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「先輩、大丈夫ですか?」

 視界の端に白い腕が伸びて横を向くと、すらっと背の高い色白の男子生徒が涼しげな顔で水を差し出していた。目を引くような甘く整った顔は学校で何度か見た覚えはあっても、名前までは知らない生徒だった。確か一年生だっけ。先輩って言ったし。

 大丈夫、と答えると男子生徒は心配そうな顔を浮かべながらもペットボトルを持った手をそっと下ろして、僕の横に置く。

「水、飲んだ方がいいですよ」

「ああ、ごめん。ありがとう」

 避難所まで逃げてきた集団の中にこの男子生徒も居たのだろうけど、誰が避難所まで辿り着くことができて避難所に着くまでに誰が死んだのか僕にはわからない。避難所に着いてから人の顔をちゃんと認識したのは今、この男子生徒が初めてだった。

 遠くのひかりを見る横顔のラインがきれいで、どことなく儚い印象を覚える。ここに辿り着いてからずっと頭がぼんやりとしていて、僕だけずっと遠いところにいるような感覚だった。

「僕は真海を失くしたくなかったのに」

 話したこともない後輩に真海の話をしたって何にもならないと頭では分かっているのに、熱でもあるのかもしれない、気づくと口が動いていた。

「彼女ですか?」

 首を横に振る。僕と真海は恋人なんてきれいな関係じゃない。真海の愛を利用して支配していただけの関係を、そんなきれいな言葉で表してはいけない。

 僕らはもっと汚い関係で、それを選んだのは他でもない僕で、そのせいで真海は僕から離れた。縋るように真海のローファーを胸に強く抱きしめる。

一玄かずはる先輩は、やっぱり失くしてから気づくんですね」

 彼がどうして僕の名前を知っているのか気になったけれど、それ以上にその後の言葉が引っかかる。

 じゃあ、教えてよ。どうすればよかったんだよ。どうしたら真海はずっと僕の傍に居てくれたんだよ。

 もう真海はいない。倒壊した校舎の瓦礫に埋まっている。もう砂糖のような甘い愛は溶けて消えかけている。ずっと与えていて欲しかったものが、離したくなかったものが失くなっていく。

 思わず涙が溢れて目元を押さえる。自分がこんなに涙を流す人間だったなんて知らなかった。ぽた、と僕の涙が真海のローファーに落ちて、流れていく。

「可哀想ですね、一玄先輩」

 横目で見ると、全てを見透かしたような目でおれを見つめていた。彼の真意は掴めないまま、視界を手のひらで塞ぐ。そんな目で見ないで。

 何かを伝える視線をなかったことにしたのはこれで何度目だろうか。

「さよなら」

 最後にそう聞こえた気がして隣を見ると、さっきまで居た男子生徒の姿はなかった。残された天然水のペットボトルだけが存在している。


 世界の終わる音が段々と近づいてくる。真昼の白い月から落ちる青ざめた眩いひかりが、日陰の境界線を越え、靴の先に落ちてきていた。

 彼女の残した痕だけが、まだ熱を帯びて消えないでいる。



【了】

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ひかりの海を泳いで 戸塚由絵 @tozukayue

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