第5話 知らないで君へ、知らなくても貴女へ

『わからない』は苦しい。


教室の扉の前で、涼香すずかはそう思った。


わからないからハラハラする。


わからないから胸の中が苦しい。


この扉の向こうに、沙織さおりはいるんだろうか。いるなら、自分が入ってきた時に彼女はどうするんだろう。


もし彼女が自分を知らないふりをしたら、自分はどんな気持ちになるんだろう。


もし彼女が自分への恋を隠さなかったら、クラスメイトたちはどう反応するんだろう。


わからないから、不安だ。


結局、自分の唯一の友達に昨日出した答えもそれだった。


「わからない」


「……」


テーブルの向こうの白上しらかみは、何も言わずに待っていた。


待ってくれていた。


ポツリと、涼香の口から言葉が漏れ落ちた。


「私、好きとかよくわからないから」


「……そっか」


白上が言った。


「じゃあ、その子には?」


「わからないって言ったよ、その子にも。そしたら……」


白上はもう一度、待ってくれた。


「それでも大丈夫ですって。待ちますって」


「……そっか」


そして白上は言った。


「いい子じゃん」


「私たちと同い年よ」


「でもいい子じゃん」


「……そうね。あんたの言う通りよ」


「でしょ?あたし、天才だシ」


にひひ、と白上が笑った。


「あたしはさ、すずちゃんが誰と付き合うとか、男女関わらず全然いいと思うけど、一つだけは約束して欲しいの」


「何?」


「これからも、嘘はつかないで欲しいんだ」


と、彼女は言った。




「……嘘はつかないで、てね」


教室の扉の前で涼香は、白上の言葉を思い浮かべていた。


嘘をつかない。他人にも、だけど他よりも自分自身に、嘘をつかないで、と。


なんでだろう。


わからないのはそのままなのに、不思議にも不安が和らげた。


ふぅと息を吸い、吐く。背中をちゃんと伸ばし、扉に手をつけようとしたその瞬間。


「あ、涼香さん!」


甘い声が後ろから聞こえた。誰の声か一瞬でわかった。


振り向いた先には、自分に手を振りながら走っている沙織がいた。


(歩いても遅刻しないのに)


と思ったけど、違う。沙織は一秒でも早く自分のいるところに着きたいのだ。


「わっ、わあっ!」


すぐ前まで来た沙織が足を踏み間違え、転びそうになった。だけど反射的に涼香が差し伸べた手を掴んで転ばずに済んだ。


「大丈夫?走らなくてもよかったのに」


「ご、ごめんなさいっ……涼香さんを見つけたら、つい」


恥ずかしそうな沙織を真顔で見ていた涼香は、一秒後にプスッと笑った。


「す、涼香さん??」


「ううん、ごめん、なんでもない。おはよう」


自分が教室の前で悩んでいたのが、何故かその瞬間バカバカしくなって、それが可笑しくて、笑ってしまった。


「はい……!!おはようございます!!!」


顔を太陽のように輝かせながら、沙織は元気よく挨拶した。


「お、沙織……あれ、立花……さん?」


沙織の友達の一人が沙織に声かけたけど、涼香の存在に気付いた途端口ごもった。喋ったこともないし、そもそも沙織と涼香という組み合わせ自体にびっくりしちゃったみたいだった。


(これからどうしたいの?)


涼香は自分自身に聞いた。


クラスの中では沙織を無視し、知らないように装うのもできる。沙織もそれが涼香の望みならばそうしてくれるだろう。


だけどそれは、自分に恋をしてくれている沙織のことを傷つけるに違いない。


それは嫌だった。


「おはよう、栗原くりはら


「お……おう。知ってたんだ、私の名前」


「クラスメイトだから」


「そ、そう……え……と」


栗原の視線が沙織に、涼香に、二人の間に行ってから、再び涼香を辿って沙織に落ち着いた。


「あんたたち、仲良かった……っけ?」


「あ!最近仲良くなったの!」


沙織が言って、涼香は思った。


ね)


嘘ではなく、本当でもなく、そのはざまを彷徨っている言い方だけど、だからこそ一番相応しい。


「聞いて聞いて!涼香さんってさ、超ーーーーさ!すごいの!」


「お、おう。どこがそんなすごいん?」


「それは―」


チラッと、沙織の視線が一瞬涼香に、


「たくさんあるけど、一つ言うなら……」


そして栗原に戻って、


「以外と、ちゃんと見てくれてることかな」


「……は?」


栗原が頭を傾げた。


「見るならうちだってみとるっちゃうんけ」


「まーね!小豆あずきは昨日何したの?」


ニコニコと笑顔で栗原と一緒に教室に入っていく沙織は、片手を背中に回して、指を三つ立てて見せた。


涼香には沙織の声が聞こえたような気がした。


『涼香さんの好きなところ、その3個目です。ありがとうございます、気を配ってくれて』、と。


「……よく言うよ」


涼香は呟き、心の中で付け加えた。


(君の方こそ、私を見てくれてるくせに)


扉の前で沙織が振り向いた。


「ね、涼香さん、入りましょ?」


沙織の側にいる栗原は、未だに涼香のことがぎこちないらしい。それも当然だ。


「ごめん、ぼうっとしてた」


さて、と。一歩、二歩、と。


今までとは違うところに、行ってみよう、と。


「そーいやさ、さおりんってなんで立花たちばなには敬語なの?大丈夫?弱み握られてる?」


「失礼ね。栗原のも握ってやるよ」


「怖い!?!?ねえ、この人怖いんだけど!?」


「ぷふっ……ふふふっ」


沙織が笑った。


楽しそうに、嬉しそうに。







あーあ。


いい空だ、と白上しらかみゆきは思った。春から夏に移っている今の季節に相応しい、いい空だと。


のことを思うには、特にいい空だった。


「……ったくよ」


告白なんかもらっちゃって。


あたしを置き去りにしちゃって。


と頭の中で毒をついてやったが、あまりすっきりしない。


そもそも置き去りにしたのは、涼香じゃなくて白上の方なのが大きいのだろう。


「嘘はつかないでって、偉そうに言ったけどなぁ」


人って難しいや。


自分自身のことも含めて、難しいや。


今胸の中が苦しい理由がわかりそうでわからない。こんな簡単なこともわからないあたしって、やっぱ、バカだ。


白上の頬に一筋の涙が零れた。


救えないほどの、大バカだ。







「そういやさ、なんか変な話があったよ」


栗原がハハッと笑って言った。友達たちも笑うと思いながら。


「なんか、さおりんが誰かと付き合ってるって」

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