第6話 三夜目 人型怪物との接触(2)


 首筋を噛まれるかと思った。それに近い衝撃があった。

 大きな舌がぞりぞりと首筋を這った。声が出た。


「イ痛ったァ────────ぁぁい!」


 自分の悲鳴にしても、色気も艶もへったくれもない。とにかく首の皮がとんでもない引きつりかたをして、激痛が突き抜けた。


 ネコ科の舌!

 動物の情報に興味がなければ知らない人も多いだろうけど、大型のネコ科の舌ってヤスリ同然なんだ。あいつら舌で、生肉をこそいで食べるんだからね。

 うん、すごくよく知ってる。私、動物大好き人間だもの!


 ついでにぶっちゃけると、ずいぶん前に別れたクソッタレな元彼の寝起きの頬ずりより、百倍は痛い。


 思い出したら腹が立ってきた。あれも痛かった。肌に刺さる、生えたてで突き立つヒゲをこちらの頬にこすりつけられたら、紙ヤスリで磨かれるくらいの痛みがある。あいつら、自分はやられた経験がないから平気でやるけどね。おまけに何度言ってもやめてくれなかった。っていうか、こっちが痛がるのを喜んでた。


 わざとやりやがって。怒りが湧きあがる。それよりも痛ぇわ。

 百倍どころじゃねぇわ、流血沙汰になるわボケェ!


 猛烈に暴れ回って、相手をどかそうとする。

 おのれ、マジでなにしてくれとんのじゃいぃい!


 手で相手を押しのけようとするが、まったくの無駄だった。駄目だ、胸を叩こうとしても、床に押し倒された体勢では力がこもらない。

 ふざけんな、このまま食われてたまるもんか!


 せめて両脚を蹴り上げようとしても、獣人の足でうまいこと斜めに押さえつけられてどうにも動けない。

 全力ではね除けようとしても、相手は重量級でびくともしない。ちょっと待って、女って──いや、人間ってこんなにも非力なの?


 よく漫画とかで股間蹴り上げたりとか平気でしてるけどさ、あんなの作り話だよ。現実となれば、マジでまったくと言っていいほど動けないじゃないか!

 どうなってんの? 真っ赤な嘘だよ! 


 現実は都合良くいかない。絶望的な状況に、どんどん血が引いていく。


「イヤだぁー、やめてぇー! 頼むからどいてぇー!」

 叫んでいるうちに涙が出てきた。


 なんでこんな目にあわなきゃならないの。私は好みを全力で推しはするけど、視界には絶対に入りたくない派なのよ!

 人じゃなく、壁になって見守りたいの。

 美しいものの視界に、汚れたものを見せたくないの。推しに挟まれて愛でられたいとか思えるほど自己肯定感が高くないし、そもそもそんな趣味はないんだから。


 血迷って大雨の大地に這い出してきてしまって、真夏の太陽に晒されて風前の灯火のミミズよろしく、大量の涙と鼻水垂らしてぐっちゃぐちゃの必死の形相でのたうち回る。必死に抵抗してるうちに気づいた。


 相手がドン引きしてる。


 むしろ怯えた目をしてる。その金色の瞳に悲哀の色が浮いていた。

 え、と思って、身を縮めて強ばった体勢のまま、見上げる。

 人に表情が似ている。感情が伝わる。


 黒い毛に覆われた顎が動く。黒豹の口が動いて、たどたどしい声が漏れる。 


「怖、ガラ……ナイ、デ」


 寂しげに細められた目を見た。その切ない表情に、ズギュンと胸を貫かれた気がした。

 しかも、めちゃくちゃ声が良い。低い低音の、腹から響かすような声。獣人の声帯は、人間とは違うらしく片言に聞こえる。


 獣の右手が上から降ってくる。人と獣の中間の形状に見える。指が太くて丸まっている。そして思ったより短い。指先に黒く長い爪が生えている。


 思わず身構える。なにをされるのかと身をすくめる。

 手のひらと指先に、黒く肉厚の肉球がついている。


 ふわりと頭の上に手がのせられる。力強く撫でられる。

 ぐりぐりと回転する撫でかたをされて、巻くように髪の毛がくしゃくしゃになった。


「大丈夫、モウ、ナニモシナイ」


 力強い声だった。きちんと理性を伴って決断した、知的な口調。

 気が抜けた。急に声が遠くなる。目の前の黒豹の顔がぼやける。獣人は目を閉じている。獣の口角が上がっている。


 笑いかけられているのだと気づいた。

 視界が白く霞む。




 押さえつけれていた感覚がなくなり、跳ね起きる。


「──っ」


 え、と声が出た。

 変わり映えのしない、散らかった自分の部屋が目に飛び込んでくる。


 一瞬、混乱したが、頭がはっきりとしてくるにつれ、夢だったんだっけ、と実感する。


「あぁ……」


 両手で頭を抱える。まだ心臓が暴れている。

 なんて夢だ。


 大きな溜め息をひとつ。夢でよかった。よかったけど。

 ふと考える。私、欲求不満なのかしら。


「朝から疲れたわ、夢なのに」

 心の声が無意識に漏れる。「一体なんで、あんなにリアルなの」


 首筋がまだ痛い気がする。手で触れてみる。

 皮膚の感触は滑らかだった。別段、違和感もない。


 のろのろと立ち上がり、移動する。洗面所の鏡の前に立ち、確認してみる。

 手でさする。鏡のなかの自分の姿を眺める。


「……そりゃそうよね」


 首筋に照明を当て、髪を左手でどかしてよく見極める。

 ひっかき傷はともかく、赤くなっているかと思ったものの、特に痕跡らしいものは残っていなかった。



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