他人の知らないサウナの世界
かのん
他人の知らないサウナの世界
寝室を兼ねた仕事部屋に、十一時五十分を告げるアラームが鳴り響く。昼休憩の時間だ。私はパソコンから離れ、ベッドに放り投げられたダウンを着て、家を出た。昼休みは正確には十二時からだ。しかし昼直前に連絡をしてくるクソ野郎なんて、少し無視しても構わない。
家の二件横のセブンイレブンを通ると、全身黒づくめの三十代OLが自動ドアに映った。『黒川礼子』という名前ゆえか、黒を選びがちである。ダウンからスウェットがのぞき、化粧はしていない。手をつっこんだポケットのふくらみが、スマホと家の鍵が入っていることを告げている。他人の目には昼食を買いに行く、くたびれたアラサー女に見えるだろう。東京にはそのような、人生の優先順位を勘違いしている女性が多い。私がレジの行列に加わるのに何の違和感もないだろう。しかし足はコンビニを通り過ぎた。数分後は老人クラブと化している、ジムの中へと入っていった。
コナミスポーツクラブ恵比寿店では、不愛想な初老の女性が迎えてくれた。受付にも高齢化の波が押し寄せているらしい。スマホでチェックインを済ませると、還暦手前の彼女は機械的に礼を言った。ピンクのジムウェアと顔の皺がちぐはぐに見えたが、それに見て見ぬふりをするのが健康でいられる秘訣なのだろう。
このスポーツクラブに構造上の問題があるとすれば、ロッカールームが地下二階に存在していることだった。まず地下二階に降りていくのが面倒だ。マシンやスタジオがある一階へもう一度上がってこなくてはならない。地下二階にはもうひとつの罠があった。サウナ付きの大浴場だ。それは私のように筋トレもスタジオプログラムも一切やらず、サウナ利用のみのためにジムに来る会員を作り出すのだった。
毎日サウナに入るようになり、三か月が経つ。きっかけは職場の同僚、佐藤の一言だった。
「サウナ、良いっすよ」
朝会で、彼が画面越しに朝会で発言したのだ。他メンバーは「はいはい、また始まったよ」と言う顔で受け流していた。
「へえ。どこがお勧めのサウナなの?」
私は流さなかった。佐藤はかわいい顔をした五つ年下だ。二十七歳にして永遠の新人のように、爽やかな笑顔を絶やさない。せっかくつかんだ彼との会話の糸口を、逃すつもりは無かった。
「有名なのは長野ですね。山梨も富士山が見えるから良いっすよ。あ、でも聖地は北海道かな。日本で一番フィンランドと気候が似てるんで」
「おい、そろそろ仕事の話するぞー」
クソ上司が茶化し、話題は業務の内容へ戻っていく。私は全く聞く気がなかった。リモート会議なんて、そんなものだ。発言者以外が気にするのは、スクリーンに映る自分の顔が変なタイミングで頷いていないかだけだ。だらだらと続く朝会の間に、北海道行きのフライトを予約した。そして週末に訪れたトマムのサウナ室で、究極の整いを経験することになる。こうしてサウナの虜になったのだった。
「ヨーロッパ行くなら絶対にビジネスクラスよ。疲れが違う」
バアさんAの声で、我に返る。場所はコナミスポーツクラブ恵比寿店のサウナ室、シニアの社交場である。私の他にバアさんが三名おり、どれも七十を過ぎている。一番下の段は、三名の他、二名分のサウナマットが敷いてある。それは場所取りを意味していた。
常連たちには定位置があるらしく、以前、座っていたら「そこは私の場所だから」と退くように迫られたことがある。以来、私は三段目の端、常連たちが寄り付かない温度の高い場所に座ることが多くなった。張り紙には大きな文字で『場所取り禁止』と書かれているが、老眼の目にはうつらないらしい。そのくせ髪を洗わずにサウナ室に入る者にはうるさい。暗黙のルールが敷かれているのだ。
「ビジネス? 四人で百二十万くらいするでしょう」
「でもエコノミーだと、くたびれちゃうから……まさか貴女、エコノミーで行ってる?」
沈黙。私は温度計に目をやった。普段は九十度を指す気温が、下がったのではないかと思ったからだ。
「ツ、ツアーがエコノミーだったのよ」
バアさんB、反撃開始である。
「ビジネスに変えてくれ、お金は払うから、って言ったんだけどダメだって言われたの」
ふうん、とバアさんAは興味なさそうに呟いた。バアさんBがサウナ室を出て行った後は、きっと残りのバアさんたちとエコノミーの噂で盛り上がるのだろう。強い者が弱い者をバカにする。いくつになっても、そんなことをやっているのだ。
彼女たちの話題には共通点があった。決して夫の話は出さない。孫か、旅行か、自慢の子供。もはや夫は醜い肉の塊にしか見えなくなっているのだろう。しかし、唇を噛みしめて立ち上がり、扉へ向かうバアさんBの肉体から察するに、逆もまた然りなのだ。。「こんなところに皺ってできるのか」と私を驚かせた太ももと、重力に抗うことを諦めた尻と腹。
やれやれといった様子で、バアさんAが尻の下に敷いたタオルを整えた。タオルにはSt.Lucasのロゴが入っている。インターナショナルスクールに孫を通わせているのだ。ティファニーブルーを連想させるタオルは品格と自信が感じられ、然るべき持ち主の手に渡っていないあたり、かえって物哀しさを感じさせた。重力がまだためらっている若いうちに、女性は対策をしなくてはならないのだ。身体だけでなく、弱い者いじめとも。
私がサウナ室を出ようとすると、入れ違いで入って来たバアさんCがいやな目つきで眺めてきた。心の中を読まれたのかもしれない。長く生き続けた妖怪が力を身に着けていても不思議ではない。彼女たちは百歳を超えて生き続けるだろう。ジムに住み着いているのだ。朝からジムへ行き、スタジオプログラムをして、風呂に入り、サウナで話す。昼食で家に戻り、またジムへ来る。このコースは夕方まで繰り返されるのだ。健康にならないわけがない。しかしどんなに健康になっても、若くなるわけではない。
バアさんCの顔を見ると、バアさんAは嬉しそうに話し出した。エコノミークラスを見下した発言だ。身体は成熟しても、人間性は成長が止まっているらしい。偏差値の低いお嬢様学校を思わせる、意地悪な笑い声をBGMに、サウナ室を後にした。
サウナを出てSlackをチェックすると、矢次にメンションがついたメッセージが入っていた。どれもお昼直前である。クソ野郎なら無視して構わない。しかし、それらはクソ上司からだった。
「この議事録、何なの?」
「あのメール、どうしてああいう表現にしたの?」
上司から素朴な質問に見せかけたメッセージに、興味を示す目玉のスタンプが連なっている。いじめはなくならない。大人も子供も。場所が教室からオンラインに変わっただけなのだ。ヒエラルキーが高い者が、低い者をいじめる。学校は社会の縮図というが、いつになったら抜け出せるのだろう。
私は吐き気をこらえ、返信しようとした。しかし馬鹿らしくなってきた。私は月極めで給料をもらっている。クソ上司との時間は時給一万円をもらったとしても割に合わない。返事を放置し、代わりに友人にLINEを送った。
「サイコパス上司がうざい。ゲロ吐きそう。もう退職するわ」
「もったいない! 休職は?」
休職。選択肢になかったものを提示され、私はしばらく停止した。彼女は続けた。
「心療内科行けば、診断書出してもらえるよ。一年半は休めるはず」
「給料は? 一人暮らしだから、心配なんだよね」
「六十パーもらえる」
一年半クソ上司と顔を合わせずに、六十パーセントの給料。残りの四十パーセントは副業で埋めれば良い。心の天秤が傾く中、彼女は言った。
「退職は絶対損。まだ会社から、むしり取れるものがある」
それからGoogleマップの口コミで「すぐに休職の診断書を出してくれました」と書かれた心療内科を受診し、二か月の休職を得るまで、一時間を要しなかった。
診断名は『適応障害』。特定の人間のことを考えると気分が悪くなるが、他の日常生活は普通に送れる。病名が付いていたとは驚きだった。中学校でいじめられていた頃から、これは人生でデフォルトで付いてくるものだと思い込んでいたからだ。
久々によく眠れた週明けの朝、見知らぬ番号から着信があった。折り返すと、私は声が裏返りそうになった。
「黒川さん、大丈夫ですか?」
電話をかけてきた主は、佐藤だったのだ。
大丈夫じゃない、とは言えなかった。クソ上司に通じる仲間だとしたら、不用意なことは言えないからだ。
診断書に休職の理由は記載されない。クソ上司のせいで休んでいるとは、誰にも言っていなかった。復職して元の部署で働くことになったら、どんな報復が待っているか分からない。
返事を保留していると、彼は言った。
「僕もあいつにやられてたことあるんで、辛いの分かります」
意外だった。彼は好青年で、立ち回りがうまく、誰にでも好かれるタイプだった。 私と正反対で、クソ上司の悩みとは無縁の人生を送っているのだと思っていた。
「そうだったんだ。教えてくれて、ありがとう」
やっとの思いで出した言葉は、そっけないものになってしまった。言いたいことは山ほどあるが、クソ上司の顔が浮かぶと処理スピードが落ちる。頭も心も整理し切れていないのだ。
「……僕が黒川さんを助けたいと思ったのは、黒川さんの人徳です」
思いもよらない言葉に、数秒ほど完璧な沈黙が流れた。やがて佐藤が口火を切った。
「黒川さん優しいから、メンバーがどんな話しても拾うじゃないですか。僕がサウナの話しても聞いてくれるし。他のメンバーは興味ないと、ふーん、で終わりますよ。オンラインって、自分の発言がきっかけてシーンってなると、嫌じゃないですか。でも黒川さんがいると、絶対に拾ってもらえる。そんな安心感があるんです」
対面でなくて良かったな、と思った。心のどこかでせき止めていた感情が、あふれ出てしまいそうだった。佐藤は続けた。
「必要なものがあったら、何でも言ってくださいね」
君だけだ。私は思った。「ここに仲間はいない」と思い続けた孤独な時間を、返してくれ。
そんなことを言える勇気のない私は、代わりに答えた。
「弱い者の味方がいるんだ、って知れただけで充分だよ。ありがとう」
彼は笑った。鈴が鳴るような、きれいな笑い方だった。
「誰でも助けるわけじゃないっすよ。好きな人だけです……まず、ゆっくり休んで下さいね」
彼は努めて明るく言った。私は電話を置き、窓越しに空を見た。大寒を過ぎた一月末で、寒さは日に日に和らいでいる。雲の隙間に、陽の光がやわらかく差し込んでいた。
私はサウナハットを手にして、家を出た。サウナ室のバアさんたちに、今なら言える気がする。あんたたちのように、強い者に味方する奴らばっかりじゃない。弱い者に味方してくれる人間も、世の中にはいるのだ、と。
他人の知らないサウナの世界 かのん @izumiaya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます