第5話 三夜目 人型怪物との接触(1)



 翌日となる今日、朝からずっと、とにかく最悪な一日だった。

 失敗ばかりやらかして、なんとか挽回するのに終電間際までかかってしまった。


 泣きたいよ、もう。

 昨日の、ふつうじゃない生物ケモノのことを忘れられそうもない。


 なんなのよ、アレ。衝撃的過ぎて、あんな夢を見てしまった自分も信じられない。

 無意識下にある願望? 欲求不満なのかしら、私。


 異形の生物に襲われそうになるなんて。

 まるで現実みたいだった。思い出すとまだ心臓がどきどきして、鳥肌が立つ。

 ただひとつ言えるのは、間違いなく逃げ出せて良かった。


 なんであんなのを思いついたりするのよ、我ながらびっくりするわ。

 夢って本当に不思議。




 あんな経験はもういいと思っていたにもかかわらず、夢のなかで三度、扉を開く。

 すでに夢だと分かっている。


 開いた扉のむこうが見える。昨日とはうって変わって、ひんやりした空気が漂っていた。

 石造りの宮殿。古代ギリシャのパルテノン神殿に造りが似ている。違うのは長い廊下のごとく、延々と白い石柱の列が続くことだった。まっすぐ、消失点の先まで終わりが見えない。

 ずいぶんリアルで雰囲気のある風景だな、と思いながら、入り口から頭だけ出して周囲に目を配る。生き物の気配はない。


 音を立てないように注意しながら、しゃがんで扉をくぐる。

 立ち上がって耳を澄ます。だれもいない。昨日みたいなことは起こらないらしい、と安堵する。


 なんだか時間の進みかたが遅い気がする。身体がふわふわする。


 すごく静かだ。

 両側に石柱が等間隔に並ぶ。石柱には手彫りで細工が施されている。柱との間から外が見える。


 日差しは強い。乾いた白砂の大地が照りつけられ、反射したまぶしい光が目を射る。

 外は暑そうだが、石造りの空間には涼しい風がゆるやかに吹き抜ける。体感は快適だった。


 空はとても青く澄んでいる。薄く、刷毛で掃いたような長い雲がある。地平線まで砂地が続く。白砂の大地は海に似て、ところどころに緑の島が浮く。


 この光景は、なんだか砂漠のオアシスみたい。そう思った。

 ん……? これってギリシャの神殿と、エジプトのピラミッド風景を掛け合わせしたみたいなイメージじゃない?


 遺跡を連想したらこうなったって感じ。我ながら安直な夢だわね、とか思いながら左右を確認しつつ歩いていた。


 そのとき、かすかな布ずれの音を聞いた。反射的に、柱と柱の間へと目を向ける。

 外光を背にし、全身が影になって見える。二足で立つ黒い姿は、エジプト神の一柱に似ていた。


 真っ黒い豹の顔。でも確か、黒い猫の顔をしているのは女神のはずだ。


 目の前にいるのは漆黒の体毛に覆われた、ボディビルダー顔負けに筋骨隆々の体つきをした者だった。肩から腰まわりにかけて一枚、白い布を巻き付けている。

 ふだんなら照れ隠しに、風呂上がりかよ、とひとことツッコミを入れたかもしれない。だが、今は笑う気にもならない。緊張で顔が強ばる。


 短毛で、しっとりと艶のある毛並みは光を反射し、陰影で見事な筋肉の付きかたを浮かび上がらせる。

 上半身は人間のかたちをしているが、太ももから先が異なる。絵画に描かれる、ギリシャ神話の牧神パンを思わせる。あの神は両の足が山羊ヤギの後脚だが、目の前の相手は大型の猫の下半身を人間に近づけた姿をしている。膝が丸く曲がり、踵が高く上がって、つま先立ちの姿勢になっている。


 紀元前の彫像に見るような装束を身につけ、首から鎖骨のあたりまでを見事な金細工で飾る。金の板を半円状に加工し、半球に磨かれた紅と蒼のいくつもの色石を左右対称シンメトリーに配置した手工芸品。

 博物館に展示されていてもおかしくない。輝きに目を奪われる。

 両腕も同型の金細工で豪華に彩り、左足首だけに細い金の足輪を三本重ねてつけ、動くと微かに鈴に似た澄んだ音が立つ。靴は履いておらず素足だった。

 悠然とたたずむさまは神話に記される勇者を彷彿とする。


 ああ、なんて見栄えのする姿なんだろう。


 首から上の黒豹の顔に、金色の目が輝いている。目の周囲を金泥で隈取っている。表情はとても知的だった。

 息を飲んだ。不覚にもときめいた。


 即座に思った。鍛え抜かれた芸術品。筋肉を競う大会ならば、応援のかけ声をしたくなるレベルの仕上がりかただった。


 なんか……めちゃくちゃカッコ良くない? こんなすごい獣人を現実に間近で見られるなんて。


 これは夢だ、と自分に言い聞かせる。こんな生物は存在しない。

 美しい、と本心から思った。目を奪われて、その場から動けなかった。

 相手は足裏をつける音をまったくたてず、こちらへと歩み寄ろうとする。


 はっと我に返った。まずいかも、と思ったときには遅かった。


 予備動作がほとんどない。一瞬にして流れるような所作でその場に踏み込み、人間離れした跳躍をしてみせた。


 衝撃はあったが、床に押し倒された痛みはなかった。石畳の地面に横倒しにされたのに、ふわりと寝かされてあっけにとられた。


 いつのまに? なんで私、床に寝てるの?


 気づいた。頭を大きな手のひらで支えられている。完全に押さえつけられて身動きが出来ない。

 黒豹の顔に見つめられている。金色の瞳とわずかに茶色を帯びた虹彩、縦長の瞳孔、半円状に透き通った角膜が近づく。


 獣の顔をして、瞳は大型の猫そのもの。なのに、知的な意志を宿している。人間のように、ふっと表情を緩めるのが見て取れた。


 胸が高鳴る。でも、この姿勢はまずい。

 見事な体躯で迫られる。つやつやとした、黒く手触りの良い毛並みの下に、筋肉が漲っている。身を寄せられて、熱いほどの体温が伝わる。


 しかも、いま一番問題なのは、相手の股間──しかも体型に比例してご立派な──が、自分の太ももあたりに押しつけられているということだ。


 寄せられた顔。真っ黒の巨大猫の鼻の先端が、こちらの鼻に接触しそうに狭まる。

 やばいやばいまずいまずい、このまま流されるのはかなりまずい。


 だって、目を見れば分かる。わからないとすれば、相当のうつけかぼんくらか唐変木か愚鈍か愚物か、とにかくそれくらいわかりやすい雰囲気で迫られている。

 なんでこんなことになっているかはわからない。でも昨日の今日で、立て続けにこんな反応をされるとは妙だ。もしかすると私は、全身からマタタビにでも似た効果を放つようになったのかもしれない。


 近づいてきた鼻先が顔の左側に寄り、耳元に近づく。獣の口が開く、密閉から空気を取り込む音が間近で響く。

 その音が、ぞわりと背筋を凍らせる。



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