第12話 五夜目 人もどきとの約束(4)


 懇願の瞳がこちらを見る。表情が幼くなる。みるみる姿かたちが変わっていく。

 服が余る。手足が細くなって、短くなる。身体が細く、薄くなる。頭はやや小さくなったが、身体の大きさが半分以下になったのに比べれば、さほどの変化とは言えない。


 だが、顔の造作は瞬く間に変化した。ほっぺたが膨らみ、顎の線は柔らかく、肌が瑞々しくなる。産毛が金色に光っている。


 鼻と口の形が人ではなくなっている。逆三角の猫の鼻と同じく、人間の小鼻には無い外鼻溝がある。上唇溝が縦に走り、両側に丸い膨らみを作る。口が丸いWの形状になっている。

 すっかり目前の相手は、幼児の体型に遡っていた。


 やっと自分で立って歩けるくらいの年端に見えた。身体は完全に人型だが、顔は毛のない猫のようだった。髪はふわふわのオレンジ色、キトンブルーと呼ばれる色の瞳。ぷっくりとした肉付きの小さな手。まだ関節や骨の柔らかさが残る体つき。


 ぺったりと尻をつき、尾てい骨から伸びた尻尾が床でS字を描いている。尻尾の先が白い。ぺたぺたと床を叩いている。


 泣いている。泣きじゃくっている。


 可愛らしい、赤子からようやく脱却しかけた子どもを泣かしたという罪悪感が胸を衝く。それ以上に子猫と幼児の外見を絶妙にミックスした、悠に可愛いの二乗以上を発揮する尊い生きものを前にして、動揺を隠せない。


 おそらく、この世の一番を、いま、ここで目撃している。

 現実には存在しない、獣人の幼児ケモショタ。思わず、自分の顔を両手で覆っていた。


 なんて……なんて、けなげなの……しかも、嫌いにならないでって言って、すがる目をして泣かれるなんて……!


 あまりにときめいて、幼児を泣かせて良心が痛む反面、可愛すぎていじめたくなる加虐性が奥底から湧き上がる。実際にはやらないけれど、こんなこと……だめ、もうだめ、見てるだけで心臓がもたないもん、マジでしんじゃうぅ……。


 ひんしゅくを買いそうな考えを巡らせているだなんて、おくびにも出さず、私は猫顔の幼児の頭を優しく撫でた。

 頭についている大きな耳が、ぴくりと動く。


「おいで」


 この外見なら、中身の印象と合致する。可愛い子猫の顔をした男児は、涙でべたべたになった顔を上げた。きらきらの大きな瞳がこちらを見る。すくいあげるような目線に、心臓が痛くなる。


 猫の神様たち、こんな幼児にあんな大人の風貌を与えるだなんて、酷が過ぎませんか?


 おずおずと四つん這いになって、近づいてくる。履いていたジーンズは脱げてしまっている。大人のTシャツをすっぽりと被った状態で、まるで首からシーツでもかけられているかのようだった。

 Tシャツの裾から尻尾が出ている。心境を表しているのか、下がっていた尾がだんだんと水平になっていく。


 私は男児の両脇に手を差し入れて、抱きかかえた。胸の前でくるりと回転させ、自分の膝の上に座らせる。同じ方向を見る姿勢となり、私は男の子を背中からきゅっと抱きしめた。


 一瞬身を強ばらせたものの、男の子は私の腕に両手を置いて、顔をすりつけてきた。涙と鼻水をなすりつけられるかたちになったが、気にならなかった。

 しばらく言葉もなく、ただ同じ時間が過ぎていく。


「おねえちゃん、ぼく、おれいが言いたかったの」

 ぽつりぽつりと、こぼすように話す。


「お礼?」

 なんのお礼? それは、いつの話?


「あったかい……じかんをありがとう」


 幼い顔がこちらを見上げている。にこっと天使の笑みが浮かんだ。閉じられた瞳が、幸せな弧を作る。


「たくさんね、言いたいことあったんだけど、おもいだしたんだ。さいごがあったかかったから、こわくなかったんだ」


 さいご──最期、が温かかった……?

 そうだ、このぬくもり。とても……とても遠い記憶だったような気がする。


 淡く、悲しい色を放って心を染め上げ、苦しくなる。

 奥のほうに押し込めて、凍結させて思い出さないようにしていた。


 あまりに悲しくて、解凍したくなかった。ちっちゃい、ちっちゃい生命。まだ生まれたての。


 ずくん、と胸が痛んだ。いつしか忘れてしまっていた。

 つらすぎて、思い出せなくなっていた。目の前に過去の光景が広がる。草むらに棄てられていた、一匹の小さな子猫。


 当時、小学校の三年生だった私がよみがえる。


 花散らしの雨が降って暖かい日が続き、そろそろ八重桜が咲こうかという季節。友だちの家に遊びに行って夕方にひとり、家路を急いでいた。

 か細い声が聞こえて、呼ばれているような気がして探し回った。


 上空には薄暮の空がある。夕焼けが西側に片寄り、薄雲が淡い紅色に染まっている。周囲にカラスの喚き声がいくつも聞こえていた。

 空き地の奥から、消え入りそうな声は聞こえてきた。立ち入り禁止のロープが張られていたけど、周囲を見回して、だれもいないのを確認してまたいだ。


 声を探して、近づいた。

 暖かくなって伸びはじめた雑草の合間に、傷だらけの子猫を見つけた。


 いっぱい血が出ていて怖かったけれど、放っておけなかった。ポケットのティッシュを全部出して包んで、手のひらにのせて駆けて帰った。


 家について、「お帰り」と声をかけられる。

 台所に立つお母さんを呼ぶ。

 お母さんは顔を出して覗き、玄関に立ちつくす私を見た。


 記憶の中の視点は、明かりがついているにもかかわらず、妙に暗い。顔が見えているのに、表情はおぼろげだった。


「なにそれ」


 私の両手の上に掲げた子猫を認め、お母さんは顔をしかめた。

 お母さんは動物が苦手だった。こわいとか、さわりたくないとか言って近づくのもいやがった。だから私は一度も、おたまじゃくしもカブトムシも金魚も、ハムスターも小鳥も……、動物は大好きだったけど飼えなかった。


 むりよ、こんなの。そう言った。


 お母さん、夕ご飯のしたくをしなくちゃいけないから。面倒見るんなら、あんたがみなさい。

 お母さんは仕事から帰ってきたばかりで、私が連れ帰った子猫を迷惑そうにしていた。眉を寄せて、ちらりと視線を投げてすぐに離れていった。


 記憶には霞がかかっている。人物の顔や光景はぼやけて、はっきりしない。なのに、その時の瞬間は、切り取られたかのように感情だけを鮮明に覚えている。

 へんなものを拾ってきて、困った子。疲れてるんだから、厄介ごとに家に持ち込まないで。そう言いたげだった。


 ただ、棄ててきなさいとは言わなかった。黙って、使わなくなったタオルを渡してくれた。


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