第3話 二夜目 異形の獣からの偏執(1)



 鍵を交番に預けようと思ったが、時間に恵まれなかった。

 この鍵を手放してしまったら、二度と昨日のような夢は見られない気がした。


 それにしても昨日の夢はとてもいい、とにかくすごくよかった。気分がずいぶんと晴れた。

 つまらない現実から逃避できる魔法の鍵に違いない。持っていると、とてもリアルで実感を伴う夢が見られる。


 もし、そうじゃないとしても。


 幸運の鍵のように思えた。きらきら光る加工石。きれいな細工。持ち歩いて、ポケットから取り出して眺めれば、心が躍る時間が過ごせる。


 勝手にこの鍵を自分のものにしてしまうつもりはない。ちょっとの間だけ、借りているだけ。

 自分に言い聞かせる。忙しいからしかたないよね、疲れてるし。


 思いを巡らせる。あれは夢のなかで、こちらの世界からどこか異世界に通じる扉を開く、特別な鍵なんじゃないだろうか。


 きっとそうだ。


 余韻がありすぎて、夢とは思えない。たとえ夢でもかまわない。もしかしたら今夜また眠れば、あの巨大猫と会えるのかも、などと考える。


 仕事はいつもどおり最悪だったけれど、家に帰れば楽しい時間が待っている。そのための鍵をこの手にしている。

 想像するだけで、いくらか仕事の時間がつらくなかった。 




 深夜の帰宅後、疲れ果てて眠りに転げ落ちる。


 蔦の絡まる壁の前に立っている。風もなく、周囲は静かだった。

 頭のなかはとても明瞭だった。そして当たり前のように、ここが夢の中だと気づく。

 見覚えのある壁に、裏木戸のようなたたずまいの木製の小さな扉がある。立っていては入れないので膝を曲げ、しゃがみこむ。


 もちろんこの時点で期待していた。昨日の続きだとばかりに意気込んで、鍵を差し入れてツル草模様の取っ手を引く。


 そのとたん、ものすごい風が吹き付けてきた。思わず目をつぶる。


 扉の向こうから流れ込んでくる大気が蒸し暑い。土埃が舞い、草いきれが漂い、湿気を感じる。近くに滞留する水があるのか、池か沼のそばにある濡れた土の匂いがする。

 昨日とまったく違う光景に愕然として、顎がゆるんで口が開いてしまった。


「……え?」


 目を開けるとそこには、まさに想像しなさいと言われたらこうなるだろうな、と思うジャングルの光景がひらけていた。

 だが、動物がたくさん棲んでいてもおかしくないのに、生き物らしい声──鳥の声や虫の音すらしない。風が木々を揺らす、ざわめきだけが聞こえる。


 しゃがんだまま、前に進む。バランスを崩し、右手をついた。

 湿気た土の感触が手のひらに伝わる。通り雨でもあったのだろうか。視線を前に向ける。


 照りつける日差しが、ふいに陰る。


 周囲は丸く開けて、茂みまでは距離がある。正面に生える低木が風とは違うようすで動き、音を立てている。

 吸いつけられるように目線が向いた。

 色が濃く、密度の高い枝葉を揺らし、なにかが近づく。


 昨日とはまったく雰囲気が違う。穏やかでまんまるい幸せな気配ではなく、尖った緊張感が迫る。

 無意識に息を飲んでいた。


 現れたのは悠に人の背丈を越える、馬ほどの大きさがある獣。爛々らんらんと目を光らせ、細い唸りを上げている。

 前足が長い。大型の猫にしては、体形が異様だった。


 四つ足にしては足運びや身のこなしが異なる。毛並みは短く、背骨に沿ってやや長いたてがみが伸びる。豹と同じ梅花紋を体毛に散らしている。

 顔つきと表情がどことなく人に似る。精悍な身体つきは、大型の肉食獣というより猿人類に近い。前足は人の手、後ろ足は猫に似て四肢で疾駆し、二足歩行をも行える体型をしている。


 巨大で、異形の体躯なのに身のこなしはくうを駆るように軽く、なめらかだった。重力を感じさせないしなやかさで素早く移動する。人の所作では、とても張り合えそうもない。


 一声、く。


 低い、腹に響く震動が耳に届いた。大きく開いた口に、巨大な牙が生えているのが見えた。

 太古の虎が持っていた長い牙を、この獣は有している。


 これは、ヤバイ。


 本能が警告を発している。

 ふいに巨大な獣は、立木に前足をかけて立ち上がった。ばりばりと音を立てて、前肢の爪を研ぐ。私は気づいた。


 ものすごいいやなものを見た。あれは……、ぜったいに食欲から来る獰猛さじゃない!

 まさか、いや、だけど……あれは!

 なんであんなに攻撃的に大興奮してるのか、理由が分かった。


 目を疑うほどの光景。

 注目の先は、熊のように二本足で立つ凶暴な獣の下腹部、そう、くびれた腰回りの下のあたり。動物園の檻の中ならば、あらまあ元気ね、で済む。だけど、ここは違う。檻もなければ柵もない。


 なんでそんなとこに目線が行っちゃうのか、自分でも嫌になる。

 だけど──あの状態のケモノは、理性なんてどこかへぶっ飛んでる。欲だけのカタマリ。生存本能の化身。

 いろんな知識で得て、知ってる。


 アレは生殖の権化が姿を成したもの。


 野生生物の本能を前に、武器を持たない人間なんて紙でできたおもちゃ並に無力でしかない。

 獣の両眼がこちらに向いた。短距離走ができるほどには離れているにもかかわらず、完全にロックオンされたのがわかった。


 絶体絶命。鳥肌が立った。


 嫌ァア、ご立派ァ──────?!

 思わず心の中で叫んでいた。


 セクハラ! いや、ケモノにセクハラってなんだよ! 違う違う、マジでヤバいから!

 バッキバキだから!


 いやいやいや待て、一体なんなの? 冗談じゃない、ここは薄くてエロい本の世界じゃないんだよ?

 ケモノは嫌いじゃないけど! うん、むしろ好きだけど、脳内で愛でるだけでじゅうぶんだから。三次元の実物なんていらないのよ!


 あんなバケモノ、実際にいたら恐ろしいだけだから!


 嘘じゃない、本心から言ってる。私、そんな趣味はないんだってば!




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