第13話 五夜目 人もどきとの約束(5)
いま思えば、子猫の状態を見て、もう長くないと分かったのかもしれない。
診療時間が過ぎてしまっていて、動物病院に連れて行きたくても言えなかった。うちにはお父さんがいない。お金が足りないの、我慢してね、がお母さんの口癖だった。
いま子猫に出来ることと言えば、身体を拭いてあげて少しでも温めてあげることくらいしかなかった。小さな身体はくにゃくにゃで、力が入らない。身体を拭くあいだにどんどん弱っていく。
懸命に看病をしたけれど鳴き声もあげなくなって、その夜遅くに眠くなって、うとうとしているあいだに子猫は死んでしまった。
たった数時間のことだった。
だけど、かなしくてかなしくて、目が腫れるほどに泣いた。それでもお母さんには学校に行きなさいと言われて、しかたなく登校した。学校から帰ったらお庭に埋めてあげようと思っていたのに、子猫はいなくなっていた。探し回ったけれど、みつからない。
夕方になって仕事から帰ってきたお母さんに尋ねると、「市役所に相談して引き取ってもらった」と言われた。
動物の死骸を、あんたが勝手にどこかに埋めてはいけないからね。
すうっと目の前から光が消えて、世界の色が薄くなってしまったように感じた。きっと、お母さんのいうことは間違ってないのだろう。
まだ幼かったから、従わなくてはいけないと思った。でも、心はもやもやした。
子猫、お葬式してあげたかったのに、捨てられちゃった。
今ならあの時の気持ちを説明できる。どうしてあらかじめ、伝えてくれなかったんだろう。私は、ちゃんと子猫とお別れがしたかったのに。
動物がきらいで、家のなかに置いておきたくなかったから? 私は可哀想だと思ったのに、お母さんにとってはただの汚れたごみくずにしか見えなかったのかな。
考えかたが違うのはしかたがない。いまはそう思う。だけど、納得できなくて苦しかった。
子どもだから、すぐに忘れるからと考えたんだろうな。ふつうに後片付けをしてあげたと思ってる。
だけど。
私の胸には、ぽっかりと穴が空いてしまった。かわいそうな子猫。自分の手で埋めて、お花をあげたかった。そうしたかった。
お母さんには日々の一部で、記憶にも残らなかったに違いない。そのあと、一度でも話題にのぼることはなかったから。
もはや子猫の問題だけじゃなかった。お母さんは、私の気持ちなんてどうでもいいと考えてる。
隠れてひとりで泣いた。きっと子猫は空に還ったのだから、ごめんねって夜空に向かって言って、謝るしかなかった。
聞き分けがよくないと、母の溜め息が増える。自分の気持ちは押し込めた。言いつけをきかなければ、母の機嫌が悪くなる。
努力した。
義父と暮らすようになってから余裕が出来て、母の機嫌は良くなった。新しい兄妹が増えた。私が大きくなるにつれて、私の居場所は小さく小さくなっていった。入れ替わりに、新しい家族の居場所は広くなった。
母は、あなたはもう大人だからね、と笑った。
家族とは、義父と母の両方から血を引く子どものためだけに存在してるらしい。いつしか、私の居る場所はなくなったみたいだった。
あの子猫の居場所が、生まれてすぐに死んでしまったように。最初から邪魔でしかなかったみたいに。
私もきっと、子猫といっしょに死んじゃったんだと考えた。だから私は、子猫の記憶とともに自分の心も奥底に埋めてしまった。
あれから私は家族と離れて、別の場所で暮らすのを選んだ。暮らしは楽じゃなかったけど、ひとりのほうが気楽だと知った。
「あなたは、あのときの子猫……?」
見上げる子どもは答えない。まっすぐにこちらを見つめている。
ずっと避けていた。向き合わずに来た。
だけど、いまなら自分の力でなんとかできる。
「ねえ、もし生まれ変われるのなら……今度は助けてあげたいな、あなたのこと」
その言葉を聞いたとたん、ぱっと顔を輝かせる。大きな目でこちらを見つめる。嬉しそうな声で応える。
「ほんとう?」
子猫が膝の上で跳ねている。うれしい、うれしいと言っている。
「ぼくね、おねがいしたかったの!」
そこにいるのは、茶色の虎縞の子猫。幼くて小さい猫。にゃあにゃあと鳴いている。
「ぜったいおそとに出るから」
約束だよ、とその声は頭の中に響いた。
ふわっと膝の上が軽くなった。
またね、と言われた気がした。
見上げれば、猫たちが空を駆けていく。青い空を自由に、虹色にきらめく澄んだ海を泳ぐように。くるりと回転して、楽しげに走り去って五匹の姿が遠くなっていく。
ねえねえ、かみさま、ぼく、ちゃんとおれい言えた、と明るい茶色の虎柄模様をした子猫がにゃあにゃあと告げている。
わたしたちは神様じゃないよ、と大人の猫がゆっくりと歩いて鳴く。とてもきれいな灰色の毛並み。顔と足先が焦げたように黒い。
──じゃあ、おじさんたちはだあれ?
──ちびと一緒に順番待ちをしている、ただの暇つぶしだよ。
真っ黒い筋肉質で大型の猫が、どしどし歩きながら、低い長い一声を出す。うなぁーんと鳴き声が響いた。
──ちっさいおまえさんを、放っておけなかったんだよ。
ちびの茶トラは、並んで歩く大きな黒猫を不思議そうに見上げて言う。
──でも、きんにくはせいぎじゃないみたい。
──そりゃおかしいな、俺の世話をしてた人間はずっとそう言ってたんだがな。
──人間も猫も、好き好きは違うものですよ。
体格のいいキジトラ柄の猫が、ぶにゃうぅと鳴いた。ふわふわの毛並みをなびかせ、ゆったりと歩いている。
豹柄の毛並みが美しい細身の猫が、優美な足運びで列の最後を守る。前足より後ろ足が長く、跳ねるように歩く。
こちらを向いて見下ろす。もう遠くて顔がはっきり見えないが、どこかばつが悪そうだった。
ふと、右手を開く。
鍵の先を観察する。握っていた鍵の先に、溝はひとつも無くなっていた。
ああ、これで本当に最後なんだ。
そう思ってもう一度、感触をたしかめるように鍵を握る。
見上げると、猫たちの姿は見えなくなっていた。
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