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 避難所の小学校に来て数日経っても救助は来ず、今だに何が起こったのかわからないまま時間だけが過ぎていく。真上にある七月の太陽がじりじりと地面を灼いているものの、どうしてか暑さを感じなかった。というか、最初に揺れがあったあの日から身体の感覚が明らかに鈍っている。轟音と揺れはまだ続いていて、インクで塗ったみたいに鮮明な青い空からはまばゆい光の柱が何本も伸びている。きれいなのにおそろしく、不気味な光景だった。

 避難所にはざっと見て五十人ほどいるけれど、全員が魂が抜けたみたいに俯いて喋らない。

 避難所は暗く、ずんと空気が澱んでいて誰もいないみたいに音がしない。みんな、来ない助けをずっと待っている。


 あの日、最初の揺れがあったとき、教室に残っていたのは僕と友達の二人と、あと真海と同じグループの石田たち三人だけで真海は丁度席を外したところだった。


 突然揺れが来た。何気ない会話をしていたら聞いたこともないような轟音がしてどんっと地面を疲れたような強い縦揺れに女子たちの悲鳴があがった。強い音を立てて教室の机や椅子が倒れ、石田の飲んでいたミルクティーが白いリノリウムに溢れて広がっていく。

 何が起こったのか考えるよりも前に、真海が教室にいないことが一番に気になって恐怖心でいっぱいになった。


「真海は?」

 教室ではいつも水川と呼んでいたから突然の名前呼びに僕の友達も石田たちも驚いていたようだったけれど、状況が状況だからかそこには触れずに美術室に行ったことを教えてくれた。揺れが収まらない中、教室を出ようとすると廊下に居た先生に止められてみんなと一緒に避難することになった。みんなとグラウンドに移動して真海を探したけれどどこにも居なくて正気を失いそうになるのを必死で押さえた。


 校門へ走る途中、振り返った先に真海の姿を見つけて安心した。

 真海は集団の後ろ、少し離れたところを下を向いて走っていて、僕には気づいていないようだった。真海が着いてきていると思い込んで安心して、それから振り返ることはしなかった。今思えばそのときに真海の手を掴んで一緒に逃げるべきだった。


 真海がいないことに気づいたのは校門を出てしばらくしてからだった。振り返るといるはずの真海の姿がなく、最初は何があったのか理解できずにいた。恐怖だけが僕の身体中に広がって、心臓がどくどくと嫌に響く。考えて、真海が校舎に戻ったのだと気づいたときにはもう高校からかなり離れてしまっていた。

 避難する集団を抜けて小鳩高校に戻るか悩みながら、まだ真海が遅れて現れる可能性があると思って集団の一番後ろをゆっくり走った。けれど、何度振り返っても真海は現れなかった。


 それからすぐ轟音とともに大きな揺れがきて、土砂と山の上に建つ倉庫の瓦礫が僕の前を走っていた人たちに降り注ぎ、飲み込んだ。僕の友達と真海の友達が一瞬で土砂に巻き込まれて潰されるのを目の前で見た。叫び声が一瞬で消えて土埃が舞う。避難に巻き込まれなかった人たちが走り去っていくのが瓦礫の山と土埃越しに薄らと見えた。


 何人死んだかわからない。一番後ろにいたおかげで巻き込まれず一人残された僕は土砂が収まるまでしばらくそこで立ち尽くしてた。さっと血の気が引いて、身体ががたがたと震えた。怖いのに、そこに真海がいないことに安心している自分がいた。


 高校の校舎も崩れているかもしれない。

 すぐに小鳩高校へ戻ろうとしたけれど、瓦礫の下からまだ生きている人の声がわずかに聞こえて足が止まった。誰かの名前を呼ぶ声や、助けて、痛いと言う呻き声が瓦礫の下から漏れていて、僕を引き止めようとしているみたいだった。それなのに僕は助けられるかもしれない命を無視して、気づけば真海の元へ走り出していた。



 小鳩高校に戻って唖然とした。高校は全ての校舎が崩れ去っていて、コンクリートの残骸が山になっていた。

 真海がまだ生きているかもしれないとそう願いながら校舎を歩いて回ったけれど、真海はどこにも居なくて、美術室のある四号館の近くで靴を片方見つけた。ブラウンの少し底の厚い二十三センチのローファー。僕の家の玄関で何度も見た真海のローファーと全く同じだった。


「真海!」

 僕は四号館だった瓦礫の山で真海を探した。重いコンクリートの塊を必死に退かしながら、何度も名前を呼んだ。硝子で手が切れても、血が溢れても、どんなに痛くても気にならない。僕は真海に生きていて欲しかった。ただ真海に会いたかった。


「真海」


 愛おしい名前を繰り返す度に涙が溢れ出して止まらなかった。

 何度呼んでも真海の声は聞こえなくて、どこにもいなくて、僕はその場で子どもみたいに泣き崩れた。

 血塗れの手で真海の靴を抱きしめる。失いたくなかったから愛を渡さなかったのに、真海はたった一足の靴とキスの痕だけを残して僕の前からいなくなってしまった。



 気がつくと陽は落ちていて夜の闇が真海の髪を思い出させる。それだけでもうだめだった。「一緒に帰ろう」と初めて僕に話しかけてくれたときのこと、ハンバーグが上手にできてうれしそうに笑う顔、僕の名前を呼ぶ甘い声、真海との思い出が波のように押し寄せて僕を飲み込んで動けない。


「真海」


 いかないで。僕を置いていかないで。ひとりにしないで。愛していて。僕を忘れないで。

 涙が止まらないまま僕は真海の靴だけを抱いて、愛おしい名前を忘れないように何度も、何度も繰り返した。



 それからのことはあまり覚えていない。動けなかったはずの僕は気づけば鶫森小学校の体育館に居て真海のことだけをずっと考えている。


 あのとき、小鳩高校から避難するとき、確かに真海は後ろにいるはずなのに気付くといなくなっていた。僕を追いかけて来てくれていると安心した自分の愚かさに嫌気がさす。

 真海は最後に僕を試した。僕が真海の元へ戻るのを待っていたに違いない。それなのに僕は、真海を置いて逃げてしまった。



 僕は真海のことを誰よりも愛していた。

 蝕んで留めておきたかった。呪いをかけていたのに、それも意味がなかった。

 真海の顔を思い出す。出会ったときは笑ってばかりの真海だけれど、ここ数年の真海を思い返すと悲しそうな顔だけが浮かぶ。映さないようにしていたはずなのに記憶に鮮明に焼き付いて消えない。

 好きだと言わなければ、僕が愛を見せなければ、真海をずっと縛っておけると思った。どれだけ傷ついても真海は僕の傍に居てくれると思い込んでいた。

 愛することなんてきっと、多分簡単だった。なのにその方法を知らない僕にはそれができなかった。愛なんていう脆い鎖で人は縛れないと信じてきたのだから。


 これは罰なのかもしれない。罰なのだとしたら僕を生かしてはいけないのに、どうして僕はこうして息をしているんだろう。


 もういない真海のローファーを抱きしめる。

 まだ真海がいなくなったと認めることができないまま、ぼくはひとりでここにいる。

 さよならなんて言えるわけがなかった。彼女がいない世界で、ひとりで生きていくなんて僕にはできない。


「真海」


 名前を呼んで、僕だけが知る真海の姿を何度も何度も反芻して、縋っている。


 彼女のいない世界で、えいえんに。

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