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 無意識に昨日小学校の体育館で見た靴を描いていた。かずはるくんのスニーカー。黒地に白のラインが入っているスニーカーには確か血がついていた。鉛筆を動かそうとして手が止まる。

 どうしてわたしはかずはるくんの靴なんて描いてるんだっけ。白いラインの部分が汚れていたけどどんな風に汚れていたか思い出せなくて鉛筆を止める。

 かずはるくんの顔が思い出せない。

 どんな声でかずはるくんはわたしのことを呼んでいたっけ。小学校から同じで今もクラスメイトってだけでそんなに仲が良かったわけでもないから、忘れても仕方ないか。

 記憶に靄がかかったみたいにの面影が曖昧に溶ける。そもそもどうしてわたしは青野くんのことなんて思い出そうとしてるんだっけ。途中になったクロッキー帳を一枚破って捨てた。

 クロッキー帳から視線を外すとその先にはみちるくんがいる。みちるくんは文庫本を読んでいて、真剣な表情がきれいで見惚れてしまう。レモンイエローの表紙が鮮やかで白く眩しい保健室の中で映えていた。

 みちるくんのまなざしを鉛筆でなぞる。わたしの熱を帯びた視線に気づいて「どうしたの? 真海先輩」と彼は首を傾げた。その表情が少し色っぽく見えて心臓がどくんと大きく鳴った。

「本読んでて。みちるくんを描いてるの」

「ほんとうですか? うれしい」

「十分で終わるからそのままでいてほしいの」

「わかりました。楽しみだな」

 目を細めて、今度は少年みたいに幼い表情でやさしく笑う。クロッキーだからそこまで細密に描く必要はないと分かっていても、手が勝手に頬に薄らと浮かぶ笑窪に影をつける。

 クロッキーなんていつぶりだろうか。期間が空きすぎていてクロッキーというよりスケッチのような描き方をしてしまう。

 最後にクロッキーをしたのは確か一年くらい前だった。同じ部活なのに美術部の子たちとはあまり話したことがなくて、みんな制作に没頭していたから、栂屋先生を勝手にクロッキーしていたけれど、それもいつからかしなくなった。感覚を取り戻すように手を動かす。

 みちるくんの顔はとても整っていて、その中でも横顔のラインが特にうつくしく、額から首の凹凸まできれいだった。元々がモデルみたいな美形で、血色のいい唇も白い肌も黒い髪も彼を彩る色彩は檸檬みたいに透明感がある。

 もっとみちるくんを描きたい。

 鉛筆の黒だけじゃなくて、もっと色を重ねて、油彩でみちるくんを描いてみたい。ずっと描きたいものが見つからなくてデッサンをしていたのに、こんなに近くにいたんだと今になって気づく。

 みちるくんを目に、心に、わたしの全てに焼き付けるように大切に大切に線をなぞる。今この瞬間のみちるくんの透明を忘れたくない。これからのみちるくんも一瞬だって見逃したくない。

「真海。真海ちゃん。真海さん」

 ページを一枚捲ってみちるくんが呟く。細く長い指の動きがきれいだった。

「なあに?」

「なんて呼ぶのがしっくりくるかな、って思ったんです」

 文庫本に視線を落としたままみちるくんが答える。

「まみがいいな」

「緊張するからしばらくは真海先輩」

 その言葉を少し残念に思いながらも「結局変わらないね」と言うと、みちるくんが楽しそうに笑うから、そこでやっとわたしのことを揶揄っているんだと気づいた。いじわるな笑みを浮かべるみちるくんは少し新鮮で、揶揄われているのにうれしくて一緒に笑ってしまった。

「ありがとう。描けたよ」

 十分のつもりが気づいたら三分越えていたし、途中スケッチになりかけたけれど、久しぶりにしてはうまく描けたと思う。文庫本を読むみちるくんのクロッキー。

「見てもいいですか?」

「いいよ。クロッキーって言って速描きみたいなものだけど」

 みちるくんがクロッキー帳を覗き込んで「すごい。これ十分で描いたんですか?」ときらきらした目をわたしに向けた。

「そうだよ」

「先輩、天才ですね」

「それは言い過ぎだね」

 笑いながらみちるくんの顔を見る。

 みちるくんの厚く血の通った赤い下唇が好きだ。わたしの視線に気づいたみちるくんと目があって見つめあう。ひかりをあつめて潤んだ瞳に飲み込まれそうだった。

「ね、先輩、こっちきて」

 みちるくんはわたしの手を引いて保健室のベッドに座る。昨日使ったベッドは布団を干してシーツを洗っているから、もう片方の使っていなかったベッドに並んで座った。

「真海先輩」

 わたしの身体を抱きしめる。

 みちるくんがわたしの名前を呼ぶたびに記憶していた誰かの顔が薄れるような気がしたけれど、その違和感をかき消すように幸福感が押し寄せる。さっき鉛筆でなぞった額から顎下までの先までのきれいなラインに指を滑らせる。はっきりしたなめらかな線で。

「真海」

 不意に名前を呼ばれて、胸の奥がぎゅっと疼いて熱くなる。

「先輩の反応、可愛いね」

 みちるくんだって恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべているくせに、わたしが気づいてないと思っているんだろうか。やっぱりみちるくんの方が可愛いなと思って頭を撫でたくなって、迷って、頬を摘むとみちるくんは子どもみたいに口を尖らせた。

「なんでつねるんですか」

「可愛かったから」

「やっぱりおれもどきどきするから、しばらくは真海先輩ね」

「同い年なのになあ」

 今度はみちるくんがわたしの頬をやさしく摘むから「なんでつねるの?」とみちるくんの真似をする。

「可愛かったからです」

 みちるくんもわたしの真似をして、そんなくだらないやりとりを二人で笑い合う。

「おれ、こんなにも人をすきになったの初めてです」

「わたしも、みちるくんが初めてだよ」

「ほんとう?」

「ほんとうだよ」

 ほんとうに、こんなにも心の底から人を好きになったのは初めてで、わたしに恋を教えてくれたのは確かにみちるくんだった。みちるくんだけだ。

 わたしの言葉にしあわせそうな笑みを浮かべて、みちるくんはわたしをやさしく押し倒した。シーツに皺が寄ってそれがまた波に見えて海を思い出す。

 まだ昨日の夜の熱が残る下腹部を大きな骨張った手で撫でた。心にも身体にもみちるくんが残っていてわたしはもう彼を忘れられない。焼き付いている。

「真海、だいすきだよ」

 みちるくんがわたしの身体を強く抱きしめて、それから長いキスをした。絡み合う舌が熱くて、思い出したように全身に残る彼の痕が疼く。みちるくんの左胸に手を当てると白く薄い皮膚を通して鼓動が伝わってくる。

 わたしたちは肌に触れ合って、求めあう。まるで溺れてるみたいだ。

 ね、みちるくんもわたしに溺れてる?

 手を伸ばして頬に触れて薄く浮かんだ笑窪を撫でる。みちるくんの透き通る瞳にはわたしが確かに映っている。


 わたしはみちるくんとふたりぼっちの世界を生きている。

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