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 保健室に戻って、みちるくんとシーツを洗った。水を絞るのが大変で二人がかりでなんとかしたけれど、物干し竿に干したシーツからはぽたぽたと水が滴ってコンクリートに染みている。

「先輩、似合ってますね。可愛い」

 半袖シャツはやっぱり落ち着かなくて、ジャージに着替えたわたしを見てみちるくんがそう言った。ジャージが似合うのはよく考えればあんまりうれしくはないけど、みちるくんに可愛いと言われるのはとてもうれしくて、思わずにやけてしまうのを手のひらで覆って隠す。大きいサイズも胸に入った刺繍も愛おしくて、彼の服を着ているだけなのにわたしは浮かれてしまっている。

「おれのジャージ着てるから白瀬先輩ですね」

「わたしがほんものの白瀬だね」

 ピースすると「何それ、可愛い」とみちるくんが笑い、椅子に座って天然水を一口飲んだ。わたしも隣の椅子に座ってペットボトルのサイダーを飲む。しゅわしゅわと口の中で泡が弾けて甘くておいしい。

 窓からひかりの差し込んだ保健室には蝉の声が響いて、少しくらくらした。隣にみちるくんがいるから、多分、余計に。

「蝉、すごい鳴いてるね」

「蝉の鳴き声聞いて安心するの初めてかもしれないです」

 虫は苦手だし蝉も嫌いだけど、いなかったらいないで怖いことを知ったわたしは「ほんとうだね」と頷いた。

「そうだ。美術室着いてきてくれる?」

 ふと手を動かしたくなったので、クロッキー帳と鉛筆を取りに美術室へ行きたかった。わたしの提案を快く受け入れてくれたみちるくんは「いいですよ」とやさしく微笑む。朝はプールを見に行きたいと思っていたけれど暑いからやめた。

「絵を描くんですか?」

「うん。手を動かしたくなって」

「あ。じゃあ、ついでに備蓄倉庫行きましょう。四号館の方だし」

 一日目にわざわざ鍵を取りに行っただけで結局備蓄倉庫には行っていない。手持ちのショートブレッドがなくなりそうだから、そろそろ備蓄倉庫の分を取りに行ったほうがいい気がする。もしかしてショートブレッド以外の食料なんかも置いてあるかもしれない。

 やさしい声で「はい、真海先輩」と差し出したその手を握って椅子から立ち上がる。

「行きましょうか、美術室」

 四号館の端にある美術室は一号館から行くとなかなか遠い。移動教室のとき遅刻しそうになってゆうちゃんたちと走ったのが楽しかったなんて思い返してひとりで切ない気持ちになる。

「夏だー」

「夏だねー」

 ジャージは長袖だしシャツより厚い素材なのに思ったより暑くなかったのが意外な発見だった。日陰を歩いているからそう感じるだけかもしれない。わたしの隣を歩くみちるくんは半袖シャツのままで、袖から覗く腕に薄くついた筋肉にどきっとしてしまう。

 保健室よりも蝉の声が大きく聞こえて、耳が潰れそうなほどだった。太陽のひかりが燦々と降り注いでコンクリートを灼きつけている。

 夏は暑いしからあんまり好きじゃなかったけど、みちるくんが隣にいる夏は好きになれそうな気がした。


 美術室は最初に揺れがあったときよりも更に荒れ果てていた。粉々に砕けた石膏の白いかけらの他に画用紙や画材が床に散らばっており、窓際の床にはわたしの鉛筆も転がっていた。あの鉛筆を取りに行ったときに揺れが来たんだっけ。

 もし教室に居てみんなと一緒に逃げていたら道の途中で死んでいたかもしれないし、みちるくんと出会うこともなかったかもしれない。

 あのときはタイミングが悪すぎて少し後悔したけれど、今となってみれば奇跡的なタイミングだったようにも思える。

 あれからもう四日も経ったのかと思うのと同時に、まだ四日しか経っていないのかという気持ちにもなって不思議だ。たった四日でわたしの見えるものは全て変わってしまった。それまでのわたしが何を見て過ごしてきたのか思い出せないくらいに。

「やっぱり美術室落ち着くなあ」

 いくら荒れていても美術室のにおいはまだ残っている気がする。それが思い込みかもしれなくて確かめるように息を吸い込んでみると、やっぱりかすかに油絵具のにおいがして、一瞬放課後の美術室に引き戻されたような気がした。

 放課後の美術室はいつも静かで、遠くから運動部の掛け声だけが聞こえていて、窓からはやわらかなひかりが差している。そんな中でイーゼルと向き合う時間が好きだった。

 今は蝉の鳴き声しか聞こえないし、日差しも強いけれどそれでもここにいると落ち着く。

「わざわざ遠回りして、真海先輩のことを見ました」

 グラウンド側の窓を指差しながらみちるくんが笑う。

 こんなに近くに来てくれていたのに気づけなかったなんてよっぽどデッサンに集中していたんだろう。頭を空にして必死に鉛筆を走らせていたわたしは何を考えたくなかったんだっけ。

 いろんなことがあったせいで、思い出せないようなことがいくつかあるような気がしたけど、どうせ大したことじゃないだろうから忘れたままにする。

「それで一目惚れして。集会のときとか、可愛いなあって。ほんと気持ち悪いですよね、おれ」

「そんなことないよ。すごくうれしい」

 うれしくて自然と緩んでしまう口元をばれないように手のひらで覆うけどきっとばれてるんだろう。

「実際に話してみて、もっと好きになりました」

「そんな要素あったかな? うれしいけど」

「好きになる要素しかないです。真海先輩がいちばん可愛いから」

 甘い言葉に胸がまたどきどきして、今度は顔を逸らす。みちるくんと居たら心臓がどきどきするばかりで持たない。

 わたしのことを好きになる要素なんて自分では全くわからないけど、みちるくんはわたしのことを見て知って、好きになってくれたことは疑いようがなかった。たった四日間でみちるくんは溢れるくらいの愛をわたしに与えてくれた。わたしも、みちるくんに愛を伝えたい。もっと、みちるくんを知りたい。

「これ、全部真海先輩の?」

 みちるくんが床に散らばったわたしの鉛筆を拾いながらそう言った。「そうだよ」と答えて、わたしも急いで腰を下ろして鉛筆を拾う。デッサンをするためだけなのに、数十本も鉛筆を持っているから拾うのも一苦労だった。

「こんなに鉛筆使うんですね。あと先も普通の鉛筆と違う」

 言いながら、長く芯の先が出た鉛筆の先を指差す。そのときみちるくんの襟からかすかにのぞく赤い痕が見えて、咄嗟に冷静を装った。

「デッサンはね、芯を長く出すためにカッターナイフで鉛筆を削るの」

「へえー。知らなかったです」

 ふたりで拾い集めた鉛筆をケースに入れて蓋を閉める。みちるくんの方を見ると彼は作品棚の前で屈んでいた。

「何してるの?」

「これ、おれのデッサン」

 ふふっと笑いながらみちるくんが作品棚から取り出し、わたしに見せたのはバスケットボールとレンガのデッサンだった。「まじで下手ですけど」と付け足してみちるくんは笑う。

 みちるくんのデッサンはHBしか使っていないような色の薄さで画面に対して小さく描かれてるから主張が弱く感じるけど、形は取れているし構図もきれいだった。みちるくんの薄くて整った顔に似てるような気がして、以前「デッサンはその人の雰囲気が出るよ」と栂屋先生が言っていた言葉を思い出す。そのときは先生の言っている言葉の意味がわからなかったけれど、今更になって理解する。

 バスケットボールとレンガはわたしも最初の美術の授業で描いたモチーフだ。このときの授業が楽しくて美術部に入部することを決めたきっかけだった。美術部に入ると伝えたら、ゆうちゃんたちは驚いてたっけ。みんな運動部のマネージャーだから文化部は意外だったのかもしれない。いつかの会話を思い出し、懐かしい気持ちになるけれど振り返る思い出にみちるくんがいなくて、それがとても寂しい。

 校内で見かけるみちるくんは背が高くて顔も整っているから、みんなの目を引いていた。ゆうちゃんたちもみちるくんを見てはしゃいでいたけれど、わたしはいかにもモテそうなみちるくんを雲の上の人だと決めて興味を抱かなかった。実際のみちるくんはやさしくておだやかな性格だったから一緒にいて心地がよくて、勝手に決めつけてしまったことを今更後悔する。

「形もきれいだし、淡くてやさしい色がみちるくんっぽくて好きだよ。そのデッサン」

 わたしの言葉に照れ臭そうに笑って「恥ずかしいです」と画用紙で顔を隠した。

「ね、みちるくんのデッサン貸して」

「あ、はい。どうぞ」

 壁面に貼った自分のデッサンを外して、代わりにみちるくんのデッサンを壁に当てる。画鋲を差し込もうとしたときみちるくんがわたしの手を遮った。

「ダメです。おれの絵、下手すぎて」

「下手じゃないし、ここにはわたしたちしかいないから。ほら、隣同士だよ」

 画用紙に画鋲を刺して壁に貼り付ける。わたしの大きく濃いデッサンとみちるくんの小さく薄くデッサンが並ぶ。

「隣同士って先輩可愛すぎます」

 みちるくんは右手で顔を覆って隠す。何が可愛いのかさっぱり分からないし、わたしからしたらみちるくんの方が断然可愛いのだけれど、彼の目に映るわたしは可愛いらしい。

 わたしは先輩だからみちるくんを引っ張って、しっかりしたところを見せたいなんて思ってしまうけど、多分うまくはできていない。し、そうだ、今日から同い年だったのだと思い出す。

「ちょっと、座ってもいい?」

「いいですよ」

 この美術室は忘れたくないからもう少しここに居たかった。いつもデッサンを描いている場所に椅子を置いてに座る。窓から差した陽がローファーの先まで伸びている。そしてそのつま先にみちるくんのスニーカーがある。

「おれ、絵描いてる先輩好きです」

「ありがとう。照れるなあ」

「絵描いてないときの真海先輩も大好きですけどね」

 みちるくんがどうしてわたしのことを愛してくれているのか不思議でしょうがない。一目惚れなんてされるような人間じゃないと思っているし、こんなに魅力的な男の子がわたしだけをずっと見てくれていた、なんて少女漫画みたいだ。みちるくんがわたしをヒロインにしてくれたんだ。

「全部好きで、おれ、おかしくなりそう。いや、もうおかしいか」

 みちるくんがわたしの手をとってやさしい温度が伝わってくる。窓際から入り込むしかりが、みちるくんの顔の半分に影を作ってうつくしい。みちるくんはアーモンド型のきれいな目でわたしを見据えている。

「ずっと頭が沸騰してるみたい」

「それは、わたしも同じだよ」

 美術室の外を往復するみちるくんに気づいていたらもっと早くにこうしていられたのかな。恋人として学校生活を送れていたのかな。存在しない日常を空想する。

 放課後にデートをしたり、お昼ごはんを一緒に食べたり、校内デートも楽しいけどやっぱり普通のカップルみたいなことをしてみたい。みちるくんといろんなところにいって、まだ知らない表情をもっと知りたい。

「真海先輩の傍に居られるなんて、願いが叶ったのかな」

「そんなこと願ってたの?」

「ずっと願ってましたよ」

 あはは、と笑って「ばかですよね、おれ」と付け足すから、首を横に振った。


「ありがとう。みちるくん、行こっか」

 みちるくんが差し出した手を握り返す。みちるくんの骨ばった手の感触はもう覚えてしまった。心からすきだな、と思う。美術室のドアを閉めると白い廊下に蝉の鳴き声が反響して、夏のにおいがした。

 わたしはどんな世界であっても、みちるくんと出会ってそして恋に落ちるんだろう。根拠もないけれどなんとなく、そんな気がした。

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