第8話 織り込み、織り込まれ

「わたし、実は涼香すずかさんたちと同じ中学だったんです」


「え……?」


隣の席の沙織さおりのその言葉に、涼香は目を見開いた。


「そんな、あり得ない」


「どうしてそう思いますか?」


「沙織がいたのに、知らなかったはずがない」


「それは、どうしてでしょうか?」


柔らかに、沙織が言った。


「だって、沙織……沙織みたいに可愛い子がいたら、知ってたはずだから」


「そうですね」


沙織の笑顔は、嬉しいようで、寂しいようでもった。


みたいに可愛い子なら」


「え……っ」


その瞬間、涼香の頭の中にある人物が思い浮かび、その人の面影が側の沙織と重なった。


「もしかして、2年……A組」


「はい。クラスメイトでした」


「いつも無口で、髪の毛ぼさぼさで、顔隠すような前髪で……」


「実際、隠したくて伸ばしてました」


「なんか、すっごい縁の太いメガネの」


「ちなみに今はコンタクトです」


「で、でも、2年A組に夏山なつやまって子はいなかった!」


「苗字、家庭の事情で変わったんです。あの時はまだ神田かんだでした」


涼香の思い出したその子が、目の前の沙織と重なる。何もかも違うけれど、体格や、前髪でも隠せない口の線などは、確かに沙織と同じだった。


「……う、そ」


「本当です」


沙織の声は、今でも柔らかかった。


「本当に、頑張りました。涼香さんが、わたしに力をくれたおかげで」


「でも、でも私、その時には沙織に……何も……」


「ええ、言葉一つ交わしてなかったですね。でもそれは、わたしが何も喋れなかったのが理由です」


言葉に力を込めて、想いを乗せる。


「涼香さんはただ、いつもそうするように、自分自身のまま眩しくいてくれただけ。わたしが勝手に救われただけ。でも、わたしは今でも思います」


穏やかに、強く。


「わたしがあの時大事に至らなかったのは、涼香さんのおかげです」


みんな、辛気臭いのは大嫌いですからね、と苦笑いする沙織の言葉に涼香の記憶の中のあるシーンが掘り起こされた。


「涼香さんが、わたしがイジメされそうになった時に助けてくれたから」


『みっともないよ、あんたたち』


中学2年生の時の自分が言ったことを思い出す。


「それは……そういうこと自体が嫌いだから」


沙織という個人を助けたかったとは―


「ええ、分かっています。わたしじゃなくて他の誰かでも、涼香さんは助けたんでしょう」


だけど沙織は、だからこそ、とはっきりと言った。


「わたしはそんな涼香さんが世界一綺麗で、誰よりも眩しく見えました。憧れました。だから近づきたかった。わたしも涼香さんみたいに綺麗に、堂々になりたかったんです」


沙織はふふっと笑った。


「その想いが、わたしの力になったのです」


涼香の頭の中に過る景色。それは紗織がはじめて自分に告白をしたその日のこと。


、想いを告げたその日の紗織のこと。


「じゃあ、紗織は、ずっと……」


「この恋に気づいたのは、1年前」


それはとても素敵な日でした。


「この想いが恋になったのは、2年前」


貴女に救われたその日に。


「この想いの始まりは、3年前」


美しい貴女にすれ違った、とある日から。


「言ったでしょう?初デートの日に」


紗織は可憐に笑った。


「涼香さんのことを待つのは、楽しいって」




それは沙織の人生の中で、最も辛い時だった。


自信も、自尊もすり減らされる毎日だった。前には当然のように作れた友達が、作れる訳のないナニカになっていた。


父と母はいつも喧嘩していて、最初は仲直りをして欲しかったけれど、やがてただ静かになって欲しいだけになった。その考えが段々強くなって、もういっそ自分が消えれば、何も聞こえなくなるんじゃないか、じゃあ静かになるんじゃないか、と思い始めるようになっていた。


一番ひどかったのが中学2年生の時だった。辛気臭い自分は、嫌われても仕方がないとは思った。だけどそれを通り越し、直接面と向かって暴言が吐かれた時は、目の前が真っ暗になった。胸の奥に熱く、毒々しいものが広がった。


「そういうの止めれば?みっともないよ、あんたたち」


(え)


涼香の声がその時響き、清い水のように沙織の胸の奥の毒を洗ってくれた。


沙織が恐る恐る顔を上げると、一番最初に沙織に侮辱の言葉を吐いた子はその声にびっくりして、虚を張っていた。


「はあ?関係ないでしょ、立花たちばなには!」


「そりゃあそうかもだけど、みっともないよ?」


言って一秒後に、しっかりと考えてみたと言わんばかりに彼女は付け加えた。


「うん、ホントみっともないね」


ポカンとした沙織は、教室の中で喧嘩が始まるのを眺めることしかできなかった。


それから沙織は、立花涼香という少女のことを目で追うようになった。


最初は、不思議だった。この人はなんで自分なんかのことを助けてくれたんだろう、と。


それが涼香にとってはただ、やりたいことをやっただけって気づいた時には、呆れた。


その感情いつの間にか憧れになった。あの人のようになりたい、と思うようになった。


そして気づいた時には、恋になっていた。あの人にも自分のことを好きになってもらいたい、と思うようになった。


だけど今の自分なんか、誰も好きになんかなってくれやしない。当然だ。自分の両親すら自分のことが好きじゃないから。


同年の冬に、やっと父と母が離婚して、色々あって一人暮らしすることになった。


やっと静かになった。やっと静寂の中で眠れるようになって、ある日彼女はぼんやりと思った。


今の自分じゃあ涼香に好きになってもらうなんて無理だ。


「……じゃあ、変わるしかないじゃん」


だから変わることにした。


背筋を伸ばす習慣をつけるようにした。ダイエットもした。ファッションとメイクの勉強もした。人の目を見て話す練習と声をはっきり出す練習もした。


たくさん失敗して、たくさん恥ずかしい思いをした。


でも頭の中の涼香がいつも力をくれた。


胸の中の想いは、時間が経てば経つほど強く、愛おしくなった。


(好きです)


沙織は頭の中で囁いた。


(本当に、大好き)







自分ってみっともないな、と白上しらかみは思った。


涼香からわざわざ違う高校に行って、彼女から離れたのは自分が選んだことだ。なのに今になって胸の中が苦しいなんて、わがままにもほどがあるだろう。


「……最悪」


また涙が出てきた。こんなんじゃ絶対あいつにバレるのに。


トイレの個室で涙を拭きながら、白上はふと思った。いつからあいつのことが好きになったんだろう、と。


記憶を探ってみる。確かに、出会ってから最初は仲が悪い方だったはずだ。いいや、悪い方じゃなくて、はっきりと悪かった。昔は喧嘩ばかりしたはずだ。


じゃあ、いつ友達になったんだろう?と考えてみても、ピンと来ない。だけど涙を指で拭った瞬間、その感覚が記憶の中に眠っていたものを掘り起こした。


小学4年の時の冬だった。あの時自分は、独りぼっちで学校のすみっこに隠れていた。


(ああ……)


その時に彼女を見つけてたのが、当時はまだ険悪な仲の涼香だった。


(そして第一声で言ったよね)


つい笑っちゃいそうだった。


(泣きたいなら泣けばいいのにって、ね)


もし思い出に色をつけるなら、その思い出には桜色がぴったりだろう。


白上はそう思って、まだ目元には涙があるけれど、クスクスと笑ってしまった。

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