光芒

1

 はる、と名前を呼ぶ甘い声が頭の中で鳴っている。

 薄いブルーのワイシャツの下には真海がつけたキスマークがまだいくつも残っていて、赤く残った痕がまだ熱を帯びているような気がしてシャツの上からなぞる。消えないで、と祈る。

 真海が「好きだよ」と言ったあとに浮かべる悲しげな表情が脳内で再生を繰り返している。あのとき僕の瞳は何も映さないようにしていたはずなのに、しっかりと真海の表情が焼きついていて嫌になる。

 見たくなかった。真海にあんな顔はさせたくなかった。けれど、僕の「あいしてる」で真海が満たされてしまったら、母と同じように僕の前から姿を消してしまうような気がして、僕から真海へ愛を渡すことができなかった。それなのに僕は真海の愛をいつだって欲しがっていた。

 真海にどこにも行って欲しくなかった。ずっと僕の傍にいて、僕の心配をしていて欲しかった。砂糖のような甘い愛をえいえんに与えて欲しかった。

 一度でも真海に好きだと言えばよかった。言うべきだったと後悔してももう何もかも手遅れで彼女には届かない。僕は真海にも、それ以外にも本心を明かせたことはない。

「お母さんはもう帰ってこないから」

 真海の映像が脳内で繰り返される中、一瞬、あの日の父の姿が再生された。僕はあのとき、やつれた父の表情を見ながら可哀想だなと思った。父も、僕も、可哀想。

 母親が家を出て行ったのは僕が小学二年生のときだった。今でもよく覚えている。

 やさしい父と母が好きだった。温かいまなざしで見つめ合い笑う二人を見るのが好きだった。母と父は仲が良くて、何気ない会話をして笑い合うその温度が好きで、三人で食べる温かいごはんがとても、好きだった。

 父は母を大切にしていたと幼い自分は思っていたし、母も同じだと信じてやまなかった。疑う余地すらなかった。喧嘩なんて見たことがなかったし、家族旅行にも沢山行ったし、父と母と三人で暮らしていたときは毎日しあわせを感じていた。のに、ある日突然母親はいなくなった。ダイニングテーブルの上に父に宛てた手紙だけ残して、僕には何も残さずに消えた。

 しばらくしてから母は新しい男を作って出て行ったのだと父から聞かされた。その男との間に子どもがいて離れた土地で暮らしていると。

 父と母はあんなに仲が良かったのに、愛し合っていたはずなのに、母は簡単に父と僕を捨てた。あの食卓の光景が悪夢のように頭にこびりついて消えず、今でもふとしたときに思い返しては胸の奥がぎゅっと痛んだ。

 父はもう母からの手紙を残していないようだし、実際はどんなことが書いてあったかはわからない。信じられなかったけれど母親が家を出て行ったことと僕に手紙を残さなかったことは事実で、それはまだ幼い僕には重すぎる罰だった。

 母親がいなくなったのと同時に愛で人を繋ぎとめることはできないのだと悟った。だからこそ、真海のことは恋とか愛じゃないもので縛っていたかった。絶対に離れてほしくなかった。僕から逃げてほしくなかった。

 僕はもうずっと前から真海に依存していて、それは恋愛感情の他ならないのに、いくら愛を注いだって意味がないことを目の前で思い知らされてしまったから好きだと伝えることがどうしてもできなかった。愛を伝えるのが何より、怖かった。

 僕は真海のものになってしまいたかった。そしてそれ以上に真海を僕のものにしたかった。

 対等な関係を築いてしまったら母みたいに突然いなくなってしまう気がしたから一方的に彼女を支配していた。縛り付けて真海が僕から逃げられないようにして、ずっと追いかけてくれるように好きを見せないようにした。

 皮膚をなぞっていた手を止めて、整えるように小さく呼吸をした。夏の日差しは日陰にいる僕のところまでは届かない。スニーカーの先にあるひかりと影の境界線に視線を落とすと、また脳内に真海の姿が浮かぶ。

「青野くん、一緒に帰ろう」

 母が家を出てすぐに転校して、四年生になったときに真海と同じクラスになった。母がいなくなってから無口になったせいか友達が全然できず、いつも一人で帰っていた僕を気にかけて、真海から声をかけてくれたのが始まりだった。最初は何を話せばいいかわからなくて戸惑っていたら真海の方からいろんな話を振ってくれて、すぐに打ち解けることができた。喋るのが苦手だった僕も真海と喋るうちに口数が増えて、気付けば学校でも友達ができて、普通の学校生活を送ることができたのは他でもない真海のおかげだった。それまで心から笑えなくなっていた僕は真海のおかげでまた笑えるようになった。今思えばそのころから真海は僕にとって特別な存在になっていた。真海がやわらかく愛らしい微笑みを浮かべて、甘く澄んだ声で僕の名前を呼ぶ。その瞬間が愛おしくて、幸福で、死んでも手放したくないと、そう思った。

 一方で、家では父は母に似た僕の顔を見たくないのかあまり目を合わせなくなって、出張で家を空けることが増えた。会話も減った。小学校高学年くらいになってから家を開ける頻度が更に増え、中学生になってからは月に一回くらいしか帰ってこなくなった。帰ってきたと思ったら生活費を置いて、僕の顔も見ずにまた家を出て行く。父からスマホを持たされていたけど、使ったことは殆どなかった。

 マンションの広い部屋で一人、インスタントラーメンやコンビニのおにぎりを食べて生活していた。嫌でも最低限の家事を覚えるしかなかったから、一人で生活するのには意外と困らなかった。不思議と寂しいと思うこともなかった。

 父が帰る家にはきっと別の誰かがいるんだろう。僕だけ一人、誰も帰って来ない家で時間が経つのを待っている。

「はる、昨日の夜は何食べたの?」

「カップ麺だね」

「はるってずっとカップ麺食べてない?」

「僕の家、誰もいないから」

「えっ。それってどういうこと?」

 中一になって僕がほぼ一人暮らしをしているということを知った真海が家に来るようになった。それまで父と二人で暮らしていると思っていたらしい。

 世話焼きな性格なのか、僕が一人でろくに食事をしていないことを心配して料理を作りに来てくれるようになった。食材は僕がスーパーで適当に買って、その食材で真海が僕にも作れそうなものを説明しながら料理をする。週に二回ほどの頻度で一緒にご飯を食べていた。真海が作るハンバーグが美味しくて好きだった。温かい料理を真海と食べる時間はほんとうにしあわせだった。ずっと続けばいいのにと心の中で何度も願った。

 真海が帰った後は、胸に残る寂しさに気づかないふりをして眠りについた。ずっと真海に対する気持ちに蓋をしていた。溢れてしまわないように、ばれないようにただただ必死だった。ずっと傍にいてほしいから必死に感情を押し殺し、愛を封じ込めていた。


 真海と初めてセックスをしたのは中三の冬だった。暖房から吐き出る生暖かい風を覚えている。

「はる、好きだよ」

 真海からその言葉を聞いたとき、僕はうれしくて心が満たされていくのと同時に不安に駆られた。いつか真海が僕の前からいなくなってしまうことが怖くて、僕はその言葉に「僕も好きだよ」と返すことができなかった。

「ありがとう」

 あいまいな僕の返事を受けた真海は察したようにむりやり微笑んでいたけれどその表情はひどく悲しそうで、そうさせたのは他でもない僕なのに心が痛くて、心が痛いのにこれで真海は僕のことを追いかけ続けてくれると確証もないのにそう思えて少し安心した。

 それから僕は以前みたいに真海を真っ直ぐ見つめることができなくなった。

「僕のどこが好き?」

「はるの笑った顔が好きだよ。元々あんまり笑わなかったはるが、わたしに笑ってくれるとうれしいの」

 悲しい顔を浮かべながら紡ぐ真海の言葉に胸が満たされていくのを感じながら、頭のどこかでまだ足りないと思ってしまった。もっと真海の愛を欲しいと乞う汚い自分がいた。

「はるは、わたしのことどう思う?」

「僕は」

 真海の僕の気持ちを再度確かめるような質問に「好きだよ」と口から飛び出しそうな言葉を飲み込んで、はぐらかすように真海にキスをした。真海はそのキスに愛がないことに気付いていて、今にも泣き出しそうな顔で小さく笑う。僕も咄嗟に笑顔を作って真海に向けたけれど、そのときの僕の笑顔はきっと真海の好きな笑顔じゃないんだろうなと思った。

「真海のはじめて、ちょうだい。僕のもあげるから」

 僕がベッドに押し倒すと、真海は「いいよ」と今にも涙がこぼれそうな潤んだ瞳で僕を見つめた。

 真海の中は温かかった。飲まれるみたいで、自分の中のどろどろした黒く澱んだ思いが真海の中に溶けていくみたいでひどく安心した。

 身体だけ繋がって、真海が僕を欲するように支配しようと思った。初めてを奪って、僕を忘れられないように僕から離れないように必死に腰を振った。

 それから僕はどうやって笑えばいいのかわからなくなって、真海にどんな笑顔を向ければいいのかわからなくなって、また笑うのが下手になった。それは真海も同じで、彼女は僕の前ではいつも悲しく笑うようになってしまった。好きな人の好きな表情がなくなったことに気づかないふりをして、映さないようにして僕は何度も真海を抱いた。

「はるは、わたしのこと好きじゃないのにこういうことするの?」

「真海はこういうの嫌?」

「嫌じゃないよ。はるがしたいこと、していいよ」

 真海を支配して、縛って、それはまるで呪いに似ていた。いつかこの呪いが解けてしまったら真海はおれの前から消えてしまう。だから真海を呪い続けて満足していた。

 真海が僕に縋るようにつけるキスマークがいつも僕を安心させてくれた。まだ僕を求めてくれているという証明のようだった。好きだと叫ぶように赤く熱を帯びる痕を愛おしいと思っていた。僕から彼女に痕を付けたくなかったのは単純に好きだと気づかれたくなかったからで、僕は必死に我慢していた。

 高校生になってから、真海は女友達の家に泊まると嘘をついて僕の家に来るようになった。 教室では青野くんと呼んで、夜は僕の部屋ではると呼ぶ真海が愛おしくて仕方がなかった。

 朝、目が覚めて真海が隣にいると安心した。真海の寝顔が可愛くて、愛おしくて仕方がなかった。抱きしめると細いのにやわらかくなめらかな肌が心地よく、しっとりとつややかな黒い髪がベッドに広がって、それが夜の海みたいでうつくしかった。

 自分勝手な欲望で真海を傷つけている自覚は嫌というほどあった。それでも真海を正面から愛することが怖かった。人の愛し方をちゃんと教えて欲しかった。

 ほんとうは、真海みたいに真っ直ぐに愛を伝えたかったのに。愛しても意味がないことを教えられてきた自分は哀れで何より愚かだ。自分のことばかりで真海の心配をしたことがなかった。ずっとわかっていたのに、わからないふりをして、ずっと見えていたのに見えてないふりをした。僕は最低な人間だった。

 どうか僕のことを忘れないで。最低な僕のことを憶えていて。

 気持ちを抑えきれなくてたった一度だけつけた呪いじみたあの痕はまだ彼女の右胸に残っているだろうか。

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