第2話 一日目 巨大生物との遭遇



 家に着いて、鞄のなかから自宅の鍵を取り出す。

 金属製とはいえ昔ながらの安っぽい玄関扉の前で、レバーハンドルの上部にあるシリンダーに鍵を差し込んで解錠する。


 疲れた。ほとんど無意識に靴を脱いで、荷物を置いて、半分寝ている頭で服を脱ぎ、シャワーを浴びて、なにも食べずにそのまま布団に入って横になった。


 眠りについたはずだった。気づいたら、見知らぬ扉の前に立っていた。


 赤茶色のレンガ造りの壁には青々としたツタが這い、きれいに扉の周囲だけが刈り込まれている。

 私の身長の胸の高さほどしかない小さい扉だった。小学校低学年くらいの子どもならば、つっかえずに入れるかもしれない。


 木製の扉で、年代物に見える。一本の巨木から切り出したらしく、継ぎ目がない。表面に表れる、縦方向に板目が出ている木目模様が美しい。

 扉の中央には複雑に重なる集合円──なにやらいわくのありそうな、魔術師が使う魔方陣みたいな紋様が描かれていた。焼きコテをあて焦げ目でしるしたかのように、色の濃い部分が一ミリほどへこんでいる。


 扉の右端、ちょうど真ん中の位置に持ち手があった。ツル草が絡みあう意匠が施されている。その持ち手の下に銀古美色となった円形の金属部品が取りつけられ、その中心に鍵の差し込み口が見えた。


 扉の前で立ちつくしていると、自分がなにかを持っていることに気づく。

 胸のまえで握った手を開く。あの可愛らしい、素敵な鍵が手のひらにあった。揃いの模様のために、この扉を開ける鍵だとわかる。


 しゃがみ込んでいた。

 迷いなく、慎重に鍵穴に鍵を差し込む。中になにがあるのか見てみたい。好奇心だけがあった。


 右に回すと、滑らかに動く。カチャリと小さな音がした。

 持ち手を握り、手前に扉を引く。

 扉と枠を繋いでいる蝶番が、金属のこすれ合うかすかな軋みを響かせる。


「え……?」


 開いた扉の先に空間がない。いや、正確には灰色と焦げ茶色、黒色が虎斑とらふに並ぶ、ふわふわな毛皮が邪魔をしていた。

 なんだこれは、と思う間もなかった。すぐに分かったからだ。


 肌触りのよさそうな白い敷物が地面に広げられており、その上に鎮座している。これ……、でっかい獣の尻だ。


 緩く丸い曲線を描き、背骨の盛り上がりが暗色の毛皮の下で連なっている。地面につけられた毛並みの付け根から、一抱えほどの太さもある長い尻尾が足もとで揺れる。


 どう見てもこれは、巨大な猫の尻尾だ。見えているところは灰色と焦げ茶の縞模様になっている。尻尾の先は真っ黒だった。

 おそらく香箱座りをした猫が尻をこちらに向けて、入り口を塞いでいる。

 尻尾が巨大猫の気分を表しているらしく、ふらりふらりと足もとを行き来する。


 はわわわわ、と自分でもびっくりするような声が漏れた。不審者のように両手で空を揉んでいた。


 この先どんなに待ち望んでも、こんな願望は実現しない。大の動物好きとしては、この機会を逃したら一生後悔する。

 あぁあ、これはすごい。食べ物を前にしているわけでもないのに、よだれが出そう。


 これは夢だもの、触ったっていいよね。


 機嫌を損ねないように、嫌がられないように、そっと触ってみる。巨大猫だから、毛は固いのかと想像したけれど、信じられないくらいにふわっふわだった。

 触られると、尻尾はひょろっと逃げる。優しく撫でてみる。

 尻尾の先だけが、小刻みに左右に揺れている。眺めているだけで楽しくなる。


 一歩近づく。巨大猫の尻の上部を撫でてやると、相手はごろんと向こう側に寝っ転がった。

 どこからか謎の音がする。猫の喉からこの音が鳴っているのだと気づいた。ふつうのサイズの猫なら、さほど響く音ではないのだろうけども、このサイズともなると相当な音量となって聞こえる。まるでバイクのエンジン音を間近で聞いているようだった。


 巨大猫が寝転がってくれたおかげで、人が通れるほどの空間が開けた。腰を曲げて、扉の向こう側に歩み入る。


 真っ白で、踏み心地のよい敷物の上を進んで巨大猫に近づく。やわらかそうなおなかが目の前にある。胸から股間、尻尾の下あたりまでの体毛が真っ白で、輝いて見える。

 大きな手足がこちらに向けられている。前足一足はピンク色にまだらの黒、残り前足と後ろ足肉球はベルベットに似た、弾力がありそうな黒色をしていた。


 頭をもたげるしぐさで、こちらのようすを見やる。灰色の地に焦げ茶の虎柄の顔が向いている。


 ガラス玉のように透明な眼球だけで、私の頭ほどの大きさがある。針のように細い瞳孔が急激に広がる。興味津々の目つきで見つめられて、心臓が高鳴る。


 巨大猫は喉を鳴らしながら、さらに腹を天に向け、自慢のふかふか毛皮を見せつけてくる。すごぶるご機嫌なのがわかる。


 はわわあぁあ、すっごく可愛い……!


 大きな耳が一心にこちらの音を拾おうとして向けられている。茶色の鼻が、くんくんと空気の匂いを嗅ぐ。

 もうどうなったってかまうもんか。たとえ次の瞬間に引っかかれようが蹴られようが本望だ。

 これはいま、私が求めている最高の癒やし!


 この至福の瞬間を逃すなんてありえない!


「──失礼いたしますっ!」


 猫のおなかに飛び込んで顔を埋める。

 深く深呼吸する。おひさまのにおいがする。呼吸とともに胸からおなかにかけて、なだらかな毛皮が規則正しく上下している。


 喉鳴らしが振動となって、こちらの身体にも伝わってくる。うるさいほどの音なのに、気持ちが落ち着く。

 あたたかくて、しあわせ。

 なにも考えずにただ、このままでいたい。


 柔らかな体温と、猫のゴロゴロと喉を鳴らす音に包まれていると安心する。あっという間に意識が遠のく。

 感覚が失せ、目の前からすべてが消えてなくなった。




 はっと気づくと布団の上だった。

 砂糖菓子のように甘くて幸せな夢が終わってしまったことに、とてつもなく大きな失意を感じた。ただただ、がっかりした。


 起き上がって、なんで目が覚めるんだ、と自分の頬を引っぱたきたくなった。


 なんでもなにも、目が覚めなかったら死んでしまうってば。それでもかまわないくらい、いい夢だったけど。


 自分で自分にツッコミを入れながらわらい、のろのろと立ち上がる。


 外は日差しの勢いを失いかけている。そろそろ昼から夕方に変わるくらいの時刻だろうか。時計を見ると三時半だった。

 よく寝た。気分はすっきりしている。


 キッチンで一杯の水を飲み、脱ぎ散らかした服をかき集める。スーツのスカートをまさぐり、ポケットから遊歩道で拾った鍵を取り出す。

 こっちは夢じゃなかった。部屋に差し込んだ太陽光を受けて、きらりとラインストーンが光る。


 あれ、と思った。

 鍵の先に彫り込まれていた、溝の数が気になった。


 四本。


「……?」


 四本だったっけ?

 目の前に小さな鍵をかざし、私は首をひねった。




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