの間にアプリ入って出て行ったんだよ……。


 広告中に強制的に商品やサービスが自分のものになっていたとしても、広告が終われば何もなかったことになる。


〝原状復帰の原則〟とも呼ばれる、この広告現象の消失は説明不可能なこの世界のことわりだ。


 先月、阿戸駅前のスクランブル交差点のど真ん中に突如出現して曲を演奏したロックバンドとその楽器も、曲が終わって跡形もなく消え去っていったのを彼方は目撃した。音楽のミュージックビデオも広告の一種だ。


【ビラノックス】も【イージータッチ】も【ドラゴンズ・スフィア】も、その広告内で発生した現象やそれによる変化はまるで夢だったかのように雲散霧消していく。


 ──誰も彼も、自分の意思とは関係なく広告に支配されているんだ……。そのことを誰も少しも不思議に思わない。


 バスを降りて高校への道を歩き出した彼方の頭の中には、いつものようにそんな不信感で溢れている。だが、周囲を歩く同じ高校の生徒たちはそんな思いとはかけ離れたように足取りが軽い。


 ──なんなんだよ、この世界は?


 彼方が心の中に行き場のない問いをぶちまけるのと、上空から耳を覆いたくなるような轟音と突風が吹き下ろしてくるのは同時のことだった。


「高校生~! 学力アップなら今がチャンスだぞ~!」


 ヘリが低空で静止して、開いたドアから身体を乗り出す謎の青いスーツの男が轟音を掻き分けるような大音声を上げる。思わず立ち止まった高校生グループが異口同音に「えっ?」と、広告にありがちな反応を見せる。青いスーツの男は続ける。


「新学期、スタートダッシュするなら今のうち!」


 その声と共に天空から巨大な文字が飛来して爆音を上げて近くに着弾する。縦書きの「初月無料」が「初月」と「無料」に分かれて通学路脇にそびえ立った。強い風が吹きつける中、感嘆の表情を浮かべる高校生グループを遠巻きに見て、彼方はさっさと高校への道を歩き出した。


 ──学期の変わり目とか夏休みとかの時期を狙って続々とやって来る連中だ。塾と家庭教師と通信教育という悪魔の三連星だな。


 勉強嫌いの彼方にとっては悪魔の囁きに等しい爆音塾勧誘ヘリ男の影響範囲を速足で抜け出して、彼はようやく高校の校門前まで辿り着く。これが彼の日常なのである。



 目の前に建つのは、四月から通うことになった阿戸市立阿戸西高等学校だ。

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