第20話 ゴールドバニー・前半

 大学寮の一室のバルコニーで、黄色のバラ『ゴールドバニー』をとても大切に育てているエイク。花台の上には30㎝くらいの小型のオベリスクが付いている鉢で、花が満開に咲いている。まるでバラのブーケのようになっていた。

 エイクは『あの日』から西小路に恋心を抱き、バラを育てるようになったのだ。花が散らないようにそっとバラを指でなぞりながら、愛おしそうに黄色いバラを見つめるエイク。


「西小路君・・・・・・」



 箕面市立船場図書館内で、何やら難しそうな本を熱心に読んでいる西小路。彼が読んでいる本は『古事記』で、完訳されたものだ。内容を所々ノートに書き写している。

 その頃、ちょうどエイクも図書館に来ており、画集の本を探しているところだった。目当ての本を探している最中に、机に向かっている西小路を見かけた。画集を棚から取ってきたエイクは、彼の勉強の邪魔をしないように、少し離れた後ろの席で画集を開いた。時折、チラチラと西小路の方を見ながら。

 西小路が本を読み終え、凝り固まった肩や背中を伸ばすように伸びをし、席を立つ。本を戻しに振り向くと、エイクが画集を見ている姿に気が付き、彼に近づいた。


「やぁ、エイク君。それは・・・・・・画集かい?」


 少し目を離した隙に近づかれ、ふいに声を掛けられた事で驚くエイク。


「う、うん・・・・・・に、西小路君は?」

「あぁ、古事記を読んでいたんだ。未解読文字とか、何か論文の題材になりそうなものがないかなって思ってさ」

「古事記・・・・・・日本の神話などが書かれている本かい?」

「そうそう、イザナギとイザナミの話とかね」


 エイクは少し何かを思い出す素振りをした。


「ワタシは日本の神話は詳しく知らないけど、日本の未解読文字なら、『神代(じんだい)文字(もじ)』という文字があると聞いた事があるよ?」


 西小路は初めて聞く単語に、「神代文字?」と首を傾げた。


「うん。日本で古くから用いられていたという文字で、色んな古文書に使われていたというものの、未だ解読不能な文字なんだって」


 彼の情報に目を輝かせる西小路。題材になるかもと、興味をそそられたようだ。


「未解読部分が残る謎の文字・・・・・・ってことか」

「そ、そうだね・・・・・・神代文字を使った書物で『古(こ)代(だい)和(わ)字(じ)総(そう)覧(らん)』というものがあるよ。解読が研究されたものは本屋でも売ってるみたいだね」

「なるほど・・・・・・エイク君、ありがとう!」


 西小路はエイクに無邪気な笑顔を向ける。彼の眩しい笑顔に、エイクは胸をキュンとときめかせた。


「や、役に立てて良かったよ」


 頬を赤らめ、西小路から恥ずかしそうに顔を背けるエイク。西小路は名刺入れから名刺を取り出し、裏に何かを書き始める。


「また何かあったら・・・・・・はい、これ」


 エイクは西小路から、彼のチャットアプリのIDが書かれた名刺を受け取った。予想外の収穫に、エイクの心臓は跳ね上がった。エイクは動揺を悟られないように平静を装いながら、用事があるからと西小路の前から去っていった。


「エイク君、またねー」



 それからエイクは箕面市小(お)野(の)原(はら)にある邸宅で、八十代くらいの上品な老婦人の肖像画を描いていた。現在の婦人ではなく、彼女が若かりし時の写真を見て、それを絵にしていた。

 老婦人は椅子に座り、バラの刺繍(ししゅう)のパッチワークをしていた。エイクが絵を描く姿を見て穏やかな口調で、


「エイクさん、何かいいことがあったのね」

「え?」

「いつもは淡々と描いているのに、今日は表情も柔らかくて。なんだか嬉しそうだわ」


 老婦人が柔らかな笑顔でエイクに微笑みかける。


「そうですか?」

「えぇ、なんだか、恋をしているみたいな」

「そ、そんな・・・・・・恋だなんて・・・・・・」

「青春ね・・・・・・ウフフフ」


 エイクは西小路の顔が脳裏によぎり、顔を赤らめる。そんな彼を見て優しく笑う彼女に、話の矛先を自分から変えようと、


「お、おばあちゃんは・・・・・・どんな恋をしてきたの?」


 エイクは老婦人に尋ねる。


「まぁ、エイクさんったら」

「お、おばあちゃんが先に言ってきたから・・・・・・」

「ウフフフ・・・・・・そうね」


 老婦人は刺繍をテーブルに置き、老眼鏡を外す。そして目を閉じて、昔の記憶を辿りながら、懐かしむようにゆっくりと話し始めた。



『戦後1960年代、私は姉と小さなアパートで二人暮らしをしていたの。私は百貨店の店員をしながら、女学生時代からお付き合いしていた、初恋相手と婚約をしていたわ。

 彼は外務省に務めていて、海外赴任から帰国したら結婚しようって、彼と約束していたの。「必ず君を迎えに来る」って言っていたのだけど、数年が経っても手紙の一つも来なくなっていたわ。

 そんな時にね、当時百貨店の上司で、出世を期待されていた男性から求婚されたのよ。その事を姉に相談したら、その人は地元では裕福な家系の出で、誠実な方だったから、姉も喜んでくれて・・・・・・私はその男性からの求婚を受ける事にしたわ。それが、隣の部屋のお仏壇の写真に写っている、私の主人よ。私達は結婚して、子供に恵まれて、とても幸せだった。

 でもね、それから五年ほど経ったある日、姉から「実はあの人から手紙が届いていたの」って打ち明けられてね。その手紙が来たのは、主人から求婚された直後くらいだった。姉は私の幸せを思って、その手紙を見せなかったのよって。手紙の内容はラブレターでね、「もうすぐ帰国出来そうだから、待っていてくれ」って事も書かれてあったわ。

 そんな事を今更聞かされて、それはもう怒ったわ。「どうして私に決めさせてくれなかったの!」って。姉は私に、「あなたには裕福な家庭に嫁いで、幸せになってほしい」って言っていたわ。それにね・・・・・・主人は本当に誠実な人だったの。私が骨折して入院した時も、脳炎で倒れた時も・・・・・・。当時はデパートがとても繁盛(はんじょう)していて、主人も出世を期待されていたのに。あの人は、仕事よりも、出世よりも、何よりも、私を一番に大事にして、気にかけてくれて、いつもお見舞いに来てくれたわ。私は彼から、本当に誠実に尽くし愛されてきました。彼と引き合わせてくれた姉にも、今では本当に感謝をしているわ。』



 老婦人は微笑みながら、うっすら浮かぶ涙を拭う。


「私は幸せでした」


 エイクは筆を止め、彼女の話を静かに聞き入っていた。それから口を開く。


「ねぇ、おばあちゃん。もし天国で会えるとしたら、どっちに会ってみたい?」

「ウフフフ・・・・・・それは秘密よ。それに、こんな皺(しわ)くちゃになった姿なんて、恥ずかしくて見られたくないわ」


 老婦人はニコリと笑う。


「て、もう・・・・・・エイクさんったら。私はまだお迎えなんて来そうにないわ。この通り、元気なおばあちゃんよ」


 小さく両腕で力こぶをつくる仕草をする彼女に、


「ご、ごめんなさい!」


 と、エイクは慌てて謝った。老婦人は再び刺繍を手に取り、筆を走らせる彼を見つめる。


「エイクさん、あなたはどんな恋をしていくのかしらね。ウフフフ」



 エイクは邸宅からの帰路の途中で、ハワイアンレストランの前を通りかかっていた。


「あ・・・・・・あれは西小路君。それにかやのさんに小野原さん」


 そこでテラス席に座る西小路とかやの、紅葉の三人を見かけたのだった。

 パンケーキを切る西小路と、それをかやのに食べさせる紅葉。テラス席で楽しそうに笑いながらパンケーキをシェアする光景を眺めるエイク。西小路の笑顔を見つめるエイクは急に暗い表情になり、


「ワタシは・・・・・・あの中に入っていけない・・・・・・」


 そう呟き、一人悲しそうに帰宅していった。



 その日の夜、エイクの自室。エイクはシャワーを浴びていた。まるで悲しさを洗い流すように・・・・・・。細身の体には似合わない濃い胸毛に、シャワーの水が伝う。

 シャワーを終えたエイクはテレビをつけた。無料動画サイトに接続し、古事記のイザナギとイザナミの恋を描いたアニメを視聴する。



 画面の中で美青年のイザナギが天(あまの)岩戸(いわと)の前で、黄泉(よみ)の国へ行った妻のイザナミを待っていた。妻が黄泉の国の神に、生者の国に帰っても良いかの伺いを立てている間、彼は妻に言われて岩戸の前で待っているのだ。しかし、待てども待てども妻は帰ってこない。イザナギはついに待ちかねて、岩戸を開けてしまう。妻からは自分が出てくるまで、決して開けてはいけないと言われ、約束までしていたのに。


「イザナミ・・・・・・まだか?」


 岩戸の中に入り、先に進むとそこには、愛おしい妻のイザナミがいた。だが、生前の美しい姿の妻ではなく、身体の所々が腐り果て、醜い姿になっていた。


「見ないと約束したのに!」

「ギャアァァァァァ‼」


 約束を破られ、醜い姿を見られたイザナミは怒り狂い、イザナギを鬼の形相で追いかける。イザナミは数多の死(し)霊(りょう)を使役して、逃げるイザナミを追い詰めるが、あとすんでの所で岩戸を閉められて、夫に逃げられてしまう。


「イザナギーーーー‼」


 岩戸の向こうでイザナミの悲しみが籠った憎悪の叫びが響いていた。



 翌朝、エイクがバラの水やりをしていると、うどんこ病にかかっている葉を見つけた。彼は白い斑点(はんてん)のついた葉を切り落とし、他にも病気の葉がないか探しながら剪定(せんてい)をしていると、バラの棘(とげ)がエイクの指にチクッと刺さる。指から血が流れ、ポタリと落ちた。


「痛っ・・・・・・」


 エイクは棘が刺さった指を口に含み、垂れる血を止める。

 この日は休日で、バラの世話が終わった後、エイクはベッドに仰向きで寝転がり、スマホに目をやる。画面には西小路の連絡先が表示されていた。


「・・・・・・そうだよね。来てない・・・・・・よね」


 エイクはスマホを枕元に放り、額に手を当てて深い溜め息を吐いた。連絡先を交換できた。嬉しかった。でも自分から送ることは出来なかった。何でもいい・・・・・・ただ、彼からのトークが送られてくるのを待った。きっかけが欲しかった。


「きっかけ・・・・・・そうだ」

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